第110話 裁き屋の噂
『セイ。西外れの裏町で、さっきまでなかった小さな祈りの揺れが増えています。一つではありません』
石階段へ戻る手前で、リラが低く告げた。
「西外れの裏町で、線の揺れが増えてる!」
俺はすぐに大声でみんなに告げた。
「小さいけど、一つじゃない。誰かが同時に動いてます!」
「急げ」
バルドが短く言った。
俺たちは地下通路を蹴るように走り、石階段を駆け上がった。
地上へ出た瞬間、空気がざわついていた。
西外れの裏町へ続く通りで、広場の方から多くの人たちが早足で離れている。
振り返りながら歩く者。
子どもの手を引いて急ぐ者。
店先へ駆け込む者。
その流れを見て、店の戸があちこちで慌てて閉まり始めていた。
まだ昼前なのに、誰も大声は出さない。
代わりに、小さな声だけがあちこちで交わされていた。
「子どもを中へ」
「裏の細道は使うな」
「今日はもう閉めろ」
ただの騒ぎじゃない。
広場で何かが起きたと知って、みんな我先にと離れていく動きだった。
「……もう広がってるな」
バルドが低く言った。
通りの先へ目をやる。
人の視線が、一か所に集まっていた。
俺たちがその先へ急ぐと、石畳の上にひっくり返った荷車が見えた。
荷台の布は裂け、木箱が二つ割れている。
だが、荷主の姿はない。
その横で、革鎧の男が二人、手首を縛られたまま転がされていた。
死んではいない。
胸は上下している。
二人とも、気絶させられているだけだった。
「護衛だけ残して、荷主はいないか」
バルドが周囲を見回す。
「逃げたのか、連れていかれたのか」
「まずは荷を見ます」
テオが杖を少し浮かせた。
「変なものが混じっていないか、確かめたい」
「私は周りを見ます」
サラがすぐに動く。
「怪我人がいるかもしれません」
俺は石畳にしゃがみ込んだ。
割れた木箱の近くに、流れが残っている。
逃げた人の線。
広場から離れた住民の線。
それと、短く鋭く入り、すぐに抜けた線。
襲った側は多くない。
三人か、四人。
無駄に暴れた形じゃなかった。
『荷車の周辺に、濁りに近い揺れが少し残っています』
リラが告げる。
『量は多くありません。ですが、祈り灯の近くへ運ばれたら面倒です』
「荷に、嫌な揺れが残ってる」
俺は立ち上がった。
「多くはないけど、祈り灯のそばに運ばれたら面倒です」
「やっぱりつながってるか」
バルドが顔をしかめる。
「地下だけの話じゃねえな」
テオが割れた木箱の中をのぞき込んだ。
香辛料の袋に混じって、小さな瓶が何本も入っている。
そのうち一本だけ、口が割れて黒い液が石畳へしみていた。
「普通の荷ではありませんね」
テオが低く言った。
「濁りそのものではありませんが、流れを汚す側の薬品に近いです」
「闇荷か」
「少なくとも表へ出す荷ではないでしょう」
バルドは気絶した護衛の一人を足先で軽く押した。
「見た目は商人の護衛だが、まともなやつには見えねえな」
そのとき、サラが通りの端から戻ってきた。
「怪我人はいません。みんな逃げるのが早かったみたいです」
「先にまずい荷だと分かったのかもしれないな」
バルドが言う。
俺も同じことを考えていた。
荷車のまわりに護衛がいて、広場でひと悶着起きれば、この辺の人間はすぐに離れる。
悪い噂のある商人や貴族の荷なら、近くにいるだけで巻き込まれることがある。
だから、みんな先に距離を取ったんだ。
「聞きます」
俺は言った。
「追うのは後です。今は、ここで何が起きたかを聞いた方が早い」
「同感だ」
バルドがうなずく。
「細道に突っ込むには、危険が読めねえ」
「なら、分けましょう」
テオがすぐに続けた。
「私は荷と荷札を見ます。サラは住民の様子を。バルドは現場を見た者を」
「俺は」
「お前は全部のつなぎだ」
バルドが先に言った。
「お前が聞いて、線を選べ」
「分かりました」
最初に声をかけたのは、広場に面した乾物屋の女主人だった。
扉を叩くと、細く開いた隙間から鋭い目がのぞいた。
迷惑そうな顔だ。
サラが一歩前へ出る。
「怪我はありませんか」
その一言で、女主人の肩の力が少しだけ抜けた。
「教会の人かい」
「はい。話せる範囲でいいです」
女主人は周りを確かめてから、扉をもう少し開けた。
「まただよ」
「また、ですか」
サラが聞くと、女主人は嫌そうにうなずいた。
「ひと目見て、怪しい荷だと分かるんだ。護衛の目つきとか、荷主の顔とか、貴族の旗とか。こんな場所を通れば、すぐに分かる」
「それで、みんな先に離れるんですね」
「そうさ。近くにいれば巻き込まれるからね。護衛に絡まれることだってある」
女主人は吐き捨てるように言った。
「荷が消える日もある。護衛だけ転がる日もある。でも、こっちからすりゃ、厄介ごとが始まるのは同じさ」
「誰かが知らせるんですか」
「さあね」
女主人は肩をすくめた。
「でも、たまに回るんだよ。今日は裏へ出るな、とか。子どもを外に出すな、とか」
「それで、みんな動く」
サラが静かに言うと、女主人は小さくうなずいた。
「そうさ。この辺で生きてりゃ分かる」
女主人は声を落とした。
「裁き屋が動く日は、空気が違う」
裁き屋。
地下の祈り手が言っていた名前が、地上でも出た。
