第85話 回収屋の足跡
護送兵の証言は、その場でもう一度だけ確かめられた。
街道を外れた場所。
峡谷側へ落ちる旧道。
橋の手前に、崩れた石碑。
男は苦しそうに息を継ぎながら、そこまでははっきり言った。
「見間違いじゃないんだな」
ガランが低く確認すると、護送兵は顔色の悪いまま頷いた。
「あの道です。馬車を捨てて……人だけ、そっちへ」
それで十分だった。
逃げたんじゃない。
運ばれたんだ。
しかも、あらかじめ用意された道へ。
夜明け前の宿場はまだ静かだったが、俺たちの周りだけは空気が張っていた。
動くのは五人。
ガラン、俺、コルト、リアン、バルド。
大人数で入れば足が重くなるし、見つかるのも早い。
テオは宿場に残る。
帳面、替え馬、通行記録、宿場の出入り。
内側の段取りを崩す役だ。
「こっちはこっちで拾います」
テオは帳面を抱えたまま言った。
「外の跡と宿場の記録がつながれば、回収の流れそのものが見えるはずです」
「頼む」
ガランが短く返す。
「こっちは現場の跡を追う。そっちは帳面と通行記録、それに替え馬の動きを調べてくれ」
ミナは宿の前で俺たちを見送った。
「無理に押さないでください。戻るって決めたら、迷わず戻ること」
「分かってる」
俺が答えると、ミナは俺じゃなくガランを見た。
「ガランさんもです」
「分かってるよ」
ガランはそう言ったが、声は硬かった。
宿場を出てしばらく進むと、街道脇に崩れた石碑が見えた。
護送兵の言っていた場所だ。
そこから先へ下る旧道は、今の街道より細く、石が露出している。
左は岩肌。
右は落ちればそのまま谷へ消えそうな斜面だった。
朝の光は入っているが、道の曲がりごとに視界が切れる。
先へ進むほど、向こうの場になる。
『前方、見通しが悪いです』
リラが頭の奥で言う。
『旧道は幅も狭い。伏せる場所も多いです』
分かっていた。
だから俺は、最初に戻る線だけ決めた。
「崩れた石碑から数えて、三つ目の曲がり角までです」
歩きながら言う。
「そこを越えて見張りの跡が増えたら、一度戻ります」
バルドが眉を寄せた。
「先に小屋があってもか」
「小屋があってもです」
俺は頷いた。
「入る時に戻る線を決めておかないと、見つけた瞬間に欲が出ます」
ガランが横目だけで俺を見た。
「……今回はその役で来てる。遠慮なく言え」
旧道に入ってすぐ、コルトが最初の跡を見つけた。
岩陰の土が、そこだけ少し深く沈んでいる。
「止まってるな」
コルトがしゃがみ込み、指先で土をなぞってから、岩陰の先へ目を向けた。
「しかも、休んだ跡じゃない。この位置からだけ、次の曲がりの先が見える」
ガランが低く聞く。
「進路の確認か」
「その線が濃い。足は前を向いたままだし、戻った跡も、その場で左右に広がった跡もない。ここで立ち止まったのは、後ろの様子を見るためじゃない。先の様子を確かめる役だ」
俺も横に並んだ。
その少し後ろに、別の沈みが残っている。
見える跡そのものは浅い。
けれど、右足だけ沈みが少し深い。
左は流れていて、踏ん張ったのは片側だけだ。
『左右差が続いています。片側荷重の停止痕です』
リラの声が頭の奥で静かに入る。
『しかも、その場で置き直した形がありません』
俺は跡を見直した。
「……こっちは、重いものを片側で支えたまま止まってます」
俺は言った。
「両手で抱えていたなら、左右がもう少し揃うはずです。これは肩か腕のどちらかに重さを預けた跡です。しかも、すぐには地面へ下ろしていない」
少し進むと、同じような跡がまた出た。
視界が切れる岩陰ごとに、先を確かめるように止まった跡があり、その少し後ろに、重いものを支えた足跡が残っている。
コルトが道の先を見たまま言う。
「役割が決まっている。先導者が先に入り、その後ろを運搬者が通ってる。」
ガランが短く頷く。
「段取りで動いてるってことか」
「はい」
俺も頷いた。
「雑に逃げたんじゃない。止まる位置も、運ぶ側が重さを支え直す位置も決まってます。この先も、視界が切れる場所ごとに同じことをしているはずです」
