2 招かれざる訪問者
「大変お待たせいたしました。ダニエル・レトラの婚約者、アレクシア・ハーミットと申します」
応接室に入ってすぐ、深々と頭を下げて挨拶すると、来訪者は一瞬気圧されたように静かになった。
整ってはいるが作りものめいて愛想がないと評される容姿も、こういう時は役に立つ。正直、少々不本意ではあるが。
「あ、貴女がダニエルの婚約者?」
「はい」
頷きながらちらりと目配せすると、それまで来訪者の相手をしていた商会員──ウェンディの上司が、静かに目礼して退室していく。仕事に戻ってください、という意図は通じたようだ。
「ダニエル、もしくはその婚約者と話がしたいとのことでしたが、本日はどのような御用向きでしょうか?」
対面のソファーに座って切り出すと、来訪者はハッと表情を改め、真面目な顔になった。
「ダニエル様がツケにしているうちの店の利用料を、請求しに来ました」
「ツケ、ですか」
「はい」
頬に微かにそばかすの残る、柔らかい雰囲気の女性だ。年齢は私と同じか、少し下くらいだろうか。
店名を確認するとすぐに分かった。彼女が働いているのは、レトラ商会の関係者が取引先との親睦を深める際によく利用する、所謂『夜の店』。
それなりの頻度で請求書を目にするので、商会の仕事を手伝い始めた頃、どんな店なのかとベテラン商会員に訊ねたことがある。答えに窮していた彼には悪いことをした。
しかし、ツケとはどういうことだろうか。まだ支払いがされていないということなのだろうが──…ああ、そういうことか。
「3日前の貸し切り利用料でしたら、先ほど書類の処理が終わりましたので、早ければ明日には商会員がそちらの店へ支払いに参ります。お待たせして申し訳ありません」
3日前の夜、大口の取引先の接待で彼女の働く店を貸し切り、ちょっとしたパーティーを催した…らしい。私は流石に参加できなかったので、詳細は不明だが。
どのような内容にせよ、商取引である以上、支払いが遅くなったのはこちらの落ち度だ。まして今回、ダニエルは昨日丸一日決裁書類を放置していた。言い訳のしようもない。
私が頭を下げると、彼女はあっけにとられたように目を瞬いた。
「え? あ、そうなんですか? ええと…それなら、いいです」
こういう場は不慣れなのだろう。動揺しているのが微笑ましい。
それにしても、ダニエルの浮気相手が乗り込んできたのだと思っていたのだが、そうではなくて幸いだった。
内心胸を撫で下ろしていると、彼女はどこか思い詰めたような表情を浮かべた。
あ、嫌な予感。
「あの、それとは別件なんですけど」
「何でしょうか?」
ものすごく聞きたくない。面倒事の予感がひしひしとする。
それでも何とか自制して先を促した私を、誰か褒めてほしい。もしくは彼女を止めてほしい。
無論、そんな願望など叶うはずもなく。女性は頬を紅潮させ、キリッとした目で私を見詰めた。
「──ダニエルを、解放してあげてください!」
真剣な、必死さを帯びた声が、応接室に響く。
あまりにも予想通りな内容に変な笑いが出そうになるのを、私はギリギリのところで我慢した。つい数ヶ月前、ほぼ同じ状況で失笑したら、相手が激昂してしまって大変だったのだ。
…つまりはそういう危険予測ができるほど、前例がある、ということだが。
「解放、とは?」
店の客であるはずのダニエルを呼び捨てにしている時点で何を言いたいのかは明らかだが、あえて理解できぬという顔で首を傾げる。すると、女性は目を吊り上げた。
「婚約を、解消してあげてくださいってことです!」
どうやらこの反応も失敗だったようだ。女性は目に涙を溜め、明らかに冷静さを失っている。
少々の後悔と共に、私は小さく溜息をついた。どのみちこういう状況で、穏便に会話ができるわけがなかった。…面倒な。
「失礼ですが、貴女のお名前を伺っても?」
「…マリーです」
なかなかに素直だ。もしかしたら店での通称かも知れないが、大した問題ではない。私は頷き、言葉を続けた。
「マリーさん。これまでの発言からするに、ダニエルと貴女はかなり親しいようですが、付き合いは長いのですか?」
「半年前に店で知り合って──って、勘違いしないでください! 異性としてお付き合いしているわけじゃありません!」
「あら、そうなのですか」
マリーが慌てた様子で主張する。
なるほど、浮気ではない、と。その一線は守っていたのか。
「ダニエルはその、もっと早く出会っていればとか、君の作った菓子が食べたいとか、僕と結婚した女性には絶対苦労なんかさせないのに、とか言ってくれますけど…」
聞きようによっては明らかに駄目な台詞が聞こえた気がするが、気のせいだということにしておこう。
マリーのもじもじした態度といい、その口から語られる歯の浮くような台詞といい、ちょっと砂糖が吐けそうな気分になってくるが、残念ながらこれがダニエルの通常営業である。
完全な素人には、基本、手を出さない。が、夜の店の、まだ世慣れていない新人女性には手を出す。
百歩譲って、それはまだいい。私という婚約者がいるとはいえダニエルはまだ独身だし、婚約自体、私たち2人が希望したのではなく、ハーミット男爵家とレトラ商会が互いに利を得るために結んだ契約だ。そしてその契約の中に、『婚約中の浮気は厳禁』とは書かれていない。
問題は、ダニエルに口説かれて本気になった女性が、何故か私が商会にいてダニエルが不在の時に限って、商会に乗り込んでくるということだ。
そう、つまり今のこの状況である。
「私とダニエルの婚約が解消されれば、貴女が晴れてダニエルと一緒になれる、だから婚約を解消してほしい…と、そういうことでしょうか?」
頭痛をこらえながら訊くと、マリーは真剣な顔で深く頷いた。
「そうです。お二人の婚約は家同士で決めたことであって、愛し合っているわけではないんでしょう?」
だから本気でダニエルを愛している自分に譲れ、ということらしいが──少々、脳内お花畑過ぎやしないだろうか。
多分ダニエルは、彼女がこういう言動を取るようになったから面倒になったのだろう。ダニエルもダニエルだが、マリーにももう少し冷静に現実を見てほしいものだ。
「家同士の取り決めである以上、個人の一存で無かったことにはできません」
「え?」
「婚約解消は、不可能です。諦めてください」
噛んで含めるように告げる。
ぽかんと口を開けたマリーの頬が、数秒後、サッと紅潮した。
「なっ…どうして、ですか!?」
辛うじて敬語を保ちつつも、ローテーブルに両手を叩き付けるように置いて身を乗り出してくる。
どうして、と言われても。
「家と家との契約だからです。そこに本人同士の恋だの愛だのは関係ありません。──生涯を共にする信頼関係は必要ですが」
信頼関係。私と彼との間にそれは果たしてあるのだろうか。
一瞬そんな疑問が頭をかすめるが、脳内で明後日の方向へ放り投げておく。今はそんなことを考えている場合ではない。
「で、でも、私たちは愛し合っていて!」
「それ」
「え?」
必死になっているマリーに、私はあくまで冷静に、淡々と指摘した。
「ダニエルは貴女に、『愛している』とか『結婚してほしい』とか、直接告げましたか?」
「それ、は…」
マリーの目が泳いだ。




