6 予想外の事態
ぱたん、と静かに扉が閉まる。
「あ…」
私は片手を中途半端に挙げたまま、呆然とそれを見送った。
何で。どうしてこうなった。昨日までは順調に事が進んでいたはずなのに。
出て行ったあの人は、きっと誤解している。だって薄く微笑んではいたけれど、一度も目が合わなかった。そしてどう見ても、いろんなことが心底どうでもよくなった時の目をしていた。
そんな目をさせたのが、よりによって、私だなんて。
「ウェンディ」
「!」
ぽんと肩に手を置かれて、私はビクッと飛び上がった。振り向くと、商会長の息子がそれはそれは幸せそうな顔をして立っている。
「これで僕たちの障害はなくなった」
私を上から下まで眺めて頷き、キリッとした笑みを浮かべ、
「これからは誰に憚ることもない。堂々と愛を語らえるよ!」
両腕を広げて歌劇役者のように宣言する、その腹に──
「──っざけんじゃないわよ!!」
ドスッ!
「ゴフッ!?」
私は右の拳を力一杯叩き込んだ。
ダニエルがちょっと浮いた後、背中を丸めて膝から崩れ落ちる。
私はそれを見下ろし、ふん、と鼻で息をついた。後悔のようなものが一瞬心の隅をかすめたけれど、今更だ。今の私の心の大部分を占めるのは──頭が沸騰しそうなほどの怒り。
改めて思い切り息を吸い込み、腹に力を入れて、
「誰が、いつ、あんたの恋人になったってのよ、この勘違い野郎! あんたのせいで全部台無しよ!」
「へ、は?」
自分の腹を抱き締める格好で、ダニエルがこちらを見上げる。とても間抜けな顔がますます私を苛立たせた。
「私は、アレクシア様の下で働きたかったの! あんたなんてお呼びじゃないのよ!!」
レトラ商会は、成長著しい新興の大商会だ。
だけど跡取りと目されているこの男は、お世辞にも商人向きとは言えない。
後先考えずに目先の利益に飛びつき、無駄に見栄を張る。何より最悪なのは、女癖が悪い──いえ、そんな言葉じゃ生温い。下半身でものを考えているとしか思えない、この節操のなさ。無駄にそこそこ顔が整っていてそれなりに口が上手いあたり、余計に性質が悪い。
そんな男がレトラ商会の本店を任されて、いまだ何とか無事でいられるのは、婚約者であるアレクシア・ハーミット様の手腕のお陰だと本店の商会員はみんな知っている。
ダニエルが勝手に契約してきたどう考えても利益の出ない商取引の規模を可能な限り圧縮して損害を最小限に収め、一見大したことなさそうな細々した契約で利益を積み重ねてその損害を補填する。
他の商会や工房への無茶振りは、知った時点で情報を回して頭を下げ、納期と契約金を調整して先方に納得してもらう。
ベテランの商会員も感嘆するその手腕を、アレクシア様は最初から持っていたわけじゃない。彼女は男爵令嬢、お貴族様だ。商売に関しては素人──だった。
紺色の髪に、深い青の瞳。美しく整った顔は、一見すると冷たい印象を受ける。
けれどその実態は、聡明で礼儀正しく勤勉、そして大変な努力家だ。
レトラ商会の跡取りの婚約者になったからと、アレクシア様は商取引に関する全てを一から学び、身に付けた。
帳簿の見方、書類の処理方法、お茶の淹れ方、お客様や取引相手を出迎える時の、多分貴族とは全く違うマナーに独特の言い回し、商品の良し悪しの見極め方、考え方に至るまで、全てを。ご自身の努力によって。
最初は「所詮は貴族の道楽」と斜に構えた見方をする商会員もいた。でも、アレクシア様はひたむきに業務に向き合い、どんな立場の相手にも真摯に教えを請い、どこまでも真面目だった。
今では本店の商会員のほぼ全員がアレクシア様のことを信頼しているし、この御方ならばと特別に取引を始めてくれた工房だってある。
そのアレクシア様を、この男は今、盛大に裏切った。しかもその理由が私だなんて、悪夢以外の何ものでもない。