リアンは道の端にしゃがみ、石の間に残った布の繊維をつまんだ。
「薬草の匂いがします」
「傷薬か?」
バルドが聞く。
「それもあります。でも、眠りを誘う草が少し混じってます」
リアンは指先の匂いを確かめた。
「歩けない人を静かに運びたい時に使う配合です」
その一言で、背中のあたりが冷えた。
三人は逃げたんじゃない。
歩かされたか、運ばれたか、そのどちらかだ。
しばらく進むと、道の真ん中ではなく、端にだけ残された跡が見えた。
深くはない。
だが、見つからないように消すこともできたはずの跡だ。
石の陰に隠せた土の崩れが、わざと半端に残されている。
「最後尾の役だ。後ろを確かめながら進んでる」
コルトが言う。
「追ってくる側に、『まだこっちだ』と思わせる残し方をしてる」
「早く来い。ただし、追いやすい形では来させない、か」
ガランが渋い顔をした。
俺は足元を見ながら歩いた。
重い荷を運んだ跡はある。だが、踏み込みの深さが揃っていない。
急いで運んだようにも見えるし、人数が多いようにも見える。
追う側に、運び方を読み違えさせる残し方だった。
右足が深い場所が続いたあと、次の曲がりで左足が深くなる。
持ち替えている。
しかもその持ち替えをする場所まで、岩陰ごとに選んでいる。
道を知っている足だ。
「危険が上がってます」
俺は言った。
「追跡者を遅らせる跡が増えた。持ち替え位置も視界の切れる場所に寄ってる。この先で見張りが近いかもしれません」
「三つ目の曲がりだな」
ガランが前を見る。
ちょうどその先、谷側へ張り出した岩の向こうに、小さな建物の角が見えた。
板壁は黒ずみ、屋根も片方が落ちている。
だが、完全な廃屋には見えなかった。
「小屋か」
バルドが低く言う。
「中継ですね」
リアンが答えた。
「休むなら、あそこしかない」
「戻る線の手前です」
俺は小屋と道の間を見た。
「入るなら、ここで形を決めてからです」
ガランはすぐ頷いた。
「バルド、前に出すぎるな。塞がれたら、盾で押し返せ。コルトは、自分たちが進む向きの右手にある、見通しの利く場所と見張り位置を確認しろ。リアンは後ろと中の気配。セイは入口の足元と中の動き、両方見ろ」
「分かった」
小屋の前まで来ると、使われた跡は思った以上にはっきりしていた。
戸口の前の土が踏み固められている。
水を捨てた跡。
壁際に寄せた樽。
干した布を急いで外したみたいな縄の揺れ。
そして、床板の隙間から薄く流れた薬草の匂い。
ここは逃げ込み先じゃない。
一時的に人を置くための場所だ。
俺は戸口の前で足を止めた。
「待ってください」
ガランが片手を止める。
「何だ」
「入口をまっすぐ入ると危険です」
俺は板壁の下端を指した。
「左の床だけ、埃の切れ方が違う。人が通った跡じゃなくて、踏ませるために空けてあります」
コルトが横から覗き込んだ。
「罠か」
「床が抜けるか、音が鳴るか、そのどっちかです」
「なら右からだ」
ガランが低く言う。
バルドが前へ出た。
左足を小さく前に置き、盾を体の前ではなく少し右にずらす。
正面から受けるためじゃない。
狭い入口で刃を滑らせる角度だ。
その瞬間だった。
右の窓枠の陰から、短い刃が突き出た。
狙いはバルドの首じゃない。
盾の縁の向こう、喉の手前。
俺は一歩出た。
右から来る線に合わせて、左足を半歩だけ後ろへ引く。
重心を右足に残し、体を薄く開く。
刃が肩先をかすめる位置まで流れたところで、前に残した右足を軸にして相手の手首へ肘をぶつけた。
刃の向きが上へ跳ねる。
「今!」
バルドの盾が、その空いた脇へ押し込まれた。
板壁が鳴り、窓枠の向こうの男が息を詰まらせる。
そこへコルトの短い矢が飛んだ。
狙ったのは胸じゃない。
右袖だ。
壁に縫い止めるように刺さり、男の腕が止まる。
同時に、小屋の中からもう一人が飛び出した。
低い体勢。
左手に短剣。
右手は何かを握っている。
ガランが正面から踏み込んだ。
打ち合わない。
男の一歩目の内側へ自分の足を差し込み、肩で押し、逃げ道を削る。
狭い戸口で大振りはできない。
だからこそ、位置を奪う。
