第100話 王都で引く、新しい線
正式謁見の前に通された控室は、妙に静かだった。
広くはない。
けれど、狭くもない。
待つための部屋のはずなのに、落ち着くための空気がまるでない。
壁も、部屋に置かれた調度品も上等だ。
椅子も机も、村ではまず見ないくらい整っている。
なのに、座って楽になる感じはしなかった。
王城の中ではたぶん珍しくもない一室なんだろうけど、こっちからすると十分に息が詰まる。
「黙ると余計に固いな」
壁際に立ったまま、バルドさんが言った。
「元からです」
「開き直るな」
「開き直らないと持ちませんよ」
そう返すと、反対側でテオさんが小さく息を吐いた。
「持ってください。せめて入場が終わるまでは」
「要求が重い」
「今日は軽い要求しかしません」
軽い顔で言うことじゃない。
でも、そのやり取りがいつも通りすぎて、少しだけ助かった。
王城の中にいても、この二人がいると村の空気がほんの少しだけ残る。
部屋の奥では、ガランさんが腕を組んだまま黙っていた。
王都の飾りに染まる気はない、という立ち方だった。
貴族の空気にも、王城の静けさにも、あの人だけは染まらない。
けれど、だからこそ落ち着く。
たぶん俺は、ここへ来るまでずっと、あの人がいるから何とか持っていたんだと思う。
沈黙が落ちる。
その時、扉がノックされた。
入ってきた侍従は、まずバルドさんとテオさんへ向き直る。
「バルド様、テオ様。お時間です」
「別室へご案内いたします」
やっぱり、そうなるかと思った。
昨日のうちに、王家側から、当日の席次と導線は立場ごとに分かれると聞かされていた。
バルドさんは地方子爵家の次男、テオさんは伯爵家の三男だ。
普段は《鎚灯り》として村で動いていても、こういう場では冒険者としての顔だけでは済まない。
最初から俺の後ろに並ぶんじゃなく、それぞれに用意された導線へ入るほうが自然だった。
バルドさんが俺を見る。
「先に行く」
「はい」
「変な顔のまま出るなよ」
「難しい注文だな……」
バルドさんは鼻で笑った。
その横で、テオさんが袖を軽く直しながら言う。
「必要になれば前へ出ます」
「だから今は、あなたはあなたの役目だけ考えてください」
「それが一番難しいんですよ」
「知っています」
知ってるなら、もう少し優しくしてほしい。
でも、その一言は少しだけ効いた。
二人は侍従に伴われて部屋を出ていく。
扉が閉まると、一気に空気が広くなった気がした。
少しして、また別の侍従が来た。
今度はガランさんへ一礼する。
「ガラン殿。ご案内いたします」
「……おう」
短く返して、ガランさんが立つ。
俺の横を通り過ぎる前に、一度だけ足を止めた。
「気負うな、とは言わねえ」
「どうせ無理だからな」
「……ですよね」
「だが、余計なもんまで背負うな」
それだけ言って、ガランさんは少しだけ目を細めた。
「今日お前がやるのは、王都に合わせることじゃねえ」
「見たもんを、見た通りに立たせることだ」
「線を引く役なら、最後までそこだけ外すな」
返事をする前に、ガランさんはもう歩き出していた。
ギルドマスターとしての背中だった。
村で見てきた背中と同じなのに、今は少しだけ遠い。
扉が閉まる。
部屋に残ったのは、俺一人だけだった。
さっきまであった人の気配が消えて、急に静かになる。
静かすぎて、自分の息の音が妙に耳についた。
『……静かですね』
頭の奥で、リラが言う。
(そうだな)
『緊張していますか』
(してる)
『知っています』
知ってるなら聞くなよ、と思ったけど、口には出さなかった。
壁に寄りかかるわけにもいかず、立ったまま小さく息を吐く。
こんな場所に立つことになるなんて、少し前まで想像もしていなかった。
黒川だった頃の俺は、王なんて物語かニュースの向こうにいるものだと思っていた。
会うとか会わないとか、そういう距離の存在じゃない。
まして、自分の立場を決められる側に立つなんて考えたこともなかった。
それが今はどうだ。
訳も分からないままこの世界に飛ばされて、村に流れ着いて、最初は見習いとして置かれて、そこからガランさんが手を回して、正式にはDランク冒険者として立つことになって、さらに今ではBランクまで上がっている。
目立たないようにしてきたはずなのに、気づけば《鎚灯り》や《リュミエルの灯》と一緒に動いて、王都軍とともに村に迫る濁りを倒し、その報告のために王都へ来て、昨日は王の私室で、外へ出せない真実まで聞かされた。