私はアレクシア様の下で働きたかったから、人事権を持つこの男に近付いた。
頑張っているところを見せれば多忙なアレクシア様の片腕として配置してもらえる、少なくともその配属希望が出せると思って、何度も「アレクシア様の下で働きたい」とアピールしてきた。
アレクシア様は独身女性、しかもこの男の婚約者だから、部下を持たせるなら女性が指名されるだろうという打算もあった。
そのためなら多少セクハラじみたことをされても我慢しよう、などと思っていたし、実際我慢してきた。
そして──結果はこの通りだ。自分の馬鹿さ加減に涙すら出ない。
本能と条件反射だけで生きているようなこの男に、マトモな思考を期待するだけ無駄だったのだ。
「…もういいわ」
私は腕組みしてダニエルを見下ろした。
「本日限りで、私、ウェンディ・ロレンスはレトラ商会を辞めます。今までお世話になりました」
「なっ…何を言い出すんだ!?」
声が平坦になってしまったのは当然だと思う。
目を見開く阿呆を無視して、私は執務机の上の紙に定型文を走り書きする。
退職届──即席だけど、日付けと私の名前が入った正式な書式だ。それを覗き込み、ダニエルが青くなった。
「どうしてだ!? あの女はもういないんだぞ!?」
…あん?
話を聞いていなかったのか。私は無言で顔を上げる。視線がかち合い、ダニエルがヒッと変な音を立てて硬直した。
「だから、に決まってんでしょうが」
多分私は今、仕事中に絶対してはいけない顔をしている。
でももう構うものか。生活を立て直すために父の昔の伝手を使って入った商会だけど、もういい。アレクシア様のいないこの商会に用はない。
「私は、あんたの恋人とやらになる気はないし、愛人も真っ平御免よ。冗談じゃないわ」
「な、なんだ、そんなことか。それなら婚約者に」
「お断りだって言ってんでしょうが!!」
「ぐふっ!?」
みぞおちに私の拳がめり込んで、ダニエルが再度、床に沈む。
護身術を習っていて本当に良かった。心の底からそう思いつつ、私は冷たい声でダニエルに告げた。
「この退職届は上長から提出していただきます。二度と私に話しかけないでください。さようなら」
荒い足音を立てて自分の部署に戻った私は、そのまま退職届を上司に提出した。
「──というわけで、私、仕事、辞めます」
ダニエルの執務室は結構音漏れがする。私の怒声は聞こえていたはずだ。
案の定、部門長は苦笑しながら退職届を受け取った。
「何か派手に叫んでたな。父親のコネで入ったのに、良いのか?」
「父のコネなんて、元々あってないようなものですから」
私の父は、ロレンス商会の商会長だった。
でも数年前に父が事業に失敗して盛大に損失を出し、ロレンス商会はあっけなく瓦解してしまった。王都にも名を轟かせた大商会は、いまや見る陰もない。
その意味でも、ダニエルが私に寄せた期待は勘違いも甚だしい。
客なんて紹介できるわけないでしょ。借金の残務処理のために名前を残してるだけで、マトモな商取引なんて一つもやってないんだから。紹介できるとしたら、違法すれすれの利子を吹っかけてくるガラの悪い金貸しだけよ。
私はふんと鼻を鳴らして胸を張った。
「次の仕事は自力で探します。アレクシア様のいないレトラ商会に、居続ける意味はありません」
言った瞬間、部署全体の空気が凍った。
ぱさり、部門長の手から私の退職届が滑り落ち、先輩たちが一斉にこちらに振り向く。
「……は?」
「今、何て」
誰も彼も、信じられないものを見た時のような顔をしている。
多分、アレクシア様の声は聞こえていなかったのだろう。あの方の声は聞き取りやすいけれど落ち着いていて、そんなに音漏れしないから。
「アレクシア様は、本日限りでこの商会のお手伝いをやめました。もうご帰宅なさってますよ」
