7 ザカリー・ハーミット
部屋を出た後、受付で「ダニエルとの婚約は解消になりました。私はもうここには来ません、ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。今までお世話になりました」と頭を下げて、私はレトラ商会本店を辞した。
応対してくれた商会員は呆然としていたが、すぐに商会内に情報を回してくれることだろう。レトラ商会は良くも悪くも、人が辞めることに慣れている。
レトラ商会本店から我が家、ハーミット男爵家の屋敷まではそれほど離れていないので、移動手段は徒歩だ。朝は足早に通り過ぎた商店街を、ゆっくりと歩く。
街並みは夕暮れに赤く染まって、道行く人の足取りは軽い。今日の夕飯はどうしようと悩む声、今日は肉が安いよという店の呼び込み、平和な会話がどこからともなく聞こえてくる。
賑やかで穏やかな日常の一幕。それに物寂しさを感じるのは、多分私自身の精神状態のせいだろう。
怒りが過ぎ去った後、残ったのはひどく乾いた虚しさだった。
あまりにもあっけなく、私の3年間はなかったことにされた。
ほぼ初対面から「地味だな」と冷笑されていたのを我慢して笑顔を浮かべた日々も、慣れない商会業務に何とかついていこうと休みなく働いた日々も、求められるまま重ねた努力も、何もかも。
──私は、何のために頑張っていたのだろうか。
そんな言葉がぽつりと胸中に浮かび、足がまた一段、重くなる。
ずっと努力してきた。してきた、つもりだった。ダニエルに恋愛感情はなかったけれど、せめて信頼し合える相手になろうと、商会の仕事を覚え、彼や商会関係者の好みの茶葉やお菓子を覚え、可能な限りあちらの意に添うようにした。
ではそれは、何のためか。
答えは簡単だ。家のため。ハーミット男爵家のため。家同士で決められた繋がりをより良きものにできるよう、ダニエルの良き婚約者として振る舞うようにと──それが男爵家の娘として当然の責務だから。
「──只今戻りました」
足が重くなっても、前に出していれば家に着く。
貴族とはいえ、最下位の男爵家。屋敷はそれほど広くない──というか、平民の富豪の家の方がよほど立派だ。
庭とも呼べない植え込みの間を抜けて扉を開くと、少し驚いた様子の老執事、ジョージが足早に歩み寄ってきた。
「お嬢様、おかえりなさいませ。本日は早かったのですね」
お出迎えもせずに申し訳ありません、と頭を下げるその右手には、雑巾が握られている。人手が足りないため、使用人を束ねる立場であるはずの彼も毎日屋敷の掃除に駆り出されているのだ。
「気にしないで。──お父様はご在宅かしら?」
いつもと違う時間に帰ってきたのは私の都合で、彼の行動に非はない。重い内心を表に出さぬよう何とか笑顔を作って訊ねると、ジョージは軽く目を伏せた後、改めて背筋を伸ばして一礼した。
「はい、今は執務をしておいでです」
「執務室ね。分かったわ、ありがとう」
笑顔が一瞬引きつった。それでも何とか頷いて、私はジョージと別れ、階段を上る。
ジョージの言う「執務をしている」は仕事をしているという意味ではない。そもそも父は家の仕事などほとんどしていない。
「お父様、アレクシアです」
屋敷の2階、本来は当主が仕事をするはずの『執務室』の扉をノックすると、扉の向こうでガタッと慌ただしい物音がした。
ややあって、急いたように扉が開く。
「き、今日は早かったんだねアレクシア」
「只今戻りました、お父様」
焦りが前面に出ているのには気付かないふりをして、私は丁寧に一礼する。
長身痩躯、いかにも優しそうな顔立ちの父ザカリー・ハーミットは、扉を中途半端に開けたまま、困ったように眉を寄せた。
「何かあったのかい?」
「廊下で話すようなことでもないのですが…」
部屋に入れてほしいと視線で示すと、父は慌てた様子で身を乗り出してきた。
「いや、ここで大丈夫だよ、うん!」
ちらりと見えた床にはワインの瓶が転がっていて、甘ったるい女性向けの香水の匂いも漂ってくる。
ジョージに「父は執務中」と聞いた時点で分かってはいたが、正直頭が痛い。ダニエルも父も、やっていることは大差なかった。
