4 ダニエル・レトラ
その後、平謝りするマリーを「ダニエルと付き合っているわけではないのですから私が貴女をどうこうすることはありません。ですが、誤解を招く関係は早々に断ち切ることをお勧めしますよ」と何とか宥め、今回の訪問はあくまでマリーの勤める店への支払いの催促だったと言い含めて帰らせる。
少し遅めの昼食をいただいた後はひたすら書類の処理だ。帳簿の確認に各種決済、様々な情報をダニエルの代理人として捌いていく。
量は多いが、書類は目に見えて減っていくので気が楽だ。話が通じるか分からない交渉事よりよほど。
「アレクシア様、申し訳ありません。こちら、急ぎの決裁書類です!」
「分かりました──あら? ここ、桁が1つ違いませんか?」
「え? …あっ!」
途中、ちょっとしたトラブルがありつつも、仕事は順調に進み──全ての案件を処理し終えた夕刻、見計らったようにダニエルが帰って来た。
「今、戻った」
「お疲れさま、ダニエル」
上着を預かり、ドアのすぐそばにあるスタンドに掛ける。疲れた顔で肩を回しながら室内を見回したダニエルは、軽く片眉を上げた。
「僕が外で取引先と交渉している中で君は優雅にティータイムか。今日は暇だったんだな」
視線の先には、休憩用のソファーセット。シンプルなローテーブルの上には紅茶の入ったカップと焼き菓子が盛られた小皿が並んでいる。つい今しがたまで私がそこに座って紅茶を飲んでいたからだ。
けれど、その実情はへらへらと笑うダニエルの想像とは大分異なる。私は額に青筋が浮かばないよう自制心を総動員して、微笑を浮かべた。
「暇なわけないでしょう。貴方が放置していた昨日の書類と、今日新たに回ってきた書類を片付けて、今ようやく小休止しているところなの」
声色が刺々しくなるのは仕方ないと思う。ウッと呻いて視線を逸らす様子から、ダニエルにも仕事を後回しにしていた自覚があるのだと分かる。
自覚があっても、やらなければ意味はないのだけれど。
「午前中は来客対応もあったから、大変だったのよ?」
溜息と共に告げると、「何!?」とダニエルが目を見開いた。
「僕がいない間に、また勝手に商談したのか!? ちゃんと僕に話を通せと言ったじゃないか!」
確かに以前、ダニエルの代わりに来客対応した結果、何故か新たな商取引が成立してしまったことはある。だがそれはクレーム客を面倒がったダニエルが私に対応を丸投げしたからで、いわば不可抗力だ。
あと、私はダニエルの父──レトラ商会の商会長から、ある程度までの金額の商取引に関する権限を与えられている。一から十までダニエルに話を通す必要はない。
とはいえそれを指摘するとダニエルがへそを曲げるのは目に見えているので、別の方向から攻めてみる。
「あら、話を通した方が良かった? ──来たのはマリーさんという名前の若い女性だったのだけれど」
「いっ!?」
案の定、ダニエルはギョッとした顔で固まった。とても分かりやすい。
さて、この後はどう出るか──ちょっとした珍獣を眺める気分で観察していると、数秒後、
「そのー…彼女は何か言っていた?」
あからさまに勢いを削がれた様子で、目を逸らしながら訊いてくる。
「つい先日、彼女の勤める店を貸し切ってパーティーを開いたでしょう? その代金の支払いの催促だったわ」
私は軽い口調で答えつつ、ダニエルに紅茶を出した。慣れたもので、ダニエルは当然の顔でソファーに座り、表情を緩めながらティーカップを手に取る。
「そ、そうか」
「その後、『ダニエルを解放してあげてください!』と面と向かって言われたけれど」
「!!」
紅茶に口をつけたダニエルが、思い切りむせた。口の中のものを噴き出すのはギリギリでこらえてひとしきり咳き込んだ後、動揺もあらわにこちらを向く。
「なっ…か、解放…?」
「私が婚約を解消すれば、貴方は晴れて自由になって、マリーさんと一緒になれるから、だそうよ。──得意先のお店の従業員と仲良くなるのは良いことだけれど、節度は守ってほしいわ」
「そ、そうだよな!」
私としてはダニエルに釘を刺したつもりだったが、肝心のご当人は違う意味に解釈したらしい。ダニエルは大仰に頷き、わざとらしく眉を寄せた。
「いや実は、僕もあの思い込みには困っていて──接待には欠かせない店だから、無下にするわけにもいかないだろう?」
「そうね」
接待の必要性についてはとりあえず横に置いておく。先代商会長──ダニエルのお祖父様が商会を設立した当初から懇意にしている店だというから、商会にとって大事なのは確かなのだろう。
私に言わせると、そんな大事な店の従業員を軽率に口説くな、という話だが、ダニエルの頭の中では『向こうが勝手に言い寄ってきた』ということになったらしい。たった今。
いつものことながら、馬鹿馬鹿しい。私は小さく溜息をついた。
「とりあえず、マリーさんとは私が直接お話して、あちらは何も変な要求をしていないしダニエルとも何もなかった、という話でまとまったわ。貴方がどういうつもりで彼女と親しくしていたのかは聞かないけれど、今後、彼女の態度が変わるかも知れないというのは承知しておいてね」