「な…何故!?」
「あのバ──コホン、ダニエル様がアレクシア様に『心から愛する人が貴族の客を紹介してくれるからお前はもう不要、婚約は解消するが、商会員として雇ってやっても良い』とか言い出したからです。アレクシア様は雇用をお断りして、婚約解消だけ了承して出て行きました」
「ばっ…!」
「はあ!?」
「心から愛する人って誰だよ!?」
「私なんだそうです」
ものすごく不本意ではあるが、完全に誤解なのだが、ここでちゃんと説明しておかないと大変なことになる気がする。
私が言った途端、騒然となりかけていたみんなが音を立てて凍った。まさか身内が浮気相手だなんて思っていなかったのだろう。
ふ、と私は口の端を歪めた。
「──って、あのバカ息子が勝手に言い出したんですよ! 鼻の下伸ばしてニヤニヤ笑いながら呼び掛けられるのだって不快極まりなかったのに、冗談じゃない! そんな事実、ゴキブリの触覚の先にすらないっての!!」
「ゴキ…」
「落ち着きなさいって」
「口調がヤバいぞ」
「ヤバくもなりますよ!」
目をかっ開いて周囲を睥睨すると、先輩たちは静かになった。私は胸に手を当てて続ける。
「アレクシア様の下で働きたかったから頑張ってたのに、私がアレクシア様を追い出した形になったんですよ? アレクシア様にどうお詫びすれば良いんです? いっそあのバカ息子の頭丸刈りにして土下座させれば良いですか?」
「ぐふっ…」
一部の先輩は吹き出して顔を背けたり、口元を引きつらせたりしている。
おいやめろ、と呟いている人もいるが、もはや私の脳内に自重という文字はなかった。アレクシア様を蔑ろにする阿呆は地獄に落ちればいい。むしろ私が全力で突き落としたい。
…その『阿呆』に私も含まれてしまったという点に関しては、忸怩たる思いというやつだが。
「まあ待て、ウェンディ」
私の退職届にサインしながら、上司が困ったように笑う。
「逆に考えるんだ」
「逆?」
「アレクシア様がダニエル様との婚約を解消してレトラ商会からいなくなったってことは、だ。──無茶ばかり押し付けられてきちんと評価もされずに働いてきたアレクシア様が、やっと自由になれた、という見方もできるんじゃないか?」
「…!!」
私はハッと目を見開いた。急に視界が拓けた気がする。
自由。自由になれた。
そうだ──アレクシア様は、ダニエルなんかに搾取され続けていい人じゃない。そもそも、この程度の規模の商会の馬鹿な三代目の配偶者なんて器に収まる人じゃない。
もっと、もっと、あの方らしく輝ける場所はきっとある…!
胸の奥に熾火のように残っていたものが、急に疼き始める。そわそわと足踏みを始める私に、上司が苦笑した。
「分かったら、ダニエル様への意趣返しはやめておけ。後々面倒なことにならないようにな」
「分かりました」
釘を刺されてしまった。正直まだやり足りない気分だが、私は渋々頷く。
「腹パン2発入れて罵倒してきたんで、それで我慢しておきます」
「うわ」
「もう殴ってたのか…」
ドン引きされているような気がするが、それが何だ。私にはこれからやるべきことがある。
上司が深く頷いて、サイン済みの退職届を掲げた。
「自重してくれて何よりだ。──退職届は今日付けできちんと処理しておく。仕事の引き継ぎは大丈夫か?」
「あっ…」
言われて我に返る。アレクシア様と違って、私の手元には処理途中の書類がいくつか残っていた。
いくらダニ某が嫌いでも、仕事を途中で投げ出すのは流儀に反する。私は慌てて自席に戻り、先輩たちに頭を下げて仕事の引き継ぎを始めた。
──結局その日は、それで精一杯。
翌日、本当に仕事を辞めた私は謝罪と弁明のためにハーミット男爵家を訪ねたのだが──アレクシア様は、ご実家からも姿を消していた。