男は後ろへ逃げようとした。
だが、そこへリアンの短い祈りが入る。
「灯よ、見えろ」
淡い光が男の足元を照らした。
床板の割れ目が浮き、逃げようとした足が一瞬だけ止まる。
その半拍で、ガランの肘が相手の胸に入った。
息が抜ける音がした。
もう一人、奥から裏口へ走った気配がした。
コルトがすぐ振り向く。
「逃がすな」
俺も裏へ回ったが、外へ出た時には石の陰に姿が消えていた。
谷側へ降りる小さな獣道だけが、薄く崩れている。
「一人抜けました」
「深追いするな」
ガランが即座に言った。
「小屋を押さえる」
それで良かった。
ここで散ると、向こうの思う形になる。
中を確認すると、やはりここは中継点だった。
壁際に替えの外套が二枚。
干し肉の切れ端。
水袋。
眠り草を混ぜた薬の残り。
そして机の上には、粗く描いた地図が一枚あった。
街道そのものは雑だが、旧道と谷沿いの分岐だけが妙に細かい。
「待たせるための小屋だな」
バルドが吐き捨てるように言う。
「逃げ切るための場所じゃねえ」
床際では、さっき窓から刃を出した男が縛られていた。
息はある。
だが目つきは硬く、すぐに口を割る顔じゃない。
「誰の指示だ」
ガランが問う。
男は答えない。
「三人はどこへ運んだ」
沈黙。
口を結んだまま、視線だけが一度、机の地図へ流れた。
その瞬間、俺は違和感を見た。
男の顎がわずかに引かれ、喉の下が一度だけ強く動いた。
「口の中に毒です!」
俺は叫んだ。
バルドがすぐに男の両肩を押さえ、ガランが顎を掴む。
俺は右手で頬を押し上げ、左手で下顎をずらした。
遅かった。
奥歯の裏で何かが砕ける音がした。
リアンがすぐに膝をつく。
「吐かせます。口を開けて」
光が男の喉元へ落ちる。
男は苦しそうに体を震わせ、黒っぽい泡を少しだけ吐いた。
全部を飲み込ませはしなかったが、顔色が一気に悪くなる。
「喋れ」
ガランの声は低かった。
「今なら、まだ間に合う」
男の目が揺れた。
痛みに耐えている目じゃない。
命令と恐怖の間で揺れている目だ。
「……回収命令だ」
かすれた声だった。
「俺たちは……運ぶだけだ」
「誰をだ」
「三人を……王都へ、行かせるな」
部屋の空気が止まった。
男はさらに何か言おうとした。
だが、喉が詰まり、血の混じった咳が先に出る。
リアンが光を強める。
「まだ少しなら持ちます」
だが、男は首を振った。
「名前は……知らない。受け取り先が……先に……」
そこで言葉が切れた。
意識までは落ちなかったが、もうまともには喋れない。
リアンが息を確かめ、顔を上げる。
「命は繋ぎました。でも、これ以上は無理です」
十分だった。
三人は自分で逃げたんじゃない。
運び手がいた。
しかもその上に、命令を出す別の誰かがいる。
ガランは地図を手に取った。
「ただの逃亡じゃねえ」
低い声だった。
「王都で困るやつがいる」
コルトが裏口の方を見たまま言う。
「逃げた一人が、先へ知らせに行きます」
「ああ」
俺は頷いた。
「こっちが来たことも、末端を押さえたことも、もう向こうへ行く」
危険が上がった。
だが、線は前よりはっきりした。
旧道。
中継小屋。
運び手。
回収命令。
王都へ行かせるな。
ばらばらだったものが、ようやく一つの形になり始めていた。
ガランが小屋の外へ出る。
「ここから先は、もっと向こうの場だ」
谷の先を見たまま言う。
「だが、もう止まれねえ」
俺も外へ出た。
朝の光はもう高くなっているのに、峡谷の底はまだ薄暗い。
逃げ道じゃない。
運ぶための道だ。
そして、王都へ着かれる前に消したい何かがある。
その事実だけが、足元より先に重くなっていた。
小屋の中で、縛られた男がもう一度だけ喉を鳴らした。
途切れた声で、最後にそれだけを落とす。
「……次の受け渡しは、急ぐ」
ガランが振り返る。
コルトが谷の先を睨む。
バルドは盾を持ち直し、リアンは男の命を繋いだまま唇を結んだ。
俺は見えない前方を見た。
――遅れれば、今度こそ三人は“人”じゃなくなる。
荷として消える前に、追いつかなければならなか