「そいつらは、普通の住民は狙わないんですか」
サラが聞く。
「少なくとも、私はそう見てるよ」
女主人はすぐに答えた。
「狙われるのは、悪徳徴税官とか、人を売る手合いとか、変な荷を通す商人だ」
「見たことは」
「顔はない。でも、手際はいい。今日だってそうだろ」
女主人は広場をあごで示した。
「死体を転がして見せしめにするなら、こんな静かじゃ済まない」
店を離れると、今度は水場のそばにいた荷運びの若い男が目に入った。
さっき広場から走ってきた一人だろう。
まだ息が荒い。
バルドがまっすぐ近づく。
「見たな」
男は身を引いた。
「脅す気はねえ。見たままを聞かせろ」
男は少しためらったあと、小さくうなずいた。
「黒布の三人組だった」
「三人」
俺が聞き返す。
「ああ。最初に馬を止めたやつが一人。そのあと、護衛を倒したやつが二人」
「刃物は」
「抜いてた。けど、長く振ってねえ」
男は両手で動きをまねた。
「でかい護衛が踏み込んだら、足をずらされて、そのまま倒れた」
「足をずらされた?」
「そう見えた。一人目が前へ出る前に、もう膝が折れてた」
バルドの目つきが少し変わる。
「力任せじゃないな」
「ああ」
男も頷く。
「殺す気はなかったみたいだ。落として、縛って、それで終わりだ」
「荷主は」
「護衛が倒れたあと、誰かに引っ張られて消えた」
「誰かに、か」
「黒布のやつらかは分からねえ。だが、広場の端で別のやつが動いたんだ。荷主を連れていったのがそいつかもしれねえ」
別口か。
地下で聞いた話が頭をよぎる。
濁りを置く側と、先に人を避けさせる側は、同じとは限らない。
ここでも、もう一つ手が入っているのかもしれない。
戻ると、テオが荷車の荷札を調べていた。
「どうだ」
バルドが聞く。
「削られています」
テオは荷札の端を指した。
「受け渡し先の印だけが消されています。しかも、慣れた手つきです」
「荷主の名は」
「そちらも消されています」
テオは荷札を裏返した。
「ですが、仮の保管印が二重です。急いで表を通さず回した荷によくある形です」
「裏荷だな」
「ええ」
テオは割れた小瓶を見た。
「しかも、濁りに近い薬品を混ぜています」
「嫌な荷だ」
バルドが吐き捨てた。
そのとき、サラが小さな子どもを連れた若い母親と一緒に戻ってきた。
母親は怯えていたが、サラの隣に立つと、なんとか口を開いた。
「うちの子、前に変な荷を運ばされそうになったんです」
「誰に」
サラがやわらかく聞く。
「闇商人です。断ったら、しばらく見張られました」
「それで、どうなったんですか」
「次の週、その商人の倉が荒らされました」
母親は子どもの手を強く握った。
「だから、みんな言うんです。裁き屋は悪い奴だけを狙うって」
「信じてるのか」
バルドが聞く。
母親は困ったように首を振った。
「信じたいわけじゃありません。でも、助けられた人がいるのも本当です」
「濁りの荷のことは」
今度は俺が聞いた。
母親の声がさらに小さくなる。
「あります。そういう時は、裁き屋とは別の感じがします。今日もそうでした」
「別の感じ?」
「人を見てないんです」
母親は震える声で言った。
「裁き屋って呼ばれる方は、まだ人を見てる。でも、もう一つの方は、荷しか見てない」
それで十分だった。
ただの義賊じゃない。
ただの闇商人狩りでもない。
西外れでは、少なくとも二つ以上の手が同じ場所を使っている。
一つは、悪人だけを狙っているように見える手。
もう一つは、濁りに近い荷を動かす手。
そのどちらか、あるいは両方が、残る二人の失踪にも触れている。
『セイ』
リラが呼んだ。
『新しい接点があります』
『どこだ』
『こちらへ近づいています。敵意は薄いです』
俺が顔を上げると、路地の入口に十歳くらいの少年が立っていた。
汚れた上着の裾を握り、こっちを見ている。
逃げるかと思ったが、サラがしゃがんで目線を合わせると、少年はおずおずと近づいてきた。
「……これ、渡せって」
少年が胸元から取り出したのは、薄い灰色の布切れだった。
「誰に」
バルドが聞く。
少年は俺を見た。
「線が見えるやつに、って」
背中が少し冷えた。
「誰が置いていった」
「知らない。朝、水桶の下にあった」
「それだけか」
「うん。急いだ方がいいって」
サラが布切れを受け取り、俺に渡した。
上等な内布だった。
端に小さな刺繍がある。
擦れている。
でも、完全には消えていない。
見覚えがあった。
調べた記録の中で、何度も見た紋だ。
「これ……」
俺が息をのむと、テオがすぐ横からのぞき込んだ。
「間違いありません」
テオの声が低くなる。
「残る二人のうち、一人の家の紋です」
バルドが周囲を見回した。
さっきまでただの噂だった裏町が、一気に別の顔になる。
「噂拾いで終わらなくなったな」
「ああ」
俺は布切れを握った。
ただの落とし物じゃない。
わざわざ俺に渡された。
つまり、向こうは俺たちの動きも知っている。
『布に残るマナはまだ新しいです』
リラが静かに告げる。
『長く放置されたものではありません。まだ、追えます』
広場のざわめきは、もう遠かった。
裁き屋の噂の奥で、消えたはずの一人がまだこの裏町のどこかにいる。




