番外編 ね 剣の舞
さてここに、一振りの刀がある。
黒い刀身、黒い柄、その柄に刻まれた文様は黄金の蔓。
鋭利な姿の、その切れ味は言うに及ばず、だが、その見事さに対する言質を残したものは一人もいない。
当然だ。それを味わった者たちは絶命しているのだから。
一振りで闇を切り裂き、二振りで悪しき魂を冥府に叩き落し、そのひとかけらも残さず滅することが出来ると言われる剣。
闇の中でなお暗く、影にありて光を見出す、剣。
その剣を見ることの出来た者は、それぞれの印象で刀の形状を違えて見る。
ある者は一抱えもある大刀だったと言う。
ある者は弓月の細くしなる様のような刀身だったと言い、磨きぬかれた宝石のようだったと言う。
そしてまたある者は、小太刀だったと言う。
大きさはまちまちだが、その磨き抜かれた刀身の見事さについては、見た者それぞれが口をそろえてこう言う。
闇を移し変えたかのように、黒く、艶やかでありながら、どこか凛とした風情の美しい剣であった、と。
形状を、印象を、見る者全て違えてみせる稀有の剣は、持つものを選び、使う者を選ぶ。
ゆえに
闇の剣の所有者は、何処の王とも、何処の剣士とも言われているが・・・今の持ち主の名を知るものはいない。
*********
大きななべから湯気が漂っている。
ととととと、と食材を刻む音。リズミカルで淀みがない。
時折鼻歌が耳に届く。どうやら、この部屋の主は上機嫌のようだ。
「かあさま、つぎは?」
「お皿を並べて、それから・・・」
母娘の声は穏やかで、香る香りも、時折交わす言葉たちもそれだけで幸せな情景だ。
守るべき娘たち。
黒髪の凛としたた佇まいの娘は、恋を知り、母となった。
慈しみに溢れた眼差しが、かつての母を思わせる。
髪の色も、瞳の色も、声音すら違うのに、娘のもたらす仕草も、声も、微笑みも、全てが母へと回帰する。
少女は恋を知り愛に泣き、子を抱いて無上の愛を知ったのだろう。
うとうととまどろみながら、娘たちの笑う声に耳を傾ける。
身体を縛る鎖の音は、ジャラジャラとわずらわしいが、娘たちの歌声や笑い声は難なく耳に届く。
幸せだった。
こんな簡単なことだったのだ。
同じ情景を、違う瞳で見つめて、瞳を交わし微笑見あう。それだけで胸の奥から愛しさがこみ上げてくるのだ。
ならばここで精一杯生きよう。
死して始めて気付くなど、なんと愚かなと自嘲はしても、この幸福を喜ばずにはいられない。
この娘が、愛しいと思う全てを守るのだ。頼りなく泣いていた小さな魂も、大好きだと言って憚らない国の民も、すれ違っただけの人でさえ、この娘は愛しいというのだから大変だが。
底辺の取るに足りないものだと認識していた貧民さえ、この娘にとって見れば守らなければならない民なのだ。
「おし、今日はリンにりんごをむいてもらおうっと!」
「包丁、こわいよ、かあさま」
「だいじょぶ、だいじょぶ。リン、エルレアは持ってる?」
「言いつけ守ってるよ」
よいしょとスカートを持ち上げると、腿に括り付けられた剣。
・・・誤解はするな。俺だって声を大にして拒んだんだ。
だが、俺の声は精霊と同じで、チヒロかリンの耳にしか聞こえないんだ。
そこ! 胡乱な目つきで睨むのはよせ! 兄馬鹿のふたりと、親ばかの一人に散々愚痴を聞かされているんだ。俺の身にもなれ。
「よし、いい子!」
にっこり笑ってリンの顔を覗き込んだようだ。衣擦れの音がする。それと同時にえもいわれぬ悪寒が。
・・・まさか、と思うが。思いたいが・・・。
「・・・かあさま、刀さんが怒るよ」
「怒んないよー。エルレアだって早くリンに使ってもらいたいはずだもん!」
・・・チヒロ、お前。・・・確信犯め。
「りんごの皮むきくらい出来なきゃ、到底エルレアは御せないぞ!」
「ん、んー。むずかしい・・・」
「大丈夫。エルレアが気をつけてくれるから・・・っ!」
勢いよく刃を滑らせすぎて、そのままだと左手の親指を切っていただろう刃が、ぴたりと止まった。
と、同時に力が入っていたチヒロの身体から力が抜ける。
にっこりと笑って礼を言ったりするから、こいつの無礼に文句が言えなくなるんだ。
「リン、エルレアはあなたを傷つけたりしないから、いっぱい練習してパパを驚かせようね」
「うん、がんばる」
がんばってウサギさんにするんだ!
危なっかしい手つきでりんごと格闘する娘と、娘の手の中で唸っているだろう剣。
ふたり(?)を見つめながら、チヒロは呟いた。
「エルレアもさー・・・いつまで闇に篭ってるのかなー?」
早く鎖を断ち切ってでてこないと、ほかの人に可愛いうさぎさんが食べられちゃうよー?