アヤのこと。
《リュミエルの灯》のこと。
王が何を守って、何を伏せようとしているのか。
そこまで知った上で、今日ここに立っている。
「……まだ一年も経っていないのに」
思わず、小さく漏れた。
国王に会うだけでも十分おかしい。
その上、今日の謁見は褒められるための場じゃない。
王国の中で、俺をどこに置くかを決める場だ。
逃げたい、とは思わなかった。
ただ、重いとは思う。
一歩間違えば、守られる線と縛られる線がそのまま重なる。
昨日聞いた話が重い分だけ、今日の言葉も軽く受け取れない。
でも。
本当は、ここまで前に出るつもりなんてなかった。
こっちに来た時から、身体だけは妙に出来すぎていた。
常人よりずっと動ける体。
理とマナを使えば、下手をすると“できすぎる”側に踏み込める力。
だからこそ、ずっとおとなしくしていた。
目立てば、それだけで異端を見る目が向くと分かっていたからだ。
最初は、村の中で静かにやっていければそれでいいと思っていた。
ガランさんの判断で見習いから始まって、正式にはDランクになって、それでも余計なことは見せないようにしてきた。
できることがあっても、出しすぎない。
知られすぎない。
そのくらいがちょうどいいと思っていた。
けれど、濁りを知ってしまった。
最初にあれと触れた時から、ただの魔物騒ぎじゃないと分かった。
リラの解析で見えてきたのは、放っておけばもっと大きく壊れていく線だった。
村の外だけの話じゃない。
どこか一つの現場だけで終わる話でもない。
見えてしまった以上、何も知らないふりはできなかった。
だからこそ、ここで黙って流されるわけにもいかない。
俺がやることは、前に出て強さを見せることじゃない。
偉そうに立つことでもない。
危険が上がった時に、戻る線を引くこと。
戻れなくなる前に、止めること。
王がそこを見ているなら、少なくともその役だけは外せない。
村の景色が、ふと頭をよぎった。
畑。
ギルドの裏口。
いつもの食堂。
騒がしいのに落ち着く、あの連中の声。
あそこへ戻るためにも、ここで変な転び方はできない。
『覚悟、決まりましたか』
リラの声は静かだった。
(大体はな)
(でも、行くしかない)
『はい。それで十分です』
ちょうどその時、三度目のノックが響いた。
扉の向こうから、侍従の声がする。
「セイ様。お時間です」
「お召し替えの支度は整っております」
俺は息を吸って、ゆっくり吐いた。
通された脇の小部屋には、謁見用の正装が用意されていた。
村で着る服とも、冒険者としての装備とも違う。
王の前に出るための、王家側が整えた衣装だ。
華美すぎるわけじゃない。
けれど、俺みたいな村上がりの冒険者がそのまま着慣れていい服でもない。
鏡の前で袖を通した時、自分が少しだけ別の何かに見えた。
『似合っています』
頭の奥で、リラが言う。
(うれしくない褒め方だな)
『事実です』
(それが一番困る)
腰にいつもの重みがない。
剣も装備もない。
代わりにあるのは、今日この場で与えられるはずの名前と立場だけだ。
肩の力を抜く。
抜けきらない。
それでもいいと思った。
完璧に落ち着いてから行ける場所じゃない。
落ち着いていなくても、自分の足で出るしかない場所なんだ。
衣装を整え終え、侍従に促されて扉へ向かう。
「……行きます」
返事をして、足を踏み出した。
昨日は真実を知った。
今日は、その真実を守るための表の線が引かれる。
その中に自分が置かれるなら、せめてどんな線かだけは見失わないようにしようと思った。
扉が開く。
その先に、正式謁見の間へ続く長い廊下が待っていた。
赤い絨毯が、まっすぐ奥へ伸びている。
侍従の半歩後ろを歩きながら、俺は一度だけ小さく息を吐いた。
もう、この導線には知った顔がいない。
さっきまで同じ控室にいたはずのバルドさんも、テオさんも、ガランさんも、それぞれ別の導線へ入っている。
王都まで一緒に来ているコルトさん、ミナさん、リアンさんの姿も、ここにはない。
《リュミエルの灯》は、今日の正式謁見には最初から出ない。
昨日知った真実を守るために、そうしてあるのだと分かっていても、やっぱり少しだけ不自然だった。
今から見るのは、仲間の後ろ姿じゃない。
王都が整えた、公の配置だ。
『視線が増えます』
頭の奥で、リラが静かに言う。
(分かる)
『でも、まだ見えてはいません』
(……それ、今言う必要あるか?)