マリーはかなり引いていたので、今後ダニエルは思い切り避けられるだろう。逃げようとする獲物を追われても困る。一応牽制のつもりで告げると、
「ふん…まあ、仕方がないか。平和に解決して何よりということにしておこう」
やたらと偉そうな反応が返ってきた。
…諸悪の根源が、どこから目線で何を語っているのかしら。
正直、かなりイラッときたが、それを表に出してもさしたる意味はない。私は再度、溜息をつく。
いつものことだ。ダニエルが浮気と呼ぶべきか微妙な線の振る舞いをするのも、相手が本気になって商会に乗り込んで来るのも、それにダニエル本人ではなく私が対応するのも。
この婚約は、家同士が決めたもの。私の実家、ハーミット男爵家はレトラ家から結婚準備金などの金銭を受け取り、レトラ家は男爵家と縁続きになることで、商会の商売相手を貴族にまで広げる足掛かりを得る。
レトラ商会はダニエルの祖父が始めた商会で、規模こそそれなりに大きいが客層はほぼ平民に限られている。今後の発展を考えると、貴族との縁は喉から手が出るほど欲しい──らしい。
利害が一致した両家が結んだ契約だ。ダニエルと私、個人の感情は考慮されていない。
だが──いや、だからこそ、考えてしまう。もう少し配慮してはくれないものか、と。
「平和…ね」
いつもなら溜息だけで済ませていただろう。が、今日は少し仕事もトラブルも引っ掛かりも重なり過ぎた。
口からこぼれたのは、皮肉な響きを帯びた小さな呟き。それが思いのほかはっきりと、部屋の空気を震わせる。
あ、と思った時には遅かった。視線を巡らせると、ダニエルが奇妙な表情でこちらを凝視していた。
「…」
驚き、困惑、怒り、悲しみ、苛立ち──全てがない交ぜになったような、あるいは何も考えていないかのような平坦な表情に、背中がぞくりとする。
だが、それも一瞬。ふー…と溜息をつくと、彼の顔は妙に整った笑顔に変わった。
「平和、だろう? 何事もなかったんだから」
いつも通り「そうね」と笑顔で頷けばいい、そうすればすべて丸く収まる──暗にそう求められている。瞬時に察することができる程度には、ダニエルとの付き合いは長かった。
けれど。
「貴方にとっては、そうなんでしょうね」
言ったことはなかったことにはならない。私は初めて一歩、踏み込んだ。
そっと握り締めた手のひらに、汗が滲む。それを悟られぬよう、ダニエルに負けず劣らずの整った笑顔を浮かべて、
「ねえダニエル、気付いているかしら? 貴方との婚約を解消しろとここに乗り込んできた女性は、マリーさんで5人目なの。3年そこそこで、5人よ? しかも毎回、対応するのは貴方ではなく、私。──どうしてかしらね、毎回狙ったように、貴方が不在で私が業務を代行している時に、商会に来るのよ」
私が指摘すると、ダニエルの目が泳いだ。
実際のところ、私はその理由を知っている。マリーが証言してくれたのだ──彼女が「私が婚約者を説得してあげる!」と息巻いていたら、ダニエルがご丁寧に私が商会にいる日時をいくつか教えてくれたと。
つまりダニエルは、意図的に、私が単身で対応するよう仕向けていたのだ。相手の女性に教えるのは、ダニエルが私を連れずに外出する予定がある日時。そういう時、私はダニエルの業務を代行するために商会の執務室に詰めているから、乗り込んできた女性に必然的に私が対応することになる。
面倒になった相手との関係を清算するのに、私を利用している。今まで薄っすら感じていたことが、マリーの証言でようやくはっきりした。が、
「偶然だろう。僕がけしかけたわけじゃない」
ダニエルは若干顔を引きつらせながらも、嘲笑じみた顔になった。この期に及んで、「軽率だった、ごめん」の一言すらない。
──ああそうだ。ダニエルは、そういう人だった。
彼は、自分の非を認めない。自分に非がないと思っているから、行動を改めることもない。苦言を呈したところで何も変わらない。
それはどうやら、こちらがどこまで踏み込んでも同じらしい。
…これからも、私が頑張るしかないか。
諦めにも似た結論に達して、私は苦笑した。
私が、頑張ればいい。今までもそうしてきたし、きっとこれからもそうなのだろう。ダニエルは決定的な裏切り行為をしているわけではないから、私が我慢すれば、頑張れば、全て丸く収まる。
「…そうね」
ぽつりと同意の言葉を口にすると、ダニエルはわずかに表情を緩めた。
これで、いつも通り。また日常が戻ってくる──私はそう思っていたが、実際は違った。
多分、私がいつもより踏み込んで、ダニエルに苦言を呈したからだろう。
彼は自分の非を認めない、つまり自分に対しては驚くほど甘いが、自分に不快感を与えた他人を許すほど鷹揚ではなかったらしい。
その日の終業時間前、一人の商会員が執務室を訪れたのをきっかけに、私の日常は一気に崩れた。




