5・円心挙兵以降:元弘三年(1333)~
【円心挙兵以降:元弘三年(1333)~】
苔縄城(兵庫県上郡町苔縄)……元弘三年(1333)二月、則裕がもたらした大塔宮の令旨を読んだ赤松円心が、苔縄に城を構えたのが始まり。円心が同年二月廿五日寅の一点(午前四時)、姫路方面の諸将と共に鎌倉幕府打倒を叫んで挙兵したのが苔縄城。この城を拠点に、円心の軍勢は幕府方の高田兵庫輔の籠る高田城(同町)を攻め落とし、山陽道の制圧に取り掛かった。『太平記』
※佐用都比売神社(同佐用町)……苔縄に城を築く円心のもとに駆け付けた千種川流域一帯の赤松の血統(佐用、宇野、小寺、得平、別所、柏原、上月、間島、櫛田、中山、赤松他)の氏神が佐用都比売神社だったという。
船坂峠の戦い(上郡町)……同二月、高田郷を攻め落とした円心軍が、次いで備前国三石城の伊東大和九郎宣祐を降した場所。敵を捕えながらも厚遇した円心に心を打たれ、三石城の伊東惟群は円心軍に服従を誓う。当時から三石城は東備前でも一か二を争う堅城として知られ、これによって円心は後顧の憂いを絶った上、山陽道を東上することが可能となった。
摩耶寺(神戸市)……船坂峠での戦いを終えた円心軍が、播磨に迫りくる六波羅の追討軍との決戦に挑む際、本陣を置いた寺院。六波羅追討軍六千に対して、円心率いる播磨軍は一千騎。寡兵の円心は奇策をもって大勝する。
酒部・久々知の戦い(尼崎市)……撤退した六波羅軍を追うべく、摩耶を出た円心が本陣を置いた場所が久々知、先陣を置いた場所が酒部。閏二月廿三日に尼崎、翌廿四日には酒部で両軍の戦いが繰り広げられている。『太山寺宗徒軍忠状』
※船上山(鳥取県西伯郡大山町名和)……同閏二月廿四日、隠岐を脱出した後醍醐天皇が行宮を建てた場所。閏二月廿八日、倒幕の綸旨を出し、翌廿九日は後醍醐天皇の軍勢と幕府軍が交戦している(船上山の戦い)。『太平記』では倒幕の綸旨を出したのが三月三日になっている。
瀬川合戦(大阪府箕面市)……同三月十日、酒部・久々知の円心軍に業を煮やした六波羅軍に阿波国から援軍が到着。これによって、播磨軍三千に対して六波羅軍は二十三万にまで膨れ上がったために円心軍は窮地に立つ。六波羅軍の奇襲によって酒部の陣は陥落。円心親子は主従六騎、かたく一丸となって群れる敵兵を斬り開いて久々知の本陣に落ち延びた。味方が摩耶まで撤退しようとする中、三男・則裕が播磨の残兵を束ね上げ、逆に瀬川宿で勝利に浮かれた六波羅軍の陣に夜襲を敢行した事で大勝利を得た。『太平記』
桂川の先陣(京都府京都市西京区)……同三月、酒部・久々知の戦いに勝利した円心の軍勢は京都山崎まで軍を進め、久我畷に一軍をとどめ、桂に本陣を置いた。このとき折悪しく桂川は増水中。これ以上の進軍は無理と思われた。ところが、先陣を務める三男・則裕が突如濁流に馬を躍らせ、配下の小寺頼季、宇野国頼、飽間光泰、それに伊東惟群、川原林二郎ら五騎がこれに続く。弟の雄姿を見た長男・範資、次男・貞範が味方を叱咤激励したことで赤松家全軍による渡河作戦が行われた。「渡河は不可能」と思い込んでいた六波羅軍は恐慌状態に陥り、戦うことなく東寺方面への退却を始めたという。
東山蓮華王院の戦い(京都府京都市東山区)……同三月、蓮華王院はいわいる三十三間堂。勢いに乗った赤松軍だが、蓮華王院に立て籠もった六波羅軍は必死に防戦したことを受け、赤松軍は惨敗。円心親子は笠印(敵味方の識別章)を捨て、敵に混じって八幡方面に逃走。このとき、赤松方の太山寺の宗徒の大将・大夫坊源真、肥後房有慶が相次いで戦死。失望した円心が、淀川の葦間に潜み、夜が明けるのを待って自害しようとした話が伝わる。『太山寺文書』
※この蓮華王院の戦いで討たれた首級の中に、『赤松入道円心』の札が付けられた首が5つもあったところから六波羅軍の上層部の誰もが円心の顔を知らなかったことが伺える。
八幡、山崎の陣……蓮華王院の戦いに敗れた赤松軍は、戦略を力攻めから兵糧攻めに転換。西国街道と淀川の水路をおさえ、京都への物流を止めることで六波羅軍を圧迫。半月ほど経過した三月廿八日、および四月三日、比叡山の宗徒とともに京都を攻めるが六波羅軍の抵抗によって攻略を断念。八幡に兵を引き上げさせた。四月八日に味方の千種忠顕が後醍醐天皇の命で丹波国から六波羅攻略を狙うが、、丹波の軍勢も六波羅軍に敗れ、八幡の赤松の陣に落ち延びた。
久我畷の戦い(京都府乙訓郡大山崎町)……同四月廿七日、鎌倉から名越高家と足利高氏の援軍が到着した事を受け、六波羅軍は名越軍七千騎を鳥羽口、足利軍を丹波口につけ、二方向から赤松軍を挟撃することで一気に勝負に出た。戦いは、最初こそ六波羅軍の思い通りに運んだが、赤松家重臣・佐用兵庫介範家が伏兵にて総大将・名越高家(北条高家)を一矢で射落としたことで形勢は逆転。高家戦死の報を聞いた高氏は、丹波に入り、篠村八幡にて北条氏討伐を宣言する。高氏の宣言を受け、丹波・但馬の御家人が呼応。播磨からも廣峯大別当・廣峯貞長、宍粟三方郡の安積守氏らが駆け付けた。
東寺の陣と六波羅陥落(京都市南区)……同五月八日、篠村から引き返してきた高氏とともに、赤松軍は京都六波羅攻略に向けて東寺に陣を敷く。もはや六波羅に抵抗するだけの戦力は残されておらず、北条仲時、時益は京都を逃れ、六波羅探題は陥落した。
円心、このとき齢五十五。大願成る。




