第36話『a leaden sky』
8月6日午前5時、外がまだ薄暗い中で私は目を覚ました。
シャワーを浴び、パティシエ服へと着替える。
別に早朝の仕込みをする為に起きた訳じゃない。
下の階へ降りると、大将が鍋で何かを作っていた。
「おはようございます」
私がそう言うと、鍋をかき回す手を止めた大将が微笑む。
「おはよう、あまり眠れなかったみたいだね」
「はい。結斗さんの提案のせいです」
「ははっ、そうだね」
大将はそう言って、また鍋をかき回した。
微かな味噌の匂いが漂う。
「お味噌汁ですか?」
「うん、みんな食べると思って」
今日、開店前にエッちゃん家族と結斗さんが店に来る予定だ。
私たちには今日、やらなきゃいけないこと──いや、祈らなきゃいけないことがある。
「おはようございます」
店のドアが開き、結斗さんが入って来た。
「おはようございます、結斗さん」
私がそう声をかけると、結斗さんは鼻を膨らませて大将に言った。
「味噌汁ですか、いい匂いですね」
「はい、よかったら魚も焼きますよ」
「あっ、いや、それは結構」
そう言って断りを入れる結斗さん。
私も結斗さんと同じだ。
あまり食欲が湧かない。
「おはようございます」
ドアが開き、エッちゃんとフミさんと健ちゃんが店内に入ってきた。
「おはようございます」
「おはようございます」
互いに挨拶をし、暫く沈黙。
この重苦しい朝の集会は、結斗さんの提案から始まった。
昨日の夕方のことだ。
「大将、明日は何の日か覚えていますか?」
カウンター席で大将に質問する結斗さん。
「さあ? 結斗さんの誕生日ですか?」
そう言う大将に、結斗さんは眉間にシワを寄せた。
「8月6日です。日付を聞いても、何も分かりませんか?」
私は、その日付を聞いてハッとした。
まだ何も気付かない大将。
「いやあ、俺、記念日とか覚えるのあまり得意じゃないんですよ」
そう言って笑う大将に、結斗さんは怒鳴った。
「いい加減にしなさい! それでもあなたは日本人ですか!」
普段温厚な紳士の結斗さんが怒鳴ったことで、店内は一瞬にして静まり返った。
結斗さんは深く息を吐き、言った。
「明日は、人類で初めて核兵器が使用された日です」
エッちゃんが不思議そうに首を傾げる。
「核兵器って何ですか?」
「核兵器というのはね……」
私はエッちゃんに、核兵器と原子爆弾投下、広島と長崎の惨劇について教えた。
こんな子供が核兵器を知ったところで、歴史は変わらない。
エッちゃんがその恐ろしい兵器を理解したところで、結斗さんは頷いて言った。
「米軍が改竄したトップシークレットですが、原子爆弾を積んだエノラ・ゲイは広島に向かう前、京都の上空を旋回します」
結斗さんの言葉で凍りつく店内。
「何で、京都に……」
私がそう呟くと、結斗さんは言った。
「京都に原子爆弾を投下するためです。京都は原爆投下の最有力候補でした。しかし、雲が多く天候に恵まれない中、観測機ストレートフラッシュから次点候補の広島が良天候という連絡を受けて広島へ向かいます。そして、どちらがより原爆の効果を観測しやすいか悩んだ末、京都に来たことのある米軍の陸軍長官ヘンリー・スティムソンの反対する声もあり、広島に原爆を落とすのです」
また、沈黙……。
結斗さんは、ゆっくりと口を開けた。
「皆さん、見に行きましょう」
結斗さんの言葉に、思わず口が動く。
「えっ、見に行くって……」
「私たちは1945年の京都に行くことができます。そして京都から、エノラ・ゲイを見ることができます」
そう言って結斗さんは、苦渋の表情を浮かべて続けた。
「……残念ながら広島を救う手立ては私たちにはありません。なら、せめて広島へ向かうエノラ・ゲイに、黙祷ぐらいは捧げようではありませんか」
──と、これが昨日の結斗さんの提案だ。
エッちゃん家族、大将、私、結斗さん。太平洋戦争以降の時代を生きていく日本人として、目を反らしてはいけない事だと思う。