『あります。見える前に整えてください』
やがて侍従が立ち止まった。
目の前には、今までの扉よりひときわ大きな扉があった。
彫り込まれた紋章。
左右に控える近衛。
ここが、その先なのだと一目で分かる。
「まもなく、正式謁見の間にございます」
その一言で、背筋が勝手に伸びた。
昨日の最後、王は言った。
明日、公の場でそなたの立場を定めよう、と。
あれは褒賞の話じゃない。
王国の中で、俺をどこへ置くかを決める言葉だった。
扉が、ゆっくりと開く。
先に音が広がる。
次に、空気が変わる。
高い天井。
磨き抜かれた床。
左右には、王都の中枢貴族たちが並んでいる。
軍。
教会。
ギルド。
王家の近臣。
その中に、貴族側の列へ加わったバルドさんとテオさんがいた。
地方の冒険者としてではなく、正装の似合う「名のある側」として立っている。
村で見てきた《鎚灯り》の二人と同じはずなのに、こういう場では背負っている家の線まで見えてくる気がした。
ギルド側の列には、ガランさんがいた。
華美ではないが、場にきちんと合わせた装いだった。
飾り立てた者たちの中でも、あの人は一番質実剛健に見える。
それでいて少しも軽く見えないのは、この場の誰より王が、現場の言葉としてあの人を信じているからだろうと思った。
そして、俺の近くには誰もいない。
ここで前に出るのは、まず俺一人だけだ。
それが、やけに分かりやすかった。
広間を見渡して、《リュミエルの灯》の姿がないことだけを確認する。
昨日知ったことを思えば、それでいい。
そう分かっていても、胸の奥には少しだけ硬いものが残った。
そして、そのすべての視線が向かう先。
正面の高み、玉座に王がいた。
正面の玉座から、王の声が広間に響いた。
「本日ここに集めたのは、一人の若者を飾り立てるためではない」
その一言で、広間のざわめきがすっと引く。
「辺境にて続く濁り、ならびに理の異常に対し、王国が今後どのような線を引くか。それを、この場で定めるためである」
祝辞じゃない。
最初から、制度の話だ。
王の視線が、まっすぐこちらへ向く。
「セイ。前へ」
俺は息を一つだけ整えて、踏み出した。
赤い絨毯の上を、一人で進む。
歩幅を崩さない。
視線を泳がせない。
止まるべき位置まで来たら、前の晩にテオさんから叩き込まれた通り、姿勢を正して一礼する。
それ以上はしない。
余計なことを足さず、呼ばれるまで静かに立つ。
左右の視線が、さっきより近い。
けれど今さら逃げ道はない。
近侍が一歩前へ出て、文書を開いた。
「エルディア支部所属、セイ」
「上流制圧戦、ならびに複数の濁り異常案件における功を認め、王命により、無領地一代男爵の位を授ける」
広間がざわついた。
それだけでも十分重い。
なのに、読み上げは止まらない。
「加えて、王国辺境特命官として、濁りおよび理の異常案件に関する調査、封鎖、避難指示の現場判断を担わせる」
「さらに、理の異常案件において現場判断を預ける特別位――理監の名を与える」
今度のざわめきは、さっきより深かった。
驚きだけじゃない。
警戒。
値踏み。
反発。
綺麗に整った服の下で、それが一斉に動くのが分かる。
近侍の声が、さらに続いた。
「また、王国貢献に対する王家からの正式報奨として、十万Gを下賜する」
「加えて、濁り変異体の研究協力に対する特別報奨として、三万Gを別枠で与える」
数字が出た瞬間、広間の空気がまた一段揺れた。
爵位と役職だけじゃない。
金まで乗った。
それで軽く見ていた連中の計算が、少し変わったのが分かる。
「陛下」
最初に声を上げたのは、年配の貴族だった。
姿勢は崩れていない。
言葉も整っている。
でも、その整い方がそのまま反対の意思を示していた。
「功績を疑うものではございません。ですが、相手はあまりに若い」
「地方の一冒険者に、そのような権限まで与えるのは早計ではありませんか」
広間のあちこちで、無言の同意が揺れた。
