9・白旗城の戦い:建武三年二月~五月十八日
【白旗城の戦い】
室津の軍議(たつの市室津)……同二月、円心の献策に従って西進した尊氏が軍議を開いた場所。当時から海運が盛んで、この場所で尊氏は九州大宰府に向かい再起を図り、その間、円心は播磨国を、足利一族の石橋和義は備前国を防備することが決定された。
鞆の浦(広島県福山市)……別名・鞆津。室津の軍議終了の後、九州へ向かう途上の尊氏が光厳院から新田義貞追討の院宣がもたらされた場所。
白旗城(上郡町)……同二月、円心が迫る上方の軍勢に対するべく、苔縄の城を捨て苔縄北部の急峻な山の地形を利用して築き始めた城。築城に際し、一縷の白旗が山の頂上に降下したことを受け、「白旗は源氏の旗。これは瑞兆である」として城の名を白旗城と名付けたという。鎮守神には、かつて円心に加護を与えた岩清水八幡宮の分霊を祀り、白旗八幡宮と称した。この八幡宮の開山には性空上人が立ち会い、もともとあった春日神社と合祀され、以降赤松家の氏神としたと伝わる。『赤松系図』
書写坂本の戦い(姫路市)……書写坂本は円心軍最初の防衛線。同三月六日、早くも新田軍は先鋒の江田兵部義行、大館左馬助氏明ら一万騎を播磨に送り、円心も播磨、備前の兵士を束ねて防衛に当たり、この坂本の地で両軍は激しく入り乱れた。
空山の戦い(宍粟市?)……同三月、書写坂本での戦いと同時期、北回りで播磨に侵入した新田軍別動隊が、円心が後方陣地・空山を攻めた。空山の赤松軍の陣は抵抗したものの、衆寡敵せず攻め落とされ、この敗戦が原因となって、包囲殲滅を恐れた円心はさらに後方の曽我井、楯岩、太田、石蜘の城塞群へと兵を引き上げさせた。
この頃、新田軍に総大将・新田義貞が合流。宇都宮治部大輔公綱、紀伊常陸介、菊池次郎武季らを引き連れ、新田軍は総勢六万余騎に膨れ上がる。
斑鳩の戦い(太子町)……同三月十六日より始まった斑鳩平野を巡る一連の戦い。平場の懸を得意とする新田軍は赤松軍を圧倒し、円心は後退を余儀なくされる。赤松軍は揖保川を渡り、さらに戦線を引き下げた。
弘山宿(たつの市)……現在の誉田町広山。同年三月廿七日、足利尊氏討伐のために、新田義貞が陣を置いた場所。中世には隣の鵤宿とともに、畿内から西国に向かう山陽道の重要拠点になっていた。この場所にあった安楽寺御堂(弘山安宗神社の境内にある神宮寺?)から義貞は、宍粟の播磨一宮・伊和神社と斑鳩寺など播州一円の寺社向けに、自軍が乱暴狼藉を働かぬよう禁制を下している。
鵤宿(太子町)……同、新田義貞が弘山に陣を置いた際、隣の鵤庄の斑鳩寺で戦勝祈願の法要である勝軍会を行っている。『太平記』においてはこちらの鵤宿が貞義の本営となっている。同五月八日まで義貞は弘山・鵤に本営を置いていたという。
笹山城の戦い(太子町松尾)……斑鳩平野最大の激戦地。破磐神社近くの笹山城周辺において、寡兵ながら龍野への道を開かれまいとする赤松軍に対し、新田軍は大量の兵士を投入。両軍による熾烈な争奪戦が繰り広げられた。播磨奥地に新田軍を引き入れた赤松軍は部隊を二つに分け、本拠地・白旗城の最終防衛ラインの構築までの時間稼ぎを狙った。
《経路1》室津室山城~白旗城
室津室山城(たつの市)……斑鳩平野を失った赤松軍の南側の防衛拠点。守将は、赤松範資。南の海岸線沿いに進む新田軍の将・江田、大館のニ将は、基山、武山、投石の砦を攻略すると、金剛山、馬場を経て、室泊の背後の大雲寺山を越えて鳩ヶ峰に至り、室山に雪崩れ込む。このとき赤松の守備兵一千に対して、新田軍は一万超。しばらくは善戦を続けていたが、討てど倒れど兵を繰り出す江田、大館勢に対し、ついに範資は夜の闇に紛れて舟を使用して赤穂方面への脱出。
※赤松鼻(たつの市尼谷)……同年、海岸線から赤穂方面に逃亡する赤松兵と新田軍が激しく戦った場所。播磨灘に面する岬となり、逃げ場を失った赤松の兵士が友軍を逃がすために応戦、戦闘に参加したほとんどが討ち取られたという。現在も赤松将兵らへの供養塔が残されている。
《経路2》 城山城~白旗城
城山城(たつの市)……斑鳩平野を失った赤松軍主力が陣を置いた場所。
乙城(たつの市)……斑鳩平野を失った赤松軍主力が陣を置いた場所。守将は、赤松則祐。
龍野平野に侵入した新田軍を円心は山の地形を利用して防戦。
