第101話 禄なき爵位と、自由の値段
屋に入った瞬間、昨日とは違う意味で息が詰まった。
豪華じゃない。
広くもない。
机と椅子。
棚に並んだ書類箱。
壁際の水晶灯。
それだけだ。
なのに、昨日の大広間よりよほど逃げ場がない気がした。
「顔が昨日より固いな」
先に来ていたバルドさんが、椅子にもたれたまま言った。
「昨日の続きだと思うと、そりゃ固くもなりますよ」
「気持ちは分かるが、今日も倒れるなよ」
「要求が低いようで高いな……」
反対側で、テオさんが小さく息を吐く。
「倒れられると、こちらの書類が増えるんです」
「人の体調を事務処理で測らないでください」
「測っていません。ただ、結果が面倒なんです」
その言い方がいつも通りで、少しだけ肩の力が抜けた。
部屋の奥には、王家側の実務官らしい男が一人。
ギルド本部の担当者が一人。
教会側の窓口役が一人。
そして、腕を組んだガランさんがいた。
昨日みたいな「見せる場」じゃない。
今日は、決める場だ。
机の上には、紙の束が三つに分かれて置かれていた。
王家。
ギルド。
教会。
肩書きが増えた実感はまだ薄いのに、紙だけはすでに重かった。
『形式としては健全です』
頭の奥で、リラが淡々と言う。
(健全って顔してる量じゃないだろ、これ)
『権限に説明が付くのは大事です。説明がない力のほうが危険です』
それは、そうだ。
分かってる。
分かってるけど、目の前に積まれると重い。
王家側の実務官が席を勧めた。
「セイ卿。本日は、正式謁見の補足ではありません」
「はい」
「昨日定められた立場で、今日からどう生きるか。その実務を確認する場です」
褒め言葉はない。
飾りもない。
だからこそ、言葉が真っすぐ重かった。
俺が椅子に座ると、実務官は一枚目の紙を開いた。
「まず確認します。セイ卿は、無領地一代男爵です」
「領地は持ちません。領民も持ちません。領地経営の義務もありません」
「……はい」
「次に、王国辺境特命官です。濁り、祈律異常、黒い膜など、理の異常に関わる現場対応を担います」
「さらに、理監の特別位が与えられます」
そこで言葉が一度切れた。
昨日も聞いたはずなのに、机の上で言い直されると意味が変わる。
偉くなった、じゃない。
担当が固定された、だ。
実務官は続けた。
「要点だけ言います」
「セイ卿は身分を得ました。権限も得ました。ただし、土地も軍も持ちません」
「平時は、これまで通り冒険者として活動して構いません」
俺は思わず聞き返した。
「……構わないんですか」
「構います」
答えたのはギルド本部の担当者だった。
「あなたを常勤官にして王都へ縛るつもりはありません」
「それをやれば、現場の足が死ぬ」
「あなたの価値は、王都の机に座ることではなく、現場で戻す線を引けることにあります」
その言い方は、妙にすとんと入った。
俺を持ち上げてるわけじゃない。
使い方の話をしてる。
だから分かる。
ガランさんが鼻を鳴らした。
「ようやく現場寄りのこと言いやがったな」
「本音です」
ギルド担当は顔色一つ変えなかった。
「ただし」
今度は教会側の窓口役が口を開く。
「自由と無制限は別です」
「理監として動く案件。王国辺境特命官として呼ばれる案件。その時だけは、個人ではなく公務として扱われます」
「その線を明確にするために、理の保全区の制度を使います」
新しい言葉が出た。
理の保全区。
肩書きの次は、今度は制度の名前か。
俺は言葉の続きを待った。
教会側の窓口役は、机の上の地図を開く。
王国の簡略図だった。
「濁り核。祈律異常。黒い膜。理の異常が確認された地点は、理の保全区に指定されます」
「その範囲では、セイ卿の現場判断が優先されます」
「領主軍。ギルド戦力。教会の祈り手。この三者は、その場ではセイ卿の判断に従う前提です」
「封鎖」
「避難」
「撤退」
「進行停止」
「いずれもです」
部屋が少し静かになった。
軽い権限じゃない。
俺が一番、分かる。
だからこそ確認した。
「じゃあ、逆に聞きます」
「どうぞ」
「俺が冒険者依頼の途中で、理の保全区にするべき異常を見つけた時はどうなります」
「その場で切り替わります」
答えは早かった。
実務官は迷わない。
「発見の時点で報告義務が生じます」
「ただし、報告を待っていて人が死ぬなら、現場判断を優先してください」
「あとから書類は整えます」
「死んだ人は戻りませんので」
そこで初めて、少しだけ空気が軽くなった。
きれいごとじゃない。
現場を分かってる答えだ。
『悪くありません』
リラが言う。
(珍しく甘いな)
『あとから書類を整える、と明言しましたから』
確かにそれは助かる。
かなり助かる。
テオさんが手を上げた。
「確認します」
「セイ一人に公務の窓口を背負わせると、現場より先に事務で潰れます」
「記録と報告の補助要員は、最初から付ける前提でいいんですね」