王は少しも表情を変えない。
「若いことは事実だ」
短い言葉だった。
「だが、濁りと理の異常において必要なのは、年齢ではない」
一拍。
「前へ出たがる者は多い。だが、危険が上がった時に退くと決め、周囲を戻す線を引ける者は少ない」
胸の奥が少しだけ詰まる。
そこを言われるのは、正直きつい。
だって、そこを言葉にされた時点で、もう逃げにくい。
王の視線が、ギルド側の列へ向いた。
「ガラン」
迷いのない呼び方だった。
「はい」
返した声は落ち着いていた。
ガランさんは列から前へ出る。
場を外さない装いだ。
けれど飾り立てもしていない。
その立ち方だけで、長く現場を見てきた人間だと分かる。
「現場側の証人として述べよ」
「お前は、セイをどう見る」
ガランさんは、少しだけ顎を引いた。
「討つだけなら、上はいくらでもいます」
最初から、飾らない。
「だが、危険が上がった時に止める役は、そう多くねえ」
「止まれねえ奴は多いし、止まりたくても言えねえ奴も多い」
「こいつは言う。戻るための線を引く」
「それで帰ってきた連中を、俺は何度も見てきました」
広間が静まっていく。
派手な言葉じゃない。
でも、磨かれた理屈よりずっと刺さる。
「前に出たがるだけの若造なら、ここまで残ってねえでしょうよ」
その言葉のあと、誰もすぐには口を挟めなかった。
やがて、別の列から低い声が上がる。
「現場判断を優先するなら、軍や領主側との指揮系統に混乱を生みませんか」
軍の側だ。
もっともな疑問だった。
今度は教会側の高位者が先に口を開く。
「通常案件と、理の異常案件は同列ではありません」
「判断の遅れそのものが被害になる場合があります」
王が頷く。
「ゆえに、この任は常時すべてを指揮するものではない」
「平時、セイは従来通り冒険者として動く」
「ただし濁りと理の異常に関わる公務時に限り、その現場判断を王国は優先して扱う」
制度だ、と思った。
ここでやっているのは英雄譚じゃない。
誰が強いかを飾る話でもない。
どこまでが自由で、どこからが公か。
その線を、この場で引いている。
『保証です』
頭の奥で、リラが言う。
『同時に拘束でもあります』
(立派すぎるな)
『王都製ですから』
笑えない。
王の視線が、今度は貴族側の列へ向いた。
「バルド、テオ。前へ」
二人が、列から進み出る。
広間の空気がまた少し動いた。
さっきまで「名のある側」にいた二人が、今度は地方のCランク冒険者でもあると示される。
それだけで、王都の人間には十分ひっかかる。
バルドさんは堂々と。
テオさんは静かに。
でも二人とも、歩幅が乱れない。
王が告げる。
「エルディア支部所属、《鎚灯り》のうち、本日列席のバルド、テオ」
「両名を、今後の理の保全案件における優先協力者として記録する」
ざわめきがもう一度広がる。
「バルドは前衛として現場保持を担う者」
「テオは記録、分析、魔術支援を担う者」
「両名とも平時は従来通りギルド籍を持つ冒険者として扱う」
「ただし正式招集の際は、理監の案件に協力するものとする」
あくまで普段は冒険者。
だが、公に呼ばれた時は別の線に乗る。
その言い方が、いかにも王都らしかった。
列のどこかで、小さく鼻を鳴らす音がした。
「地方の冒険者を、ずいぶん買う」
聞こえるか聞こえないかの声だった。
バルドさんは一歩も引かない。
「買われるほど高くもねえよ」
「必要な場所で、必要な役をやるだけだ」
短い。
でも、それで十分だった。
テオさんも続ける。
「記録は残ります」
「誰が何を担い、どこで支えたかも」
感情を乗せすぎない声だった。
だから逆に、逃げる気がないのが分かる。
二人が列へ戻ると、広間の空気はもう最初とは違っていた。
賞賛じゃない。
納得でもない。
でも、認識は残った。
この場に立った連中を、前と同じには扱えない。
少なくとも、それだけは広がっていた。
王が、あらためて俺を見る。
「セイ」
「はい」
