31 謝れない男
2026/11/1 ちょっとだけ加筆しました!
「それから」
兄は一段、声を低くした。
「我がハーミット男爵家が管理する荘園の生糸は、今後、レトラ商会には納品しません。取引を打ち切ります」
「!」
デズモンドとダニエルが目を見開いた。
兄はにっこりと、殊更に整った笑みを浮かべる。
「生糸の取引は、アレクシアとダニエルの婚約が契機となって始まったもの。婚約の書類には明記されていませんが、婚約解消ならばそちらも打ち切るのが道理。違いますか?」
「…そう、ですな…」
「そんな!」
苦渋の表情で頷くデズモンドの横で、ダニエルが悲鳴を上げた。
本店の売り上げの何割かはうちの荘園の生糸が占めているから、当然といえば当然だが──この男、自らが蒔いた種だと分かっているのだろうか。
「全て打ち切りは困る! せめて半分」
「──なあ、ダニエル」
場の空気が一気に冷えた。
丁寧な態度を彼方に放り投げた兄が、身を乗り出してダニエルの胸倉を掴み上げている。
一瞬の出来事に、誰も反応できない。
「お前、いつまで、勘違いしているつもりだ?」
「ぐっ…!」
ギリ、と、布の引きつれる音がする。
「アレクシアとの婚約は解消される。お前はもうハーミット男爵家の身内じゃない。大体、取引を継続したとして、どのツラ下げて生糸の買い付けに来るつもりだ? うちの荘園の者は皆、お前がアレクシアにした仕打ちを知っているんだぞ?」
単に首が締まっているからなのか、それとも兄の恫喝が効いているのか、ダニエルが青くなっていく。
…お兄様、本気でキレるとすごく怖いのよね。久しぶりに見たわ…。
隣でウェンディが硬直している。後で執り成しておこう。
「立場を弁えろ。これでもこちらは譲歩しているんだ」
言うだけ言って、兄が放り投げるようにダニエルを解放した。
大きくよろけたダニエルは、倒れるようにソファーに沈む。何とも無様な息子を青ざめた顔で見た後、デズモンドが再度、頭を下げた。
「重ね重ね、申し訳ありません…! 生糸の取引の打ち切り、承知いたしました。これ以降ハーミット男爵家の生糸は買取不可能であること、全商会員に通達します」
「よろしくお願いします。それから──じきに正式に連絡が来ると思いますが、レトラ商会が生糸を卸していたエイベル工房も近日中に取引を打ち切るそうです」
「は──」
デズモンドの理解は早かった。呻きながら目を瞬き、ウェンディと私に一瞬視線を流した時にはもう、表情が変わっている。
「──ハーミット男爵家から直接、エイベル工房へ生糸を納品するおつもりですか」
「少し、違います。新しく取引できる相手が見付かったというだけの話ですよ」
兄が私とウェンディを見て意味深に微笑む。
まだ行政局に書類を提出していないので、現時点では私とウェンディの新しい商会は影も形もない。名前も決まっていないので、紹介のしようがないのだ。
デズモンドはそれ以上何も訊かなかった。私とウェンディが一枚噛んでいることは見抜いているだろうが、そもそも何かを言える立場ではない。
文句を言い出したのはダニエルだ。
「生糸を売らないだけでなく、ウチの取引先まで横取りするつもりか!?」
「…あのねえ、ダニエル」
つくづく、学習しない男だ。私は呆れと憐憫を含んだ目をダニエルに向ける。
「エイベル工房は、主に貴族向けの絹織物を作る職人たちの集まりよ? 縁故で仕事を回してるわけじゃないの。材料は良い品質のものを納品してくれるところから買うし、品質や納入量が落ちたら取引を打ち切る。レトラ商会が十分な品質の生糸を納品できなくなると知ったら、取引先を変えるに決まってるじゃない」
実際には私たちが売り込みをかけた結果だが、そこまで説明する義理はない。
ハーミット男爵家の生糸をレトラ商会に売らなくなる以上、その取引の下流側にいるエイベル工房がレトラ商会との取引を打ち切るのはほぼ確定していた。その時期が少し早くなっただけのことだ。
ぐぬ、と悔しさとも憤怒ともつかない呻きを上げるダニエルに、デズモンドが絶望的な溜息をつく。
兄が半眼で口を開いた。
「差し出口ですが、デズモンド様。この思考回路では、貴方の息子は、今後のレトラ商会の発展に寄与できるとは到底思えませんよ。むしろ我々を逆恨みして余計な問題を引き起こす可能性があります」
それを本人の前で言うのはなかなかの図太さだ。流石兄。
