1 男爵令嬢アレクシアの日常
「アレクシア様、おはようございます」
「おはよう」
専属メイドのゾフィーの挨拶に応え、私はベッドから身を起こした。
私の一日は、昨日の仕事の進捗を頭の中で確認することから始まる。
我が家の使用人たちの新しい服は、昨日ようやく納品された。
長く着回したことで擦り切れそうになっているお仕着せを各々何とか修繕しながら着用していた使用人たちのことは、ずっと気がかりだった。問題が1つ解決して、今日は少しだけ気分が良い。
着替えを終え、私の髪を梳っているメイドのゾフィーの顔を、鏡越しにちらりと見遣る。
いつも丁寧に仕事をしてくれる彼女のメイド服は新品で、表情も心なしか明るい。それだけでも、予算組みに苦心した甲斐があったと思える。
「アレクシア様、本日の髪型のご希望はございますか?」
「今日もレトラ商会の仕事があるから、きちんと結い上げてもらえる?」
言った途端、ゾフィーの表情があからさまに曇った。手にしていた可愛らしい総刺繍のリボンをそっと小物入れに戻し、シンプルな銀のバレッタを取り出す。
不満がありありと見て取れる態度に、私は思わず苦笑した。
「場に相応しい装い、というものがあるでしょう?」
「それは重々承知しておりますが…」
呻きつつ、ゾフィーは滑らかな手つきで私の髪を一部編み込みにして、後ろでまとめていく。
「そもそも、婚約中とはいえまだ正式に籍も入れていないアレクシア様が、レトラ商会の業務の中核を担う必要があるとは思えません」
パチン、とバレッタが留まる音が響く。
父はまだ寝ているこの時間、家人の私室が並ぶ──といっても半分も使われていない3階は、とても静かだ。
「中核を担っているわけではないわ。ダニエルに頼まれて、手伝っているだけよ」
「全ての帳簿に目を通して領収書を突き合わせ、取引先に同行し、商会員に指示を出すのを『手伝い』とは言いません」
訂正したら、ぴしゃりと言い返されてしまった。私は苦笑することしかできない。
レトラ商会の商会長の息子ダニエルは、商会の跡取りであり、私、アレクシア・ハーミットの婚約者だ。私は「結婚したら商会業務にも本格的に関わってもらうから」とダニエルに請われるまま、3年前から彼の手伝いをしている。
最初はお客様へのお茶出しすら満足にできなかったが、商会に出入りする会計士やベテラン商会員に商売に関する教えを請い、ゾフィーにお茶の淹れ方を習い、少しずつできることを増やしていった。今では納税前の確認業務なども手伝わせてもらえている。
昨日は休んでしまったから、今日は一日、商会業務だ。内心気合いを入れていると、ゾフィーがすっと一歩下がった。
「アレクシア様、身支度が整いました」
「ありがとう、ゾフィー」
にこりと笑って立ち上がる。
──さあ、今日も一日、頑張ろう。
午前、レトラ商会本店に出向くと、我が婚約者殿は開口一番、こう言った。
「遅かったじゃないか」
「ごめんなさい、家のことを片付けておきたくて」
今日は確かに、いつもより到着が遅くなってしまった。私は素直に頭を下げる。
新しいお仕着せの着心地はどうか、実用上問題はないか、どうしても気になったのだ。使用人たちに感想を聞いて回ってから家政にまつわる仕事を片付けたら、結構な時間が経っていた。
「…仕方がないな。僕はこの後、取引先を回ってくる。君は書類の処理をしておいてくれ」
「分かったわ」
ダニエルが取引先と商談する際には、私が同行することもあるし、ベテラン商会員を連れて行くこともある。今日は後者のようだ。
私が頷くとダニエルは満足そうな顔をして、足早に執務室を出て行った。
今回のダニエルの予定を黒板で改めて確認すると、最近繋がりを持ったばかりの大店との会合だった。
場所は先方の本店。相手の本拠地、しかもまだ馴染みのない相手との会合ならば、ダニエルも極端に変なことは言わないだろう。
…変なことを言う前提なのが、少々頭の痛い問題ではあるけれど。
現商会長であるダニエルの父はまだ健在だが、跡取りを鍛えるためという名目で、少しずつダニエルに事業を継承している。
今のダニエルは、本店の店長。レトラ商会の管理職の中で、最も多くの商会員を束ねる立場だ。
ただ──ダニエルは他人の言動に乗せられやすく、親しくなったと判断した相手には無遠慮に距離を詰める悪癖がある。それが良い方向に作用することもあるが、当然、悪い方向に作用することもあるので油断はできない。