「そなたに無領地一代男爵の位を与え、王国辺境特命官、および理監の任を命ずる」
喉が少し乾く。
昨日のうちに、もう逃げ道はないと分かっていた。
濁りに向き合うことに迷いはない。
だが、爵位まで含めてすぐに飲み込めるほど、俺はまだこの国の人間じゃない。
それでも、ここで言う言葉はそのまま公の記録になる。
曖昧な返事だけはできなかった。
息を吸って、吐く。
「……お受けします」
広間に向けて、はっきり言った。
「俺一人で全部をどうにかできるとは思っていません。ですが、危険が上がった時に、戻れる線を引く役が必要なら、その役からは逃げません」
ざわめきの底が、少し静まる。
「守るための線として使います。飾りの線にはしません」
言い切ってから、ようやく自分の声が震えていなかったことに気づいた。
王が、わずかに頷く。
「よい」
それで決まった。
正式謁見は、定められた手順のまま終わっていく。
頭を下げ、下がり、列が解かれる。
広間に残ったのは、歓声じゃなかった。
もっと乾いたものだ。
視線。
記憶。
値踏みの更新。
でも、それで十分なんだと思う。
今日の目的は、好きになってもらうことじゃない。
今後、軽く扱っていい相手ではないと王都に覚えさせることだ。
長い廊下へ出たところで、ようやく息が抜けた。
「……最低限で済みましたね」
横から、いつの間にか合流していたテオさんが言う。
「お前、そこを最初に確認するのか」
「事実確認です」
「今はいらないです」
テオさんは少しだけ肩をすくめた。
「……正直に言えば、私もここまでになるとは予想していませんでした」
「男爵位までならまだしも、辺境特命官に理監まで一気に重ねるとは思っていなかったので」
「ですから、爵位を受ける時の作法も、昨日の段階では最低限しかお伝えしていません。そこは私の手落ちです。すみません」
少し意外なくらい、まっすぐな謝り方だった。
「いや、十分だろ」
と、バルドさんが先に言った。
「実際、転ばずに済んだ」
「基準が低いんですよ」
「高くするとお前が死ぬ」
ひどい。
正しいけど。
俺は小さく息を吐いた。
「でも、助かったのは本当です」
「何をどこまでやればいいのか知らなかったら、たぶん頭の中真っ白になってました」
「それは避けたかったので」
テオさんはそこでようやく、少しだけいつもの顔で言った。
「次からは、もう少し余裕を持って教えます」
「次がある前提なのやめてくれません?」
そのやり取りの少し前を、ガランさんが歩いている。
さっきまでの正式な場を抜けたはずなのに、あの人の背中はまだどこか仕事の途中みたいだった。
「これで終わったと思うなよ」
振り返らないまま、ガランさんが言う。
「思ってませんよ」
「顔が思ってる」
「思いたいだけです」
その返しに、ガランさんは鼻で笑った。
「だったら今のうちに捨てとけ」
「今日決まったのは、終わりじゃねえ。始まりだ」
それきり、少しだけ沈黙が落ちた。
窓の外で、鐘が鳴る。
王都は今日も動いている。
俺が何を受けたかなんて知らない顔で、いつも通りに回っている。
でも、その王都がさっき、俺に名前と立場をつけた。
無領地一代男爵。
王国辺境特命官。
理監。
肩書きだけ見れば、大きすぎる。
けれど胸の中に残っているのは、誇らしさより別の感覚だった。
守られる側に入った、という感覚。
同時に、どの線の内側で動くのかを、今まで以上に選ばなきゃいけなくなった感覚。
昨日、真実を知った。
今日、表の物語が整えられた。
その二つのあいだに、これから立ち続ける。
『表の線は引かれました』
頭の奥で、リラが静かに言う。
(ああ)
『次は、その線の中身です』
返事をしながら、俺はもう一度だけ息を吐いた。
自由は、たぶん残る。
けれどそれは、何をしてもいい自由じゃない。
守られることと、縛られることは、同じ場所に立っている。
そして王都は、どうやらその線の太さまで決めるつもりらしい。