そして、それに対するデズモンドの回答もなかなかだった。
「おっしゃる通りです…。この愚息は、一通りの手続きと処罰が済み次第、二度と皆様の前に姿を現さぬよう僻地に飛ばします」
「なっ!? 父上、僕は次期商会長ですよ!?」
「これだけのことをしでかしておいて、まだ自分の将来が安泰だと思っていたのか? 横領に手を染める者を商会トップに据えられるはずがないだろう!」
「そんな!?」
ダニエルがまたしても叫んでいるが、
「…いや、当たり前ですよね?」
ウェンディが至極冷静に呟いた。私も真顔で深く頷く。
「これ以上の不適格者もなかなかいないでしょうね。そもそも、謝罪ができない人間に商会長が務まるとも思えないわ」
「謝罪が、できない…?」
デズモンドは気付いていなかったらしい。私は残念な生き物を見る目をダニエルに向ける。
「デズモンド様、本日この場でダニエルが発した言葉を思い出してみてください。『ごめん』『すまなかった』『申し訳ない』、あるいはそれに類する言葉を、ダニエルは一度でも口にしていましたか?」
「…」
暫しの沈黙を挟み──デズモンドの眉間のシワが、本日一番の深さを記録した。
私も、この3年間で起こったことを兄やウェンディと話している時にはっきりと気付いた。
ダニエルは、決して謝罪の言葉を口にしない。婚約していた3年間、絶対に謝らなかった。何をしても、誰に対してもだ。
思い返せば、婚約解消を告げられたあの時、私は直前に「取引先に謝罪のメッセージを送れないか」とダニエルに打診していた。ダニエルはそれで一気に態度を硬化させ、激昂し、婚約解消へと突き進んだ。
ウェンディが来たから、ではない。謝るという行為を強く拒絶したのだ。
たとえメッセージカードに書くだけでも、ダニエルにとっては耐え難いことだったのだろう。『従順で都合の良い労働力』であるはずの私から提案されたから、なおさら。
…商会長に向いてないどころか、大人としてどうなのか、ってレベルよね…。
「ダニエル、アレクシア様に謝罪しろ」
デズモンドがダニエルを睨みつける。ダニエルは青い顔のまま、首を横に振った。
「嫌です。そもそも、アレクシアとの婚約は父上が勝手に決めたことじゃないですか! 僕は悪くない!」
この期に及んで、という言葉がこれほど似合う者もいないだろう。一瞬思考を飛ばしかけて、私は無理矢理意識を今に戻した。
僕は悪くない、ねえ…。
「確かに恋愛感情の伴わない、家同士で決められた婚約ではあったけれど、双方の家に益がある話だし、信頼関係は婚約期間中にゆっくり築ければ良いと思っていたわ。私は」
淡々と言葉を紡ぐと、次第に声が冷えていった。
「でも──貴方にとって、婚約者は親に勝手に決められたものだから、お金も労働力も感情も全て、搾取して当然だった、ということね?」
「さ、搾取?」
自覚がないのだろうか。今までの説明を理解していないのだろうか。条件反射で反論しているだけで、そもそも話を聞いていないのだろうか。
そんな疑問が頭をかすめるが、もう今更だ。
せめてもの情けに、私は一つ、例え話をする。
「婚約者に対してそういう対応を取るのが当然なら──例えば私が、女性向けの夜の店で男性従業員と懇意になって、相手が本気になってしまったらレトラ商会の本店に乗り込んでくるよう誘導して貴方に対応してもらったり、デズモンド様から貴方に渡されるはずの給料を『私が代わりに渡しておきます』と受け取ってそのまま自分の懐に入れたり、デズモンド様から貴方にプレゼントされるはずだった商談用の服や装飾品を『商会の備品だから』と偽って着終わったら貴方から回収して売り飛ばして実家の生活費の足しにしたりしても、私が婚約者だから、許されるのよね?」
「は?」
瞬間、ダニエルはぽかんと口を開け──それをきちんと想像したのか、激昂した。
「婚約者だからってどこまで僕に迷惑をかけるつもりだ! それはただの犯罪じゃないか!」
「──そう。犯罪なのよ」
静かに息を吐くと、地を這うような声が出た。
今まで彼らの前では出したことのない声に、ダニエルがヒッと息を呑んで硬直する。
私は少しだけ首を傾げて、表情の抜け落ちた顔でダニエルを見遣った。
「迷惑極まりないし、裏切りもいいところだし、立派な犯罪なの。それなのに、どうして貴方は『僕は悪くない』と言い切れるのかしら。貴方だったら許されるけれど、私だったら許されないとでも言うつもり? そんな理屈、通るわけがないでしょう」