眉間のシワをそっと指でほぐしつつ、私はダニエルの机の上に溜まった書類のうちの1枚を手に取った。
「決裁書類、昨日の日付じゃない…」
折角ほぐしたのに、また眉間にシワが寄ってしまった。
どうやらダニエルは、どうせ私がやるからと本来昨日処理すべき仕事を放置していたらしい。そっと視線を横にずらすと、似たような状況になっている書類がいくつも目に留まった。
「…昨日一日休んだの、失敗だったかしら」
後悔が口から洩れる。
昨日は我が家──ハーミット男爵家の使用人たちの新しいお仕着せの納品立会いのため、レトラ商会での手伝いは一日お休みを貰っていた。
お仕着せの代金を服飾品店に支払うのは私の役割だから立会いは必須だったとはいえ、それが終わった後、夜にでもこちらに顔を出しておくべきだったかも知れない。
決済の速さは商会の評判、ひいては今後の取引に直結する。
せめてこの書類は午前中に処理しよう、そう心に決めて、私は書類の束を手に自分の席に戻った。
ペンを走らせ始めてしばらくすると、控えめにドアがノックされる。
「アレクシア様、ご在室でしょうか?」
「どうぞ、入ってください」
「失礼します」
入室したのは、目が醒めるような可愛らしい女性だった。
ピンク色掛かった赤い髪にぱっちりとした緋色の瞳、皆と同じ商会員の制服を着てなお目を惹く、華やかな顔立ち。化粧の完成度もさることながら、元々の素材が良いのだろう。
「お忙しいところ申し訳ありません」
そしてそこに、姿勢の良さと丁寧な言動が加わる。まだ2年目ながら誰もが認める優秀な商会員の姿は、本人の努力の賜物だ。
「大丈夫ですよ。何かありましたか? ウェンディさん」
先を促すと、ウェンディはホッとしたように笑顔を浮かべ、書類を差し出してきた。
「昨日ウチの部門から提出した書類の、補足資料です。決済処理には不要なんですが、以前似たような案件で確認のために御覧になっていたと思って」
「ありがとうございます。丁度、借りに行こうかと思っていたところです」
眉間のシワが一気に取れた。彼女はよくこういう気の回し方をしてくれるので、本当にありがたい。
心からの礼を述べて資料を受け取ると、ふとウェンディの表情が曇った。
「あと…実は今、来客がありまして」
「来客?」
雰囲気からするに、あまり良い客ではなさそうだ。
「部門長が対応してくださっているんですが、その、「ダニエルかその婚約者を出せ」と再三要求しており…」
「女性ですか?」
「女性です」
「若い、女性ですか?」
「…若い、女性です」
「…」
良い客ではないどころの話ではなかった。さらば、シワのない眉間。
変な悟りを開きそうになりながら、私は立ち上がった。
「分かりました、私が対応します。教えてくださってありがとうございます、ウェンディさん」
「い、いえそんな!」
大仰に両手を振るウェンディに、私はそっと処理済みの書類を差し出す。
「こちら、対応する部門にそれぞれ届けていただけますか? それから、「昨日の書類で未処理のものは必ず今日中に処理します」と伝言を…本当は昼までに終わらせたかったのですが、来客対応にいつまでかかるか分かりませんので」
「…分かりました」
ウェンディが死後数日経った魚のような目になった。多分今、私も同じような顔をしている。
業務外だと叫びたいところだが、婚約者の火遊びの尻拭いは、今ここにいる人間の中では私にしかできない。何より、商会員の業務の邪魔になってはいけない。
…特別手当とか、貰えないかしら。
ウェンディの同情の視線が、痛かった。
日頃から拙作をお読みくださっているみなさま、お久しぶりです。
初めて当方の作品をお読みくださった方、初めまして。
晩夏ノ空と申します。
前作『契約社員ときぐるみ様』の完結から1ヶ月以上経ち、ようやく本作の連載を開始できました…!
本作は再びのハイファンタジー、しかしこれまでの作品とは違い、バトルやらチートやらはほぼ出てきません。
主人公アレクシアは、ごくごく普通の…普通……多分、普通の! ご令嬢です。ハイ。
でもしっかりザマァ要素もありますので、ご安心くださいませ。
なお本作、感想欄を開放しております。
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