8 ハーミット男爵家の現実
医師からは3年近く前に「もう薬は要らないでしょう。仕事も徐々に再開してください」と診断が下りている。
だが父は、「何となく調子が悪い」「自分は直系血族ではないから周りから認められていない」「まだ悲しみから立ち直っていないのに無茶を言わないでくれ」などと嘆き、泣き、役割から逃げ続けた。
──私と兄には、嘆く暇すらなかったのに。
言い訳するなと恫喝したいのを歯を食いしばって自制し、私は低い声で応じた。
「だからこその、『男爵代行』の肩書でしょう。いつまでお兄様に仕事を丸投げするおつもりですか」
「セドリックはいずれ男爵を継ぐんだから、構わないだ──」
「今は貴方が当主だと言っているんです」
代行だろうと何だろうと、現在の当主は父ザカリー。
なのに父は何もしようとしない──いや、常日頃、我が家の財を食い潰して大変偏った分野にお金を還元しているが。皮肉な思考が脳裏をよぎる。
「アレクシア、一体どうしたんだ? いつもならそんなひどいこと言わないじゃないか」
父は既に涙目になっている。
いつもそうだ。父は良く言えば自分の感情に素直、悪く言えば自制心がなく、自分に都合の悪いことを指摘されたり叱責されたりするとすぐに我が身を哀れんで嘆き始める。
いつもはそんなひどいこと言わない──確かにその通りだ。
何故ならずっと、我慢してきたから。頑張ればいずれ報われる時が来る、父が理解してくれる日が来ると信じていたから。
でももう駄目だ。父の涙を見ても、もう同情心など欠片も湧かない。むしろいい加減にしろと怒鳴りたくなる。
今日は、あまりにも、色々なことがあり過ぎた。
「いつも、なら?」
父の言葉を反芻し、私は唇の端を吊り上げた。
父が青くなってさらに後退る。私は今、どんな表情をしているのだろう。
「ダニエルが溜め込んだ昨日の分の書類と今日新たに来た書類を処理して、合間にダニエルが外で引っ掛けた女性が商会に乗り込んできたのを何とか説得して帰ってもらい、やっと仕事が一段落ついたと思ったら「僕には心から愛している人が別にいる! 婚約解消だ! でも僕の片腕として雇ってやっても良い、これからも仕事はしろ」などと言われ、疲れ切って帰ってきたら父は執務室でお酒を飲みながら女性とよろしくやっていて、婚約解消と言われたと報告したら「お前に非があったんだろう」と断じられて謝罪してこいと要求され、しかもその理由が「お金がもらえなくなるから」。これの、どこに、『いつも』の要素がありますか? ──ああ、貴方にとっては真昼間から女性とお酒を飲んでいるのは『いつものこと』でしたか」
「ち、父親に向かってそんな言い方」
「父親だというのなら相応の役割を果たしてください。今の貴方の立ち位置は、どう考えても父親ではなく、ただのヒモです」
「ひ、ヒモ!?」
「ああ訂正します、ヒモは家事をやってくれたり同居する女性を癒してくれたりするらしいので、ヒモの方がましかも知れません」
3年間の商会業務で、無駄に語彙力が上がっている気がする。
父はいちいち傷付いた顔をしているが、私にとってはもうどうでもいい。もう配慮も遠慮もしない。
私のことを『レトラ商会からお金を引っ張ってくるための手段』くらいにしか思っていない相手に、そんなことはするだけ無駄だ。
私は半ば無理矢理父を押し退け、執務室の扉を開けた。
「お客様、当家はこのような状況ですので、本日はもうお帰りください。本日分の代金は請求書をいただければお支払いいたします。ただし、今後のお付き合いは控えさせていただきます。お店の方で父ザカリー・ハーミットを出禁にしてください。それから、呼び出しがあっても応じないでください、代金をお支払いできませんので」
「なっ…! そんな、勝手に!」
「勝手? 誰のことを言っているのですか?」
揺れるカーテンから視線を外し、振り返って真顔で見詰めると、父はウッと言葉に詰まった。
今まで勝手をしていたのはどう考えても父の方だ。母を亡くしたショックから立ち直っていないと嘯いて職務を放棄し、裏ではハーミット男爵代行の権限を利用して我が家の貴重な収入を女性のいる店に注ぎ込んでいた。被害者面をする権利などあるものか。