吐き捨てる私を、ダニエルは顔を引きつらせて凝視している。
「私はもう正式に婚約者ではなくなるし、貴方がどうなろうと知ったことではないけれど──一つだけ言わせて頂戴」
既にかなりいろいろと言っているような気がするが。そんな頭の隅の呟きを無視して、私は言葉を探す。
貴族の上品な言葉では足りない。何度苦言を呈しても、この男には届かなかった。
この胸中の苛立ちと今までの散々な扱いに対する恨みと怒りを伝えるために口にすべきは──。
私はあらん限りの怒気を込めたとびきりの笑顔を作り、口を開いた。
「そんなにママンが好きなら、ギャンブル狂いの母親に一生縋りついて生きていればいいわ。二度と私に関わらないで頂戴、マザコン野郎」
「マザっ…!」
マザー・コンプレックス、略してマザコン。母親に精神的に依存していること。
厳密にはダニエルの精神状態とは少々異なるかも知れないが、母親を免罪符に使おうとするこの男にはこれくらい言っても許されると思う。
絶句するダニエルとは対照的に、ウェンディと兄は吹き出すのを必死でこらえているし、デズモンドも口角が上がりそうになるのを抑えて変な顔になっている。
これなら、私がこの男を心底軽蔑してこれ以上なく怒っていると理解してもらえただろう。我ながら良い仕事ができた。
内心満足しながら、私はデズモンドに向き直る。
「デズモンド様、先ほどのお言葉ですが、ダニエルからの謝罪は不要です。今更謝られたところで意味はありませんし、口先だけの謝罪で全て許された気になられても困ります」
私たちが要求しているのは形だけの謝罪ではない。具体的な補償だ。
「しかし…当人からの謝罪がないことには」
素早く笑みの気配を消したデズモンドが、何とも言えない表情で呻く。
そこで「じゃあ」と手を挙げたのはウェンディだった。
「謝ってもらう代わりに、一発思いっ切り平手打ちさせてください、ダニエルの顔面」
「え」
「は?」
一瞬聞き間違いかと思ったが、ウェンディは真顔で右掌を横方向に軽く振っている。
「アレクシア様、是非」
「え、私?」
「はい!」
自分がやるのではなく、私にやらせたいらしい。
一応護身術の心得もあるし、平手打ちくらいならできると思うが──しかし。
「いえ、私は遠慮しておくわ」
私が首を横に振ると、ウェンディは残念そうに眉を寄せ、ダニエルは安堵の溜息をつく。
どうやら誤解しているようだが、私は別に、ダニエルに同情しているわけでも暴力はいけないと思っているわけでもない。
「ダニエルが私を婚約者としてまともに扱っていなかったことも、私が本来受け取るべきお金その他諸々を横取りしていたことも、怒っているし心底軽蔑しているし何だったら同じ目に遭えばいいと思っているし正直殴りたい気持ちもあるし今後も絶対に許すことはないと確信しているけれど──」
「けれど?」
「ダニエルの顔面に触れたら、手が汚れるもの」
「は? 僕が汚いって言うのか!」
「いえ、実際に汚れているわけではなくて…それをしたら、何かこう、人としてダメな要素がうつりそうで」
「はあ!?」
「ブフッ!」
私が若干ダニエルから距離を取りながら説明すると、ダニエルが目を剥き、兄が吹き出した。
ウェンディの顔が輝かんばかりの笑顔に変わる。
「なるほど、承知しました! それじゃあ私が代わりにやっておきますね! 私はそういうの気にしないんで!」
「へ」
「デズモンド様、よろしいですか?」
「構わない。思い切りやってくれ」
唖然とするダニエルを置き去りに、ウェンディとデズモンドが素早く言葉を交わす。
ウェンディが嬉々として立ち上がる。ダニエルが腰を浮かせ、逃げようとするが──
《おっと、そこを動くでないぞ》
「なっ!?」
立ち上がったところで、ダニエルは不自然に動きを止めた。
カーペットの上、ダニエルの足元に白っぽい魔法陣が浮かび上がっている。ブランの魔法だ。
《ほれ、やってしまえ》
「ありがと、ブラン!」
そして。
──スパァン!
人間の頬を平手打ちしたとは思えない高らかな音と、それにかき消されるような情けない悲鳴が、応接室に響いた。
嬉々として手を出すタイプのヒロイン、ウェンディ。
残り2話で完結です!
あと少し、どうかお付き合いくださいませ。




