第104話 仮の居場所
戻った西棟の部屋は、もう寝るための部屋じゃなかった。
机の上には、王都北外れで回収した黒い板の受領札と、外見を書き留めた紙が置かれていた。
その横には、前に回収していた人工物の欠片の記録。
さらに、東と西から届いた小規模異常の報告書。
部屋の隅には、王都側の仮保管札が付いた封印布包みが、手を触れない位置にまとめて置かれていた。
調べる先が増えたせいで、この部屋が急に手狭に見えた。
「これ、今夜はどこで寝るんですか」
バルドさんが、壁際の荷を見ながら言った。
「紙の上じゃないですか」
テオさんがさらっと返す。
「駄目です」
サラが即答した。
「紙の上で寝るのは、体にも頭にも良くありません」
「そこ、駄目出しの角度が的確すぎるな……」
思わずそう言うと、サラは受領札と記録の置かれた机を見たまま、小さく息を吐いた。
「寝る場所と、考える場所が混ざると、無理に気づくのが遅れます」
その言い方に、俺は返す言葉を少し失った。
実際、その通りだった。
昨夜、王都北外れから戻ったあと。
仮保管前に黒い板を見て、テオさんは言った。
「厚みは違いますが、流れの崩れ方が近いですね」
前からある人工物の欠片と、同じ嫌な感じがあった。
しかも東と西でも、似た異常の報告が出ている。
ここをただの仮眠場所のままにしておくのは、もう無理だった。
扉が叩かれたのは、ちょうどその時だった。
入ってきたのは、昨日も顔を合わせた王都側の実務官だった。
若いが、足が速い。
急ぎの話を運ぶ人間の歩き方をしている。
「失礼します。西棟の仮部屋について、上から許可が下りました」
「早いですね」
テオさんが言う。
「王都北外れの件で、皆さんを寝泊まりしているだけの客扱いにするのは無理だろう、と」
それはありがたい話だった。
でも、実務官は続けた。
「ただし、豪華な客間は使えません。目立ちますし、出入りも増えます。逆に、倉庫だけを渡す案も出ましたが、それはサラ様が休養にも祈りにも向かないと強く止められまして」
「止めました」
サラが即答する。
「湿気のある部屋で休ませる気なら、私もそこでは寝ません」
「……言い方が強い」
「必要なので」
強い。
けど、その強さは今の俺たちにはありがたかった。
俺は立ち上がった。
「候補を見ます。実際に見て決めましょう」
「はい。三か所あります」
実務官が持ってきた板札を机に並べる。
「西棟に近い旧客間。裏通りに面した空き倉。それと、中庭を挟んだ事務別館の二階です」
「順番は」
バルドさんが聞く。
「守りやすい順なら旧客間。目立たなさなら空き倉。出入りの管理と実務のしやすさなら別館です」
俺はうなずいた。
「じゃあ、全部見てから決めます」
最初に通された旧客間は、広かった。
広すぎた。
絨毯が厚く、棚もきれいで、窓の外まで手入れが行き届いている。
王都の丁寧さが、そのまま部屋になったみたいだった。
「駄目です」
見てすぐ、テオさんが言った。
「早いですね」
「見られますから」
窓を指さす。
「向こうの渡り廊下からも、庭からも、人の動きが読めます。紙を広げる場所じゃない」
バルドさんも壁を軽く叩いた。
「音が抜けるな。守るなら守れるが、守ってるって見えるのが一番面倒だ」
サラは寝台の端に触れて、すぐに手を離した。
「体を休めるには良い部屋です。でも、休むためだけの部屋ですね」
俺も同じ感想だった。
ここは、居るだけで客になる。
今の俺たちが欲しいのは、もてなしじゃない。
動くための足場だ。
次の空き倉は、逆だった。
裏通りに面していて、目立たない。
けれど、入った瞬間に分かる。
空気が重い。
石壁が冷えていて、床も少し湿っていた。
「ここは論外です」
またサラが早かった。
「先に言われた」
俺が笑うと、サラは真顔のまま天井を見た。
「祈りの通りが弱いです。休めない部屋は、判断も鈍ります」
テオさんも床を見て眉を寄せる。
「紙が反ります。インクも駄目になりますね」
「それは記録係としての死活問題か」
「死活問題です」
バルドさんは入口と裏口を見比べてから、肩をすくめた。
「逃げ道は悪くないが、ここに帰ってきたいとは思わんな」
全員一致だった。
最後に案内されたのは、中庭を挟んだ事務別館の二階だった。
西棟から歩いてすぐ。
正面の階段と、裏の細い外階段の二つがある。
部屋は三つ。
大きな作業机を置ける中央の部屋。
寝台を二つずつ入れられる小部屋が二つ。
窓はあるが、外から覗かれにくい位置にある。
下の階には実務官の詰所があり、教会側の連絡口にも遠くない。
入った瞬間、俺にはこの場所が動かしやすいと分かった。
人が来る。
紙が集まる。
急ぎの話は裏から入る。
休む部屋は奥で分けられる。
派手さはない。
でも、無理なく回る。
『ここがいちばん安定しています』
リラが静かに言った。
『表の導線と裏の導線が分かれています。急ぎの移動にも向いています』
俺は部屋の真ん中で一度だけ目を閉じた。
北。
東。
西。
それぞれの異常地点。
西棟。
教会。
実務詰所。
この別館。
全部を無理なくつなげるなら、ここだった。
「ここにします」
俺が言うと、バルドさんがうなずいた。
「前に立つなら悪くない」
テオさんは窓際へ歩き、光の入り方を見た。
「記録もできます。夜も灯りが回しやすいですね」
サラは部屋の奥の小さな壁龕を見て、ようやく少しだけ表情を緩めた。
