8・建武の乱:建武二年十一月十九日~
【建武の乱】
(足利尊氏と後醍醐天皇の争い)
箱根山の戦い……建武二年十二月、三河国矢橋、駿河国手越河原で尊氏側の軍勢を破った新田軍は伊豆国にまで進出。尊氏は箱根山に陣を敷き、防衛線を構築。新田軍を迎え撃った。このとき、次男・貞範が大功を挙げ、足利軍が勝利を得たことで貞範は丹波国春日部庄を与えられた。
京都岩清水の陣……建武三年一月、箱根山の戦いで勝利した足利尊氏が京都攻略に向けて陣を置いたところ。円心はこの時から長男・範資を出陣させた。山崎で行われた戦いでは「元弘の吉例」として赤松勢が先陣を務め、円心麾下の浦上一党三百騎の目覚ましい活躍をみせたことで後醍醐天皇の軍勢を破る。しかし、同月廿七日の合戦と、同晦日の糺河原の合戦の二度に渡って北畠顕家の軍勢に敗れたことを受け、尊氏は丹波国まで退却せざるを得なかった。
豊島河原合戦(大阪府箕面市・池田市)……同二月十日~十一日。丹波に後退していた足利軍は再進軍を開始、二月三日に摂津国猪名川付近に陣を張った。これを迎え撃つべく後醍醐天皇は新田義貞・北畠顕家の軍勢を向かわせた。尊氏は敵将・楠木正成に翻弄され、新田・北畠連合軍との合戦に足利軍は敗れた。
湊川城(神戸市兵庫区)……同二月、円心は湊川城に居たとされる。豊島河原で敗れた尊氏は、円心のすすめで三草山を越えて加古川に出て、兵庫入りを果たした。湊川に到着した尊氏を近隣諸国から駆け付けた二十万騎が出迎えた。
(再び軍勢を得た尊氏は、湊川から再度京都への道を開こうとするが、円心が逸る心を説得。『梅松論』によれば、円心は、西国に移って軍勢を休養させることと、持明院統の院宣を申し下し、足利氏が朝敵の汚名を着ないよう取り計らってもらうことを尊氏に提案している。)
※持明院統……日本国の皇室の系統のひとつ。後嵯峨天皇(八十八代)の子、後深草天皇(八十九代)、亀山天皇(九十代)が即位した後、二人の子孫が交代交代で皇位に就き、それぞれ持明院統、大覚寺統と称するようになった。持明院統は後深草天皇の系統で、現在の皇室もこちらの持明院統に連なる。なお、後醍醐天皇は大覚寺統。円心の提案が成り立つことは、持明院統と大覚寺統との間に新たな確執を生むことを意味していた。