闇に沈んだ男の耳にもその呟きは届いていた。
*******
宵闇に紛れ佇む長身優美な男の姿は、闇に溶けて目にするのは難しい。
それでもそこにいると解る圧倒的な威圧感。
下弦の月は、伏せられた長い睫の金色を照らしている。
その睫が彩る瞳の色も、金。
緩やかに頬に落ちる髪も、硬質な金だった。
褐色の肌は、鍛え上げられた鋼の趣で、月の光を浴びていた。闇に浮かび上がる彼は、ただ、佇んでいる。
見下ろす相手は、白い布の中に埋もれあどけなく眠る、娘だった。
「・・・好きで闇に篭っているわけではない。罰だから、鎖に縛られているんだ」
そうだ。これは罰。
眠る娘の安寧を祈るかのごとく佇む金の男は、番人だ。
男にとって夜は憩いではなかった。目を閉じても眠りは訪れず、目を開けても悪夢ばかり。
息をするにも息苦しくもがいては、指先に触れる夢の残滓に縋りついた。すり抜けていった幸せたち。
求めても、叶わないと知っていた。男が望んだものは、全てすべて、すり抜けて落ちていく。
望んでも、叶うことは無いと知っている。だから望むことすら諦めた。
・・・幸せの象徴は、彼方にあるからこそ、幸福なのだ。
弾けるような微笑も、清んだ歌声も、鈴のような笑い声も。
翻る黒髪も、しなやかな腕も、たおやかな風情も。望んでも叶わないなら、ただ見つめているだけで良い。幸せに染まる頬を、幸せにほころぶ瞳を、ただ、見つめて行けたら、それで良い。
・・・夢だ。
ああ、これは、愛しく悲しい夢だ。
生まれたばかりの頼りない泣き声。
柔らかな髪、抱き上げたら壊れてしまいそうな小さな手足、可愛い口元。
抱きしめたこともない。
言葉を交わしたこともない。
触れようと指先を伸ばしても、すり抜けてしまうこの身体。
泣いて煌く月色の瞳を見つめていた。
笑って輝く月色の瞳を見つめていた。
まっすぐに見上げて逸らさない、力強い瞳に惹かれていた。あの瞳を見ていると、思い通りにならない、もどかしさを覚える。かの娘は鮮やかなままに切り込んで、この胸に己を刻んでいった。
この愛しさはなんなのだろう?
もしかしたらあったかもしれない未来をここで見ていくはずだった。
嬰児は、健やかで鳴き声さえも生命に満ち満ちていた。年を重ねるたび、高く香る芳香。
窓辺の月を見上げた。
そこにはお供えよろしく、うさぎに切られたりんごが添えられている。ご丁寧にメッセージ付だ。
「鎖を解き放てと、お前が言うのか」
巫女姫よ。
*********
光などあの月のように手の届かないものだと知っていた。
望んでも届くはずはないと思っていたから、諦めようと必死になった。
好きじゃないと言い聞かせ、募る思いにふたをして。
「月に照らされていると、溶けてしまいそうだな。ここへ来い。・・・抱いて寝る」
窓辺から月を見上げているとオウランがベットから手招いた。
「オウラン」
素直に言葉に従って、オウランの胸に身を任せた。
安心できる香りが鼻に届いて、ああ、ここにいる、と思えた。
泣きたいくらいに、安心する。
あなたの胸が、わたしが帰る場所なんだよ。
「どうした。ん?」
幼子をあやすように、わたしを抱き寄せて、あなたが覗き込んできた。
眼差しが、いたずらっ子のように笑っている。
口付けをねだるように顎を上げたら、察してくれてすぐに唇が降ってきた。
ただ、わたしは、そばにいたかっただけだ。
ただ、
あなたのそばに。
「・・・エルレアがね、あの頃のわたしと同じ目をしていたの」
渇望して諦めかけて、もがいてる。
「チヒロ?」
今度は何を諦めようとしているの?
あの時のように、後ろを振り返ることもせず、諦めてしまえるものなの?
「エルレアは知らないんだ。きっと」
「チヒロ?」
「リンが、エルレアの姿を見ていることを、知らないんだ・・・」
胸元で呟いた言葉に、今度はオウランが固まった。あ、やば。
ぐっと両肩に腕が食い込んだ。
慌てて顔を上げたら、ついぞ見たこともないくらい美しい微笑の夫と目が合った。
「・・・どういうことか、聞かせてもらえるんだろうな、おきさきさま?」
「あ、あああああ」
きらっきらした微笑が、心底オソロシイモノに思えました。
思わず尻でベットをずり下がって逃げてしまったのが、いけなかった。
「・・・ほぅ・・・逃げるとは言い度胸だな、おきさきさま」
「あ、ああああの、あの、オウラン」
・・・リン・・・淡い初恋を、多分君も気付いてないだろう初恋を、お父様に申告してもいいですか・・・?
お母様、お父様の攻めに耐えられるかどうか、わかりません。ってか、耐えられる自信がありません。散々喘がされた挙句、有効な情報引き出すの得意なんだよ、あなたのお父様はね。
それから、オウラン。
わたしの国の言葉にね、藪をつついて蛇を出すって諺があるんだけど・・・聞いて、ない、ね。