「はい」
実務官がうなずく。
「そのための理保全チーム第一陣候補です」
そこで、机の上の別の紙が開かれた。
バルドさんが眉を上げる。
俺もそっちを見る。
三人分の扱いが、そこに書かれていた。
《鎚灯り》。
バルド。
テオ。
サラ。
昨日はサラさんはいなかった。
村に残っていたからだ。
でも、扱いは今日ここで決めるらしい。
ギルド担当が読み上げる。
「《鎚灯り》はギルド籍を残します」
「常勤家臣にはしません」
「平時は従来通り、冒険者として依頼を受けて生活して構いません」
「ただし、公務時。理の保全区案件。セイ卿の正式出動案件では、半常勤の公認随員として扱います」
「出動手当」
「危険手当」
「宿泊費」
「移動費」
「回復資材費」
「装備維持費」
「必要分は制度で出します」
俺は思わず口を挟んだ。
「それ、俺が出すわけじゃないんですね」
「出させるわけがないでしょう」
テオさんがすぐに言った。
「あなたに財布まで背負われたら困ります」
「困るのは俺もなんだけど」
「なら安心してください。私も困ります」
バルドさんが笑う。
「つまり、前に立つ盾も」
「後ろで記録する理屈屋も」
「祈り手も」
「ちゃんと食わせる仕組みを先に作るってことだろ」
「いいじゃねえか。まともだ」
その一言が、少し大きかった。
まとも。
たぶん、今ほしかったのはそれだった。
俺一人に肩書きを付けて終わりじゃない。
支える側まで、最初から制度に乗せる。
それなら、首輪だけじゃない。
少なくとも、戻る線は残る。
ガランさんがそこで初めて口を開いた。
「で、話はそれだけじゃねえ」
そう言って、懐から折られた報告書を出した。
机の上に置かれた紙は、王都のものより少し荒い。
でも、見慣れた現場の紙だった。
「エルディアからの最新だ」
部屋の空気が少しだけ変わる。
王都の話から、村の話に変わる。
それだけで、腹の底の重さが別物になった。
「エドガー隊が北部の仮防衛線を進めてる」
「物見台の整備」
「巡回線の仮運用」
「抜け道の洗い出し」
「ここまでは予定通りだ」
そこまではよかった。
ガランさんの声色が落ちたのは、その次だ。
「だが、森の先を国境として見るなら、村はもうただの辺境村じゃねえ」
「北を見張る前線の村になる」
その言葉で、頭の中の地図が少し書き変わった。
エルディアは守る村だと思っていた。
もちろん今もそうだ。
でも、それだけじゃ足りない。
これからは、後ろじゃない。
前になる。
『位置の意味が変わります』
リラが静かに言う。
(分かる)
『村ではなく、線の結び目です』
それは、あまりうれしい表現じゃない。
でも、たぶん正しい。
実務官も報告書に目を通し、短くうなずいた。
「叙爵後すぐに村から報告が入る。悪くない流れです」
「悪くはない、で済ませる内容かそれ」
バルドさんが渋い顔をする。
「済ませはしません」
実務官は淡々と返した。
「だからこそ、今日この場で線を決めます」
俺は報告書の一節を見た。
仮防衛線。
物見台。
巡回線。
抜け道。
どれも戦うための言葉というより、戻るための準備だ。
そこに少しだけ救われる。
まだ、この国は全部を前に出す気じゃない。
守る気がある。
なら、やれることはある。
教会側の窓口役が、最後の紙を俺の前へ滑らせた。
小さな印だった。
大げさなものじゃない。
でも軽くもない。
「平時は自由に動いてください」
その声は静かだった。
「ですが、理の保全区でその印を使う時」
「あなたはもう、個人ではありません」
部屋がまた静かになった。
昨日よりも、ずっとはっきり分かった。
自由は残った。
でも、何をしてもいい自由じゃない。
どこで。
誰のために。
どの線のこちら側に立つか。
それを自分で決め続ける自由だ。
会議が終わって、部屋を出る。
廊下は昨日と同じ王城のはずなのに、見え方が違った。
横に並んだのは、バルドさんとテオさんだった。
昨日までは、頼れる先輩冒険者だった。
今日もそれは変わらない。
でも、それだけじゃなくなった。
少し先で、ガランさんが振り返る。
「ぼさっとするなよ」
「お前が背負うもんは増えた」
「だが、一人で持てって話じゃねえ」
短い。
でも、十分だった。
俺は小さく息を吐く。
爵位をもらった実感は、まだ薄い。
理監なんて肩書きも、まだ自分の名前に馴染まない。
けれど一つだけ、昨日よりはっきりしたことがある。
肩書きは一人に付く。
でも、その重さはもう、一人だけで持つ形にはならない。
そう思った、その時だった。
廊下の向こうから侍従が早足で来る。
手には、北部方面の封が入った筒があった。
「セイ卿」
足が止まる。
嫌な速さだった。
「エルディア北部防衛線より、続報が届きました」
王都で整えた線が、もう次の現場に触れてきている。
俺は筒を受け取った。
まだ封も切っていないのに、妙に重かった。




