5 突然の宣言
「──ダニエル様、ご在室でしょうか?」
ノックの音と共に響いたのは、午前中も聞いた、はきはきとした女声。
書類の処理をしていたダニエルが、弾かれたように立ち上がっていそいそと扉に向かう。「入れ」の一言で済む話なのにわざわざ出迎えに行くその顔は──明らかに鼻の下が伸びていた。
「やあウェンディ、ご苦労さま」
「…はい。ええと、こちら、急ぎの提出書類になります」
ドアのすぐ前に立つダニエルを見上げ、ウェンディが若干引きつった笑顔で応じる。
どう見ても嬉しがっている顔ではないが、ダニエルは気付いていないらしい。書類を差し出そうとするウェンディの手を取り、手慣れた様子で部屋の中に招き入れる。
ダニエルは喜色満面、ウェンディは掴まれた手を眺めて吐きそうな顔、その対比が何とも滑稽だ。
ダニエルはウェンディをソファーに座らせ、当たり前の顔でその隣に座り、書類の束を手に取った。
ウェンディはじりじりと距離を取ろうとしているが、残念ながらソファーは2人掛けなので限界がある。
「アレクシア」
「はい」
私が対面に座ると、ダニエルは面倒臭そうに書類の束をローテーブルにばさりと置いた。
「君の仕事だ。今日中に頼む」
「…今日中?」
書類を一瞥して、少々顔が引きつった。関連資料との照合が必要な支払い関係の書類だ、どう見ても終業時間までに終わる物量ではない。
ウェンディが慌てた様子で私に対して身を乗り出した。
「い、いえ、今日中でなくて大丈夫です! 申し訳ありません、元々こちらの提出が遅れたせいですし、明日の午前中までにいただければ、後はこちらで何とかします!」
私が午後イチで処理した書類──本当だったら昨日処理できていたはずの案件の関連書類だ。急ぎには違いない。
どうしたものかと明日の業務予定を頭の中で反芻していると、ダニエルが感極まったように目を輝かせた。
「流石はウェンディ、配慮が行き届いているな! でも気にしないでくれ、アレクシアの仕事が遅いのが悪いんだ」
「は? ──いえ、こちらが悪いんです!」
…一瞬、妙にドスの利いた女声が聞こえた気がしたが、気のせいだろうか。
私の仕事が遅いも何も、昨日、ダニエルが書類を進めてくれていたら何も問題はなかったのだ。
とはいえそれをウェンディの前で指摘するのは流石に憚られる。私は眉間にシワを寄せて書類を眺め、ぽつりと呟いた。
「…ダニエル、こちら、先方に謝罪の一報を入れてくれないかしら?」
マリーの店の一件と同じく、取引先への支払いの手続き書類だ。既に期日はギリギリなので、先に一報を入れておいた方が良い。そして、謝罪するなら私の名前ではなく、本店の店長であるダニエルの名前で出すのが道理。
私としては当然の配慮のつもりだったのだが、言った瞬間、ダニエルの表情が歪んだ。
「謝罪? 僕に謝れって言うのか! 君が急いで仕上げて間に合わせれば良いだけの話じゃないか!」
「間に合わせるにしても、万が一を考えて連絡しておいた方が良いわ。それに直接じゃなくて、商会員に頼んでメッセージカードを届けてもらえば良いのよ」
いつになく激しい口調で拒否するダニエルに内心驚きつつも、私はなるべく穏やかに告げる。
これはベテラン商会員に教えてもらった方法だし、それほど珍しくもないはずだ。──そういえばダニエルが謝罪文を書くところを見たことはないが。
「うるさい!」
ダニエルは私の提案を一蹴した。怒りで顔を赤くして、私に指を突きつける。
「次期商会長が、そんなに簡単に頭を下げて良いはずないだろ! やっぱり君は、僕の婚約者に相応しくない!」
「なっ…!」
声を上げたのは私ではない。ダニエルの隣で、ウェンディが愕然と目を見開いている。
とんでもないことを口走り始めた婚約者殿に絶句していると、ダニエルは突然、ウェンディの肩を抱き寄せた。
「──僕には心から愛する人がいるんだ! 男爵家なんて名ばかりで、金食い虫でしかない家がレトラ家と繋がりを持とうなんて笑わせる!」
