3 婚約者の現実
ダニエルはそんな言葉は口にしていないはずだ。節操なしのわりにそういう頭はよく回るので、言質を取られるような言動はしないはず。
「僕と結婚した女性には絶対苦労なんかさせない」という発言はかなり危ういが、その『女性』がマリーを指しているとは限らない、という言い訳は成立する。勘違いした方が悪いのだと。
「思わせぶりなことは言っても、決定的な言葉はなかったのではありませんか? 付き合ってもいない、というお話ですし」
「それは、そう、ですけど…」
とりあえず今は、目の前の彼女に冷静になってもらい、穏便にお帰り願うのが先だ。決済待ちの書類はこうしている間にもどんどん増える。
私はなるべく穏やかに見えるよう表情筋を緩め、言葉を続けた。
「ダニエルが実際どういうつもりなのかは分かりませんが──個人的な意見を申し上げるなら、彼は結婚相手としてお勧めできる相手ではありませんよ」
「……は? あの、貴女は彼の婚約者…ですよね?」
マリーが唖然とした顔になった。どの口が言うか、とでも思っているのだろうけれど、この口だからこそ言うのだ、私は。
「彼はレトラ商会の跡取りです。その配偶者には当然、商会業務に深く関わることが求められます」
「それがどうかしましたか? 取引先との親交を深めるのなら、私にだって」
「いえ、それも勿論ですが…書類の処理に帳簿付けに商会員の給与計算、収支の把握と今後の経営方針の立案、部署間の折衝、商会員の相談への対応、来客へのお茶出し対応、それから──」
指折り数えた後、マリーを真顔で見詰め、
「ダニエルが口説いた女性への対処も、やるべきことに含まれます」
地味な裏方業務を並べ立てられて顔を強張らせていたマリーが、サッと顔色を変えた。
「た、対処って何よ!?」
敬語が消えた。
「現実に立ち返っていただいてお帰り願うことです」
「はあ!?」
マリーの悲鳴じみた怒声が耳につく。私だって正直、こんなしょうもないやり取りなどしたくないのに、何故真正面から非難の視線を浴びなければいけないのか。
胸にわだかまる不満を溜息一つで奥深くへ押し込めて、私は緩く首を横に振った。
「──5人」
「…は?」
「私がダニエルと婚約してから今までの間に、『ダニエルとの婚約を解消しろ』とこの商会に乗り込んできた女性の人数です」
その中には当然、目の前のマリーも含まれる。「5人…?」と絶句する彼女に、私は冷静に続けた。
「婚約者のいる身でありながら、おおよそ半年に1回の頻度でこのような事態を引き起こすのです。無論、毎回苦言は呈しているのですが…『嫉妬は醜いぞ』と笑って流されるばかりで効果はほぼありません。ここに乗り込んでくるほど行動力のある女性はそういないでしょうし、ダニエルに泣かされた女性の総数はもっと多いでしょうね」
口調が苦々しいものになるのは許してほしい。私もいい加減辟易しているのだ。
「婚約者が誰になろうと、恐らくこの悪癖は治りません。それを承知の上で、生涯を共にしようと──いえ、貴女の時間と情と労力を費やすに足る相手だと、本当に思えますか?」
「…」
問い掛けに、マリーは沈黙で応じた。その表情は、反発ではなく困惑。
今までの『自称彼女』の中には私の言うことを全て嘘だと断じて激昂し続けていた女性もいたが、マリーはまだ常識的なようだ。
…常識ついでにもう一つ、現実を知ってもらおう。
「それから、商会業務に休みはありません」
「え?」
「私用があれば抜けることはできますが、商会長の身内に定休日は設定されていません。結婚すればなおのこと、毎日が仕事です」
取引先の定休日がまちまちなので、必然的にそうなる。商会員は交替で休めるよう勤務日が組まれているが、意思決定を司る上の人間には休みなどない。
そして──恐らくマリーにとって最も意外であろう言葉を口にする。
「ここだけの話──お給料は、出ませんけれど」
「……え」
頬に手を当て、溜息と共に告げると、マリーが音を立てて固まった。彼女は夜の店の従業員、労働の対価に給料を貰っている立場の人間だから、この話が一番効くだろう。
数秒後、その可愛らしい口から愕然とした声が漏れる。
「え? な、なんで…?」
「レトラ商会は一族経営なので、身内が商会に奉仕するのは当然なのですよ。そしてそれは、嫁や婚約者にも当て嵌まります」
事実、私が給料、あるいはそれに準じるお金を貰ったことはない。婚約時に条件として定められた『結婚準備金』は毎月私の父に支払われているが、私の手元には来ない。
それとは別にダニエルから装飾品を受け取ったりもするが、それは商会の会合などに私を伴う際に見た目を取り繕うための借り物で、所有権は私ではなくレトラ商会にある。
つまりこの婚約において、私個人が得るものは──資産として具体的に計上できるものは、一切、ない。
「それから」
「まだあるの!?」
「まだあります」
マリーは既に悲鳴を上げている。しかしこれを知らねば、彼女は後々深く後悔することになるだろう。
私は内心謝りつつも、続けた。
「私は、ハーミット男爵家の人間です。ご存知ですよね?」
「はい。お金がないからレトラ商会に縋ったって聞いて──あ」
しまった、という顔で青くなるが、恐らくそれを教えたのはダニエルだろう。後できちんと話し合う必要がありそうだ──私の話を彼がきちんと聞いてくれるか否かは別として。
「恥ずかしながら、その通りです」
厳密には違うが、大体正解だ。そこまで内情を知っているなら話は早い。
私は深く頷き、深刻な顔を作った。
「そこで、考えていただきたいのですが──私が婚約を解消した場合、私の父、ハーミット男爵が、その原因となった貴女を無事に済ますと思いますか?」
「……あ…」
気付いたのだろう。マリーの顔から音を立てて血の気が引いていく。
この国には貴族と平民がいる。実生活や金銭的な面で見れば貴族よりよほど贅沢な生活を送っている平民も多いが、法律上、身分は役割の差、そして権力の差として明確に線引きがなされている。
私は気持ち身を乗り出し、低い声で告げた。
「ならず者を雇うお金なんてありませんから、荒事に巻き込まれる可能性は心配なさらなくて大丈夫ですが──仮にも貴族の婚約を台無しにするわけですから、確実に慰謝料は請求されるでしょう」
実際の父は全く、欠片も、苛烈な性格ではないが、慰謝料請求くらいはするはずだ。
何せ我が家の生活費の何割かはレトラ商会から支払われる『結婚準備金』で賄っている。最低でもその金額数年分に匹敵する額を請求するだろう、被害者面全開で。
「私とダニエルの婚約は、ハーミット男爵家とレトラ家の間で書面も交わされている正式なもの。その慰謝料を自腹で払い、今後レトラ商会で喜んで無償労働するほどの価値が、ダニエル──あの浮気男にありますか?」
恋は盲目。といっても、女性は存外、冷静な目で物事を判断できるもの。考え込むマリーの表情は、もはや恋する乙女のそれではない。
数秒後、マリーはひどく複雑そうな顔をこちらに向けた。
「あの…ハーミット様」
敬語が戻っている。
「何でしょうか、マリーさん」
「……そんなしょうもない相手と、どうして婚約してるんですか?」
どうやらマリーの熱は、完全に冷めたらしい。
平和に解決したことに安堵しつつも、顔には乾いた笑みが浮かんだ。
「仕方ないのですよ。──この婚約は家同士の取り決めで、個人の一存で無かったことにはできませんから」
マリーを説得するために口にしたのと同じ言葉が、ただただ空虚に応接室に響いた。




