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7・後醍醐天皇との対立:元弘三年(1333)~

【後醍醐天皇との対立:元弘三年(1333)~)】



二条富小路殿……里内裏、または二条殿御評定所とも呼ばれた。同年六月、帰洛した後醍醐天皇が政治を行った場所。


大徳寺(京都市北区紫野)……帰洛した後醍醐天皇は大灯国師を崇敬され、大徳寺を本朝無双の禅苑とする綸旨を発行。特旨をもって大徳寺は京都五山よりも上位の寺であることが公になった。のちに室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は京都五山から除かれるが、至徳三年(1386)になって、五山の下、京都十刹の第九位に序された。永享三年(1432)には、足利幕府の介入で形骸化しつつあった五山十刹制度から脱却。禅を主体とした独自路線に入り、身分の上下を問わない幅広い層から信仰を集めた。


※大灯国師(宗峰妙超)……臨済宗の僧。父は浦上一国。母は円心の姉。播磨国揖東郡小宅庄に生まれ、元応元年(1319)、叔父の円心(当時は則村)が宗峰のために京都紫野に法堂のみの小さな院を建立したのが大徳寺の始まりとされている。


※後世、大徳寺は、一休宗純らを輩出した他、豊臣秀吉が大徳寺で織田信長の葬儀を行った(翌年に信長の菩提寺の塔頭・総見院を創建した)ことや、千利休の大徳寺山門事件、沢庵宗彭の紫衣事件など、大徳寺は歴史の舞台に度々登場している。



播磨国浦上庄(たつの市揖保町)……元弘三年(1333)十二月一日、後醍醐天皇は大灯国師に乞われるまま、国師一門の浦上氏発祥の地・播磨国浦上庄を大徳寺に寄進。そのかわり、大徳寺領・下総国葛西御厨が浦上庄の代替地とされた。翌元弘四年一月十九日、浦上庄では、栄、山下部、熊代などの村も大徳寺領となったが、天皇側の調査が不十分だったことから、先に浦上庄一部の地頭職の綸旨を得ていた長井弾正蔵人貞頼や某為景らと大徳寺との間で激しい訴訟合戦となった。



――元弘四年(1333)一月二十九日、元号が《建武》に改元される。――



《建武元年八月ごろ、円心播磨国守護職を解任。円心、播磨に帰国。》



円光寺(旧上月町)……建武元年(1334)八月、円心が円光寺に時沢妙を寄進した記録が残る。同十月、円心が大塔宮旨を奉じた護良親王が鎌倉に流罪。原因は不明。翌年七月、足利直義(足利尊氏の弟)の命令で親王は殺害される。円光寺は、千種川流域一帯の赤松家関係の氏寺だった可能性があり、創建時期は不明ながら赤松円心が建立したと伝わる。



――建武二年六月、中先代の乱勃発―― ……関連作品『逃げ上手の若君(集英社)』



(同年六月、後に中先代の乱と呼ばれる北条家残党による一連の復権運動が活発化。北条家残党は鎌倉まで迫り、鎌倉を守る尊氏の弟・直義は窮地に立たされた。足利尊氏は後醍醐天皇に直義救援に自分を向かわせるように訴えたが、失政続きで関係が悪化しつつあった後醍醐天皇側は尊氏の離反を恐れてこれを拒否。そのため尊氏は独断で鎌倉救出に向かう。)



佐用庄(佐用町及び上郡町北部)……同六月、尊氏が京都を去り鎌倉に向かう際、佐用庄の円心に助力を要請。これを受けて、円心は次男・貞範を尊氏のもとへ走らせている。



鎌倉(鎌倉市)……同九月、北条家残党を駆逐した尊氏が、北条家残党軍の平定に付き従った郎党に後醍醐天皇の許可なく恩賞を与えたことで両者の関係が完全に悪化。尊氏は後醍醐天皇の失政を、奸臣・新田貞義が傍に居るためだとして、後醍醐天皇側に義貞討伐を要請。後醍醐天皇はこれを尊氏の反乱として義貞に鎮圧を命じ、建武の乱が勃発した。




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