32 領都の屋敷にて
その日のうちに書面を取り交わし、私とダニエルの婚約はようやく、正式に解消された。
「やっと一息、といったところだね」
領都の屋敷のリビングで、兄が安堵の溜息をつく。私もソファーに深く腰掛けて頷いた。
「ええ、本当に。まさかダニエルがあそこまでバ…常識がない人間だとは思わなかったわ」
「あいつ、外面だけはそこそこ良かったですからね。口は上手かったし」
《それは商人というより詐欺師向きの才能じゃのう》
兄の隣で、ブランがゆらりと尻尾を振る。
レトラ商会の一件は、ブランがきっちりと行政局に報告してくれるそうだ。レトラ商会がきちんと対応して行政局と法務局に報告するならそれで良し、隠匿するなら後々強制捜査が入る。
デズモンドたちは、ブランが行政局特務班に所属する内偵員だとは知らない。レトラ商会は、本人たちが知らないうちに重要な岐路に立たされているわけだ。どうなることやら。
──ともあれ。
「お兄様、ウェンディ、ブラン」
私は改めて背筋を伸ばし、順にその顔を見渡して、
「──本当にありがとう。お陰で、その…すっきりしたわ」
婚約解消ができた。
デズモンドに、ダニエルの横暴さを知らしめることができた。
ダニエルにやり返すことができた。
ハーミット男爵家の生糸の新しい可能性を掴むことができた。
これからやりたいことが沢山ある、そんな風に思えるようになった。
いろいろなことが頭の中に思い浮かび、どう言ったら良いのか分からなくなって、結局口にできたのはとても私的な感想だった。
それでも、兄たちは微笑んでくれる。
「それは何よりだ」
「ええ、本当に良かったです!」
《うむうむ。セドリックも、キレた甲斐があるというものじゃな》
ブランの言葉に、兄の笑顔が苦笑に変わる。
「それは蒸し返さないでくれ。淑女たちの前で少々やり過ぎたかと反省しているんだ」
視線の先は、主にウェンディ。私は家族だからそれなりに慣れているが、ウェンディにはきつかっただろう──私もそう思ったのだが。
「いえ、全然平気ですし、むしろ格好良かったです!」
ウェンディは目を輝かせて拳を握り、力強く言い切った。
「男爵家のご当主ですから、あれくらい恫喝できた方が良いと思います!」
「それもどうかと思うが…まあ気にしていないのなら良かった」
兄が安堵の表情を浮かべている。ウェンディの神経が意外と図太い──いや、彼女は昔からこんな感じだったか。
「そういえば、商会では気性の荒い取引先とも対等に渡り合っていたわね、ウェンディ」
「ああ、それは祖父がそういう人だったからですよ。とりあえず相手を威圧して様子を見るというか。すっごく面倒臭い性格ですけど、一度懐に入れば結構面倒見の良い人が多いんで、初手で怯まなければ大体上手くいきます」
その『初手で怯まなければ』がとても難しいと思うのだが、ウェンディは平然としている。流石、やり手の商会員だっただけのことはある。
感心する私に対して、兄は何やら難しい顔になっていた。
「…気性の荒い取引先、というのもいるのかい?」
あ、まずい。失言だった。
「それは」
「いますよ。普通に。他の商会の商会員とかだと珍しいですけど、工房の職人さんとかは結構そんな感じです」
兄の心配性が発動したと察して誤魔化そうとしたが、一歩遅かった。
ウェンディがあっさりと頷いてしまい、兄の眉間にシワが寄る。
「それは…危険じゃないのか?」
「まさか!」
兄の心配を、ウェンディが笑い飛ばした。
「取引相手は取引相手ですから、暴力に訴えたりはしませんよ。ちょっと口調が荒いだけです」
「それでも、気苦労はあるだろう? 今後君とアレクシアが商会を運営するにあたって、そんな輩を相手にしなければならないのは困る」
思わぬところで待ったを掛けられそうになっている。私が困っていると、ウェンディは首を傾げた。
「え、でも、それってどこで何をしていても同じですよね?」
「同じ?」
「はい。商会で働いていても、工房で職人になっても、貴族として役割を果たしていても、関わる相手が全員、自分に優しくて穏やかで気持ち良く過ごせる相手とは限らないじゃないですか」