だから私たちは、早朝から店内に集合した。
「まもなく7時です」
腕時計を見ながらそう言った結斗さんが、席を立つ。
続いて私たちも席を立ち、エッちゃんが店のドアを開けた。
そして私たちは原爆が投下される日、1945年8月6日へ飛んだのだった。
遊興の制限による影響で静寂に返った早朝の歓楽街。
そんな静かな街で、私たちは空を見上げた。
少しすると、唐突にけたたましいサイレンが街中に響く。
空襲警報だ。
結斗さんが言う。
「歴史通りです。これはエノラ・ゲイ接近による空襲警報です」
サイレンに震える健ちゃんを、私は抱き締めて頭を撫でた。
エッちゃんが不安そうにお母さんの手を握る。
そりゃ、怖いよね、こんな音。
だけどこれから、こんな音なんか比べ物にならないレベルの怖いことが、広島で起こるんだ。
私たち……いや、全世界の人たちが目を背けちゃいけないことが……。
「来ました、エノラ・ゲイです」
結斗さんがそう言って、空を指差した。
小さく微かに見える銀色の翼。
まるで品定めをするように京都上空を旋回している。
まだ奴は上空にいるというのに、空襲警報が解除された。
単機の戦闘機に、警戒する必要はないと判断されたのだろう。
何も知らない人からすれば、あれはただの偵察飛行だ。
だけど、私たちは知っている。
これからあの飛行機が15万もの人を殺すのだということを……。
そう思うと、涙が止まらなく溢れた。
私は震える体を堪えて立ち上がり、空を見上げて呟いた。
「あいつは今、ここに原爆を落とそうか悩んで飛んでるんだね……」
隣の大将が言う。
「クソッ! 俺たちはアレがこれから何をしようとしてるか知ってるのにッ!」
空を睨む大将。
そんな大将の肩に、そっと手を置く結斗さん。
「祈りましょう……」
エッちゃんは目を閉じ、空に向かって涙を流しながら手を合わせた。
「ごめんなさい、広島の人、ごめんなさい」
繰り返し何度も謝るエッちゃん。
次第に鼻声になり、枯れたような声へと変わる。
「ごめんなさい、京都の代わりに、ごめんなさい……」
私は堪らず、エッちゃんに抱きついた。
「違うよ! エッちゃんのせいじゃないよ! 京都のせいじゃないよ! 全部、全部あいつが悪いんだよ!」
怒鳴るようにそう言った私に、結斗さんが静かに言う。
「私たち日本……いや、全世界の人類は、二発の原爆の上に立っていると言っても過言じゃありません。広島と長崎の原爆による被害が、これから先に起こる戦争で核使用の抑止力になっているのです」
そう言って結斗さんは、空に向かって涙を流し、「あまりにも大きな代償の抑止力ですが」と付け加えて、手を合わせた。
フミさんも涙を流しながら静かに手を合わせている。
何が正しかったのかなんて知らない。
私が唯一分かることは、あいつがもうすぐ15万人を殺し、20万人に怪我を負わせて放射能を撒き散らすということだけだ。
だけど、私にはどうすることもできない。
悔しいよ……。
何で私は何もできないの……?
こうやって時代を飛べるんだよ?
これから起こる悲劇も知っているんだよ?
歴史だって変えれたかもしれないのに……。
それなのに、私はなんにもしてない。
ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……。
西に飛んでいく銀色の翼に、手を合わせる。
確定した歴史に祈っても仕方がないのかもしれない。
でも、祈らずにはいられなかった。
銀色の翼が見えなくなり、どれくらい経っただろうか。
「まもなく……」
声を絞り出すように、結斗さんが言う。
「まもなく、8時……15分です……」
その言葉を聞いて、涙が止まらなく溢れだした。
西の空に向かって、一同整列して手を合わせる。
どうかせめて、これから亡くなられる方が安らかに眠りますように……。