ともあれ、ここで大丈夫だというのならここで報告してしまおう。
使用人たちにも、恐らく執務室の中に隠れているであろう『お客様』にも聞こえてしまうだろうが、もう構うものか。
私は姿勢を正し、顔を笑みの形に押し固めてから告げた。
「ダニエル・レトラ様より、婚約解消を言い渡されました」
「…へ?」
「ダニエル様には、私とは別に、心から愛する方がいらっしゃるそうです」
もっとも、その『心から愛する方』当人はそんなことは知らぬという態度だったが──という説明はできなかった。父が目を見開き、こちらに詰め寄ってきたからだ。
「一体どういうことなんだ!?」
掴まれた肩が痛い。開け放たれた扉の向こう、妙に膨らんだカーテンが不自然に揺れるのが見える。
「申し上げた通りです。ダニエル様は他に好きな女性ができたので、私との婚約を解消し、その方と結婚するそうです」
父から、香水と酒と体臭の入り交じった匂いが漂ってくる。
いつもなら「またか」で済ませるその香りが今日はどうしようもなく不快で、私は顔を背けながら答えた。私の肩を掴む手に、さらに力が込められる。
「だからって、家同士の取り決めをこうも簡単に──」
言っている途中で、父は何かに気付いたようにハッと表情を変えた。
「アレクシア、お前に原因があるんじゃないか? 婚約者として不足があったから、彼は目移りして──きっとそうだ!」
その顔はみるみるうちに確信めいたものに変わる。父は目をぎらつかせ、至近距離で叫んだ。
「今すぐレトラ商会に戻って、ダニエルに謝罪するんだ! 何が何でも婚約解消を取り消してもらって、これからもお金を貰えるように」
「──ふざけないでください」
あまりにも身勝手な言葉に、腹の底から声が出た。ヒッと息を呑んで固まった父を、怒気を込めた目で睨みつける。
「私は、原因はダニエルの浮気だ、と申し上げました。たとえそれが私を気に入らないからだったとしても、私と直接話し合いもせず、歩み寄りもせずに、他の女性に目移りした挙句一方的に婚約解消を言い渡してきたのはあちらです。私が謝罪する理由もなければ再構築の余地もありません」
「で、でもレトラ商会からのお金がないと我が家は」
破綻する、などと言わせてなるものか。
「お父様の交遊費を削れば十分黒字を維持できます」
「え」
ぴたりと固まる父の額、前髪に隠れるように、赤いルージュが付いている。それを冷ややかな目でちらりと見遣り、私は父の顔に視線を戻した。
「毎日のように飽きもせず、女性のいる店に入り浸っているようですね。しかも、わざわざ昼間に店を開けさせてまで。今日のように執務室にご招待していることもあるようですが──私が気付いていないとでもお思いでしたか?」
「うっ…」
「そのお陰で、我が家の収支は常に赤字ギリギリ、使用人たちの制服の替えを買うのにも苦心する始末なんです。いい加減、現実に立ち返っていただけますか、ハーミット男爵代行」
そう呼んだ途端、父は私の肩から手を離し、怯えたように後退った。
この国の貴族は血統主義。爵位を継げるのは、基本的に直系血族だけ。ハーミット男爵家は母の家系で、父は入り婿だから、父に爵位継承権はない。
5年前、先代男爵夫妻──祖父母が亡くなった後すぐに、本来の跡継ぎであった母も流行り病で亡くなった。
規則に則れば次のハーミット男爵は私の兄、セドリック・ハーミットだが、年齢と経験が不足していたためすぐに跡を継ぐのは制度上不可能とされ、中継ぎとして特例的に父ザカリーがハーミット男爵代行となった。
が、父は母を喪って意気消沈しており、実務に携われる状態ではなかった。
結果、学院を卒業したばかりの兄が家の仕事──領主様から任されている荘園の管理を、当時まだ学生だった私が家の中の使用人などの管理を担うようになった。
以来それが、ずっと続いている。
恐らく最初は、父も本当にショックで仕事どころではなかったのだろう。医者にもかかっていたし、実際に日常会話にも事欠く有り様だった。
──だが、今は違う。
「げ、現実…?」
「今現在、貴方が、この家の当主の役割を担っている、という現実です」
「で、でも、私は直系血族ではないし」
父の目が泳いだ。