「それは…」
その通りだ。
商会や工房で働いていたら、必要であればどんな取引相手とも付き合わなければならないし、先輩や後輩との人間関係で苦労することもある。
貴族だったら、庇護下にある平民とのやり取りだけでなく、貴族社会での社交もある。
上下関係がはっきりしている上、それとは別に貴族としての役割や誰に肩入れするかで軋轢が生じることもあるから、腹の探り合いや水面下での駆け引きは日常茶飯事だ。
私はそこにどっぷり浸かる前にダニエルと婚約し、以来社交も最低限しかしていないが、それでも面倒臭さは身に染みている。
正直、口調は荒っぽいが話は通じる工房の職人より、表面上は穏やかだが何を考えているのか分からない貴族相手の方が、気苦労は多い。
「そこを心配してたら何もできませんって。セドリック様は、止めるんじゃなくて、アレクシア様の背後でどっしり構えててください。味方がいるって思えるだけで、案外何とかなるもんですから」
ウェンディの言葉を聞いた兄は、数秒後、そうか、と表情を緩めた。
「心得ておこう。──アレクシアと、君の味方でいると」
「え、私もですか!?」
「今後アレクシアの右腕になるんだから、当然だろう? 何かあったら遠慮なく頼ってほしい。貴族社会では下の立場だが、できることはそれなりにあるはずだからね」
「あ、ありがとうございます…」
ウェンディが赤くなっている。
兄は結構顔が整っているので、親愛の情を込めた笑顔はいろいろな意味で危険だ。
…いえ、ウェンディなら何も困らないかしら。
埒もないことを考えていると、ウェンディが照れを誤魔化すようにこちらを向いた。
「アレクシア様も! 何かあったら相談してくださいね! 一人で抱え込むのはナシですよ!」
「ああ。ウェンディでも私でも、すぐに相談しなさい」
「ええ、ありがとう。ウェンディ、お兄様」
私が微笑むと、膝にふわりとした感触が乗った。
《わしを忘れてもらっては困るぞい。法律絡みの案件なら、わしが一番頼りになるはずじゃからな》
私の膝の上でふんすと鼻を鳴らし胸を張る、真っ白い長毛ケットシーの姿に、私は思わず吹き出した。
「勿論。頼りにしているわ、ブラン」
《うむ》
内偵員が特定の個人に肩入れして良いのか──そんな疑問は頭の隅に押し込んで蓋をしておく。
ブランがこう言ってくれているのだから、甘えて良いのだ、きっと。
ブランの背中を撫でていると、ウェンディもブランの鼻先に指を近付けた後、喉をくすぐり始めた。
《おお…これはなかなか。慣れておるの、ウェンディ》
「昔、実家の近くに住んでたケットシーにいろいろ教わったの」
ブランが溶けるようにどんどん頭を下げ、伏せの体勢になり、とうとう膝からはみ出てごろんとお腹を出した。
床に滑り落ちないように身体を支えると、ブランは上機嫌に身体をくねらせる。体格が良いので少々重いが、温かくてふわふわとした感触がとても気持ち良い。
「あ、お腹はもっともふもふなのね」
「あら、本当?」
《ほほ、サービスじゃ、サービス。良いぞもっとやれ》
私とウェンディがブランを揉みくちゃにするのを微笑ましく眺めていた兄が、ぽつりと呟いた。
「…サファイアとルビー、かな」
「?」
顔を上げると、兄は私とウェンディを交互に見遣り、
「アレクシアはサファイア、ウェンディはルビー。改めて見ると、対照的な色彩だと思ってね」
「言われてみると、そうね」
私は紺色の髪に濃い青の瞳。ウェンディは、ピンク色掛かった赤い髪に鮮やかな緋色の瞳。
宝石に例えるなどおこがましいが、確かに色は青と赤。サファイアとルビーと言われてもしっくりくる。
──そこで、不意に思いついた。
「…あ」
「何かありましたか、アレクシア様?」
「決まったかも、商会の名前」
「え」
「おや」
《ほほう?》
昨日から保留にしていた、新しい商会の名前。
私とウェンディ、どちらの家名も反対意見が挙がったので決められなかったのだが──そう。
別に、家名にこだわる必要はないのだ。
期待の眼差しを受け、私は笑顔で口を開いた。
「あのね──」