いや、ハーミット男爵家が金食い虫なのは否定しないが、男爵家──貴族と繋がりを持とうとしたのはレトラ家の方なのだけれど。実際、私が招待された貴族家の夜会にダニエルも婚約者枠で何度か参加していたではないか。
そんな突っ込みは喉の奥で消える。
ウェンディが真っ青な顔で私とダニエルを見比べている。どう見ても、ダニエルの『心から愛する人』の顔ではない。どちらかというと、巻き込まれた被害者の顔だ。
そんなことにも気付かず、ダニエルは勢いのまま、言葉を続けた。
「婚約は解消だ! 僕は、ウェンディ・ロレンスと婚約する!」
「っ! …!!」
怒り交じりに、だがどこか勝ち誇ったように宣言するダニエルに肩を抱かれ、ウェンディが必死に首を横に振っている。
…何だろう、この混沌極まりない状況は。
一周回って脱力感を覚えながら、私は一応、訊いてみた。
「…婚約を解消すると、貴族家との繋がりが断たれることになるけれど、それは良いの?」
この婚約でレトラ商会が得ていたのはそれだ。が、ダニエルは鼻で笑った。
「ふん、何も知らないんだな。ウェンディの実家はロレンス商会──王都にも名を轟かせる大商会だ。ハーミット男爵家なんて下の下の家より、よっぽど貴族社会への伝手がある」
ロレンス商会。確かにダニエルの言う通り、この領地で創業し、王都にまで支店を出していた大商会である。
ただし、それも昔の話。とある事業で多額の損失を出したロレンス商会は、今では風前の灯火──というか、実質的には債務整理の段階に入っていたはず。
この領地で商売をしている者には有名な話だが、まさか知らないのだろうか。それとも、昔の伝手はまだ使えると思っているのだろうか。まあ確かに、伝手が使えるとしたら、うちの家よりよほど頼りになるとは思うけれど…ウェンディの表情を見る限り、全く、欠片も、現実的ではなさそうだ。
とはいえ、もはやそれを指摘する気力もない。
「…そう。分かったわ」
私が静かに頷くと、ダニエルはぱあっと目を輝かせ、ウェンディは真っ青な顔で目を見開いた。
その2人の前、私は書類の束をローテーブルに置く。
「それなら、私がこれ以上商会業務に関わる理由はないわね。この書類、貴方が責任を持って今日中に処理して頂戴、ダニエル」
「え」
ダニエルの顔が一瞬にして固まり、私と書類の間を視線が行き来する。3往復ほどしたところで、
「…い、いや、3年間の積み重ねを無下にすることもない! そうだ、これからは正式な商会員として働くというのはどうだ? 僕の右腕として、こう、活躍すれば給料もそれなりに──なっ?」
婚約者でなくなるということは、無償で働いていた便利な駒がいなくなるということ。ようやくその事実に思い至ったらしい。
…少々、馬鹿にし過ぎではないだろうか。
私は冷え切った笑顔を浮かべた。
「断固として、お断りよ。…婚約解消されたのに、元婚約者の右腕として働けですって? 馬鹿馬鹿しいにも程があるわ」
「なっ…失礼だぞ!」
「無礼極まりないことを先にしでかしたのはどちらかしら」
婚約解消を言い出したのはダニエルの方だ。その事実はどう転んでも変わらない。
ソファーから立ち上がると、自然、ダニエルとウェンディを見下ろす形になる。
この世の終わりのような顔をしているウェンディには申し訳ないが、もうこれ以上、この馬鹿な男と同じ空気を吸いたくなかった。
「──婚約解消については承りました。ご両親へのご報告はお任せします。こちらも、父へは今日中に報告しておきますので」
あまりにも急な展開。けれどもう、何もかもがどうでもいい。
精一杯の虚勢を張って背筋を伸ばし、私は丁寧に一礼した。
「それでは、ダニエル・レトラ様、ウェンディ・ロレンス様、ごきげんよう。さようなら」
執務室に私物と呼べる物はほとんどない。
その事実に今更ながら打ちのめされつつ、私は外套を羽織り、部屋を出た。
本日の更新分はここまで。
明日以降は、毎朝7時10分に1話ずつ投稿して参ります。
朝のお供にどうぞ。