「女性と楽しく遊びたいのであれば、ハーミット男爵家の生活費から出すのではなく、ご自分で稼いだお金でどうぞ」
「か、稼いだお金?」
「母と結婚する前は領主様の下で文官として働いていたのでしょう? 経験者ですもの、頭を下げれば雇っていただけるのではありませんか?」
実際にはそんな簡単な話ではないだろうが、知ったことではない。レトラ商会から渡されていた結婚準備金が途絶える以上、父に無駄金を使わせるわけにはいかない。
…そもそも結婚準備金は私が結婚の準備をするために使うものであって、ハーミット男爵家の生活費や父の交遊費に消えて良いものではなかったはずだ、という指摘は頭の隅に押し込んでおく。
「だ、男爵代行が文官仕事なんて」
「他家のご当主の中には文官として働いている方もいらっしゃいますよ。──自分が男爵代行だという自覚があるのなら、遊び呆けてないで仕事をしてください」
冷ややかに告げていると、執務室の中から足音が近付いてきた。
「お待たせいたしました、大変申し訳ありません」
頭を下げるのは、黒髪の女性。背が高くすらりとした体格で、切れ長の目が魅力的な美女だ。太ももまで大胆にスリットが入った艶のあるドレスがとてもよく似合っている。
女性は顔を上げながら、私に一枚の紙を差し出した。
「こちら、本日の請求書です。取り急ぎまとめさせていただきました」
「ありがとうございます」
仕事が速い。私は表情を緩めてそれを受け取る。
サッと視線を走らせると、合計金額に二重線が引かれ、金額が訂正されているのが目に留まった。訂正後の金額は、かなりお安くなっている。
「あの、この合計金額…」
どういうことだろうか。戸惑いながら見上げると、黒髪の女性は苦笑しながら首を傾げ、そっと自分の口元に人差し指を立てた。
「お家の内情を聞いてしまった、謝罪分…とでも思ってくださいませ。ザカリー様を出禁にする件も呼び出しに応じない件も、委細承知いたしました。同業の他店にも情報を回しておきますので、そこはご安心くださいな」
「えっ!?」
「ありがとうございます、本当に助かります」
父が背後で絶望的な声を漏らしているが、きっぱりと無視する。女性も父の方を一瞥もせず、そっと私の耳元に唇を寄せた。
「…実を言うと、この営業時間外の呼び出しにも辟易していたんですの。こちらこそ、感謝の念にたえませんわ」
驚いて女性の方を見やると、ぱちり、至近距離でウインクが返ってくる。
悪戯っぽい表情は存外親しみやすく、一見高嶺の花のように思える見た目とのギャップがすさまじい。なるほど、流石はその道のプロ。
「──ジョージ、いますか?」
「こちらに」
気を取り直して廊下に声を掛けると、すぐに老執事がやって来た。やはり、近くで見守っていたらしい。青い顔で泣きそうになっている父を無視して、私の手から請求書を受け取る。
「この方に、早急にお支払いを。…この金額ならばすぐ用意できると思うのだけれど、どうかしら?」
「はい、今すぐご用意いたします」
請求書を一瞥し、ジョージが深く頷いて踵を返す。
これなら、後々女性の店に支払いに行かなくて済みそうだ。私は少しだけ安堵しながら女性に向き直った。
「お帰りの際に、執事から代金を受け取ってください。このたびは当家のいざこざに巻き込んでしまい、申し訳ありません」
頭を下げると、いいえ、と微笑みが返ってくる。
「私も職業柄、色々な場面に遭遇しておりますから…どうかお気になさらないでください」
夜の店に勤めているとそういうものなのだろうか。確かに、お金関係に色恋沙汰にと、様々な要素が絡んできそうではあるが。
この女性、かなり肝が据わっているらしい。内心感嘆していると、女性は一歩こちらに歩み寄り、失礼いたしますね、と断りを入れてからそっと私を抱き寄せた。
温かくて柔らかい。甘い香水に交じって、どこか安心する匂いがする。部屋や父から漂う香水の匂いは不快でしかないのに、とても不思議だ。
「──どうか、ご無理をなさいませんように」
「え?」
優しい腕の中、落とされた気遣わしげな呟きは、完全に予想外だった。