「祈りの場も取れます。水差しも置ける」
「決まりですね」
実務官が胸をなで下ろす。
「では、ここを皆さんの仮拠点として回します」
その言い方が良かった。
宿でも、詰所でもない。
仮拠点。
今の俺たちに必要なのは、まさにそれだった。
そこからは早かった。
決まると、人は動ける。
バルドさんはまず中央の大机を壁から離して置き直した。
「全員が同じ面を見るな。囲める形にしろ」
その一言で、部屋の空気が変わる。
向かい合って座るための机じゃない。
同じものを見るための机になった。
テオさんは報告書を北、東、西で分け、さらに現場確認済み、未確認、再照合待ちに分けた。
紙札まで作っている。
「王都は人が多いぶん、話も紙も増えます。混ざる前に分けておかないと駄目です」
「記録係の言葉が毎回ちょっと重い」
「重くしてるのは現実です」
サラは小部屋の一つに水差しと木杯を置き、もう一つの寝台の位置を決めていく。
「休む部屋と、考える部屋は分けます」
「そこまで分けるのか」
「必要です。戻ってきたら、まず水。座るのはそのあとです」
「昨日から容赦ないな」
「昨日から必要なので」
本当にぶれない。
俺は中央の机に王都地図を広げた。
王都北外れの祈り灯。
東の小異常。
西の小異常。
そこに、回収物の受領位置と、過去の人工物の欠片が見つかった場所を重ねていく。
机の上にあるのは、現物じゃない。
記録と地図と報告書だけだ。
黒い板と人工物の欠片は、研究窓口へ回す前の仮保管として、部屋の隅の封印布包みに収まっている。
「こうして並べると、ばらばらには見えませんね」
テオさんが地図をのぞき込む。
「守りを壊す場所だけを狙ってる感じでもない」
バルドさんが腕を組む。
「人が気づきにくくて、でも放っておくと困る場所ばかりです」
サラが静かに言った。
俺もうなずいた。
「祈り灯だけを壊したいわけじゃないんだと思います。街の流れを、少しずつ悪くしてる」
『送る場所と、受け取る場所の途中を狙っています』
リラが補う。
『祈りも、人の動きも、通るところで少しずつ削っている形です』
言われてみれば、そのほうがしっくりきた。
目立つ場所を一気に壊すんじゃない。
人が毎日使う流れを、細く痩せさせる。
嫌なやり方だった。
「報告の入口もまとめましょう」
俺は地図から目を上げた。
「教会側と実務側、どっちから来ても最後はここへ回す形にしたいです」
実務官がすぐにうなずく。
「できます。ただ、書き方がばらつきます」
「なら、揃えるのは四つだけでいいです」
紙を一枚引き寄せる。
「場所。いつからか。祈りや灯を足して戻るか戻らないか。それと、現場がどう感じたか」
「感じたか、ですか」
サラが聞き返す。
「祈りが届く感じがあるかないか、でいいと思います」
「それなら教会側も書けますね」
テオさんがうなずいた。
「実務側にも回しやすいです」
新しい決まりは、それくらいでいい。
複雑な書式は、今は要らない。
まず回る形にするほうが先だった。
昼を過ぎる頃には、部屋の顔が変わっていた。
中央の机には地図と報告。
壁際の棚には紙束。
入口近くには外套と予備灯。
奥には水差し。
小部屋には寝台。
誰が何をするかが、部屋の置き方だけで見えるようになっていた。
「こうして見ると、ようやくチームらしくなりましたね」
実務官がぽつりと言った。
バルドさんが鼻で笑う。
「遅いくらいだ」
「王都では、こういうのは紙のほうが先に決まるんです」
「現場は逆だ。まず人が噛み合う。紙はそのあとでいい」
それは、ガランさんが言ってもおかしくない言葉だった。
俺は少しだけ笑った。
村にいなくても、線の引き方だけはちゃんと残っている。
そのあと、教会側の窓口が来て、異常報告の回し方を確認していった。
続いて実務側の窓口も来て、夜間の出入り札を置いていった。
表の入口から入る報告。
裏階段から持ち込まれる急報。
その両方が、この部屋に集まる。
王都での足場が、ようやく形になった気がした。
その頃には、俺の中でも次が決まっていた。
現場だけ回っていても、前には進まない。
場所の異常は拾えた。
次は、人から話を聞く番だ。
「三貴族の件ですけど」
日が傾きかけた頃、実務官がもう一度現れた。
今度は、入ってすぐ声を落としていた。
「王都側で押さえている一人について、整理に入れる状態になりました」
部屋の空気が変わる。
バルドさんの背が少しだけ伸びる。
テオさんの手が紙の上で止まる。
サラは水差しの栓を静かに閉じた。
「話せるんですか」
俺が聞くと、実務官は慎重にうなずいた。
「長くは難しいでしょう。でも、今なら人払いをすれば」
『現場確認から、証言回収へ進めます』
リラの声が、いつもより少しだけ硬い。
俺は机の上の地図を見た。
北。
東。
西。
そして、封印布に包まれた回収物。
街の中に残った跡は拾った。
次は、それを人の証言でつなぐ番だった。
「行きましょう」
そう言うと、サラが先に木杯を差し出してきた。
「その前に、水です」
「……はい」
「今度は素直でいいです」
「学習しました」
「それなら結構です」
木杯を受け取りながら、俺は部屋を見回した。
ここは、ただ休むための場所じゃない。
異常と証拠と証言をつなぐための、最初の足場だ。
仮でもいい。
この王都で、ようやく俺たちの居場所ができた。
そして、その居場所の最初の仕事が、人の口を開かせることになるのだと思った。