光明山城(たつの市小犬丸)……城主は赤松方・内海勘解由善前、守備兵は三百騎。対して、攻城側の将は徳力三河守秀隆が率いる三千騎。
土師城(たつの市)……赤松方の荻原一族の城。光明山城攻防戦の際、側面から光明山城の支援を行っていたが、光明山城落城に際してこの城も攻め落とされたという。
感状山城(相生市)……城山、光明山の防衛ラインを突破された赤松軍が、赤松則祐を筆頭に巧みなゲリラ戦を行い、山岳戦に慣れない新田軍の足止めを行った拠点。この時の功績によって、後に足利尊氏より感状を賜ったことから、この山を感状山と呼ぶようになったとされる。
新田軍の猛攻に対し、遅滞戦術で白旗城塞群の構築に賭けた赤松軍は、さらに犠牲の数を増やしながらも貴重な時間を稼ぎ続ける。
※それでも白旗城塞群の構築が間に合わず、後醍醐天皇に『播磨守護復権の綸旨を出せば天皇側に寝返って味方する』という使者を送ったのもこの頃。この奇策が当たり、円心は十日余りの時間を稼ぐことに成功。
(白旗城周辺の戦い)
保気城(上郡町)……保気城は白旗城の大手に続く南の重要拠点。同三月三十日、椿峠の難所を越えた新田軍が保気城に迫り、この城の争奪戦は両軍が犠牲を惜しまない凄惨なものとなり、わずか一日の戦闘で流れ出た両軍の兵士の血で鞍居川の水が赤くなり、川原の石がひとつ残らず真紅に染まった話が伝わる。対岸の駒山城とは強固な防衛線を構築していた。保気城下には今も経納山があり地蔵堂、無数の五輪石群や防塁跡らしき史跡が残る。のちに、赤松満祐の姉が赤松一族の供養と冥福を祈るための庵を結んだという。
※赤岩鼻(上郡町)……近くを流れる鞍居川に掛かる建武橋近くの岩塊。ここも血で赤く染まったという。
同三月三十日、保気城の陣が敗れると、赤松軍は、駒山、下枝、苔縄城へと後退。この時、苔縄城には感状山より軍を退いてきた赤松則裕が在城。
白旗城の戦い……同三月三十一日(文献によっては四月朔日)から五月十八日までの戦い。岡山県の三木文書によれば赤松軍は『赤松の軍の法、他に殊り口伝多し、逸騎駈腰巻履、火術に申伝あり(赤松軍の戦術は口伝によるが多い。腰巻を履いた一頭の馬が駆け回り、火薬による爆弾攻撃を行ったとされる。)』
千軒家城の戦い……千軒家城は苔縄近くの城。千種川の湾曲を利用し、三方を川を天然の水堀として築かれた。この城の築城は赤松則祐の発案。白旗城の本丸に辿り着くには、琵琶首(百首)と呼ばれる絶壁と千軒家城の間を通らねばならず、両軍の間で激しい戦が繰り広げられた。供養塔が存在している。
※百首……死者の首が百も並んだところから名づけられた。
下原の戦い……下原からは白旗城への南の補給路となる。下枝城とも通じるため、一本杉から鳩首にかかるまでが主な戦場となった。
※国玉神社……白旗城の裏手、大杉野一帯での赤松軍の戦没者を弔った一石五輪塔が存在する。戦後に近くの集落の村人の手で築かれたとされる。
※鍋倉の供養塔
『諸国廃城考』によれば、この白旗城での戦を、「六万余騎の勢を以て、この城を百重千重に取り囲みて、昼夜五十余日息をも継がず攻めども、この地四方皆嶮岨にして人の上るべき様もなく、水も糧も沢山なる上、名を得たる射手八百余人まで籠りたりける間、攻めども攻めどもただ寄手、手負い討たるる斗にて城中つつがなく見えたり」と評している。
同三月晦日から翌四月四日にかけて激戦。以降は新田軍遠巻きにして両軍睨み合いが続く。
※先の綸旨の話もこの時期のものと思われる。
白旗城の攻略に手間取る新田軍は、一旦、別動隊を船坂方面に派遣、備前の三石城、美作の奈義山城と菩提寺城、備中の福山城の攻略を目指す。このうち、福山城が落ちた事で危機感を覚えた円心は、尊氏に東上を促すため、則祐と得平秀光の二名を大宰府へ走らせている。
則祐の説得を受けた尊氏が東上を開始した事を受け、同五月十八日、新田軍は退却を決めた。
※赤松家の武名は天下に鳴り響くと同時に、天皇を偽ったという話も全国に伝わる。
※そのため、足利尊氏が逆賊と呼ばれた時代においては、天皇家の対立をまねいたことやその後の嘉吉の乱という天下を巻き込んだ大乱を巻き起こしたことなどを含め、赤松家もまた逆賊の汚名を着せられたとされている。




