28 レトラ商会の商会長
その日の午後、レトラ商会本部の応接室にて。
待ち構えていた人物に、私は丁寧に一礼した。
「お久しぶりです、デズモンド様」
「…ああ」
何とも言えない表情で応じるのは、ダニエルと同じ髪色、ただし白髪交じりの男性。
レトラ商会の商会長でダニエルの父、デズモンド・レトラ。
今日はさらに一段、眉間のシワが深い。先に部屋に入って待っていたところを見ても、この会合を重要視しているのが見て取れる。
そんなデズモンドに勧められて、ソファーに座る。
三人掛けの中央に私、左に兄、右にウェンディ。魔法で姿を隠したブランは──多分窓際あたりにいるだろう。
紅茶を並べた商会員が退出すると、デズモンドは一息つく間もなく口を開いた。
「──まずは、爵位の継承おめでとうございます、ハーミット男爵」
「ありがとうございます、デズモンド様」
兄は笑顔で丁寧に応じているが、「今後ともよろしく」とも「今まで通り名前で呼んでほしい」とも言わない。明らかに一線を引く態度に、デズモンドの瞼がぴくりと動いた。
だが、それだけだ。流石の鉄面皮である。
デズモンドは次に、私に視線を移した。
「アレクシア嬢、この度は我が息子ダニエルが大変な迷惑をお掛けし、申し訳ない」
いえ、とんでもない──普通ならそう言うところだろう。しかし私は、敢えて笑顔で肯定する。
「ええ、本当に大変な迷惑を被りました。にも拘らず、今に至るまで正式に婚約が解消されていないという点にも困っておりますの。今回の会合で全て綺麗に清算できると良いのですが」
「っ、そう、ですな」
一瞬、デズモンドが言葉に詰まった。
それなりに婉曲な表現ではあるが、まさか私がここまではっきり不快感を表明するとは思っていなかったのだろう。
無給で働かされ、ダニエルの引き起こした女性問題の尻拭いを度々押し付けられ、訳の分からない理由で婚約解消を求められたのだ、これくらいは当然だと思うが。
ウェンディは涼しい顔で座りつつ、そっと左手を握り締め、親指だけ上に向けていた。楽しいらしい。
「ではまず、アレクシアとダニエルの婚約解消の件から進めていきましょうか」
兄が爽やかな笑顔で話の主導権を奪う。
「2人の婚約は解消する、その点については両家の認識は一致していると思いますが、よろしいですか?」
「ええ、当方としましても解消の方向で考えております。ただ…」
「ただ?」
「ダニエル本人が、納得しておらず…」
「は?」
ドスの効いた声がした。ウェンディの目が据わっている。
その腕を軽く叩き、私はデズモンドに向き直る。
「納得していないとはどういうことでしょうか。婚約解消は、ダニエル自身が言い出したことですが」
「本人は、本意ではなかったと申しております」
と、デズモンドは私ではなくウェンディを見遣る。
「ウェンディ・ロレンスのことを『心から愛する人』と言ったのは単なる冗談で、すぐに釈明するつもりだったが、その前にアレクシア嬢が出て行ってしまった。簡単に婚約解消を了承され、アレクシア嬢が自分を愛していないことが分かって悲しいが、自分はアレクシア嬢を愛しているので、これからも婚約を継続し、近いうちに結婚したいと…」
「はあ!? バむぐっ!」
何やら叫ぼうとしたウェンディの口を、私は素早く手で塞いだ。
「ウェンディ、抑えて」
「むぅ…」
言いたいことは分かる。そんなはずあるわけがない。
私個人の率直な感想を述べるなら──歯が浮くような台詞が大変気持ち悪い。『愛している』などと、どの口が言うか。
デズモンドも分かっているだろうが、それでも言い包めようとするのは商人の性だろうか。
「デズモンド様、ダニエルのその言葉、本当だと思いますか?」
「…」
デズモンドの答えは、沈黙。私は溜息をついた。
「残念ながら、ダニエルは嘘をついています。私を愛しているはずがないでしょう──そもそも私がダニエルとの婚約解消を了承したのは、ダニエルがあまりにも不誠実だったからです」
「不誠実?」
「婚約者のいる身でありながら、夜の店の女性と関係を持っていました」
私が言うと、デズモンドは即座に反論した。
「交際はしていない、と聞いている。取引先と交流を深めるためにそういった店を使うのは、君も知っているはずだ」
…残念だ。いくら多忙で不在がちな商会長とはいえ、現状認識が甘すぎる。
婚約解消の方向で動いているのは正解だった──苛立ちと安堵と落胆が胸中で渦巻く。
「ええ、商売におけるその常識は存じております」
デズモンドが私のことを『君』呼ばわりしたのが気に入らないのか、ウェンディは殺気立っているし兄も冷たい空気を纏っている。
しかしまだ、私の番だ。
「では、言葉巧みに若い女性を口説き、お相手が本気になったらわざと自分が不在のタイミングを教え、商会に乗り込んできたお相手と私が相対するように仕向ける、というのは、常識の範疇でしょうか?」
「…何?」
デズモンドがぴくりと眉を跳ね上げた。
この商会本部は、ダニエルが預かる本店からは少し離れている。
デズモンドが本店に来る時は予め日程を教えられていたから、浮気相手が乗り込んでくるタイミングを被らないよう調整するのは簡単だったはずだ。
ダニエルは仮にも店長だし、多忙なデズモンドの機嫌を損ねるのは目に見えているので、わざわざダニエルの奇行を告げ口する商会員もいない。
つまりデズモンドは、ダニエルがどれだけ不誠実かつ迷惑な男なのか、その本質を知らないのだ。
「私がダニエルと婚約してから今まで、本店に乗り込んできて『ダニエルとの婚約を解消しろ』と私に迫った女性は、全部で5人。いずれも、胡蝶通りの店にお勤めの若い女性です。毎回、必ず、ダニエルが不在、かつ私が留守を預かっているタイミングで来訪しております。ダニエルかその婚約者を出せ、と」
「そんな馬鹿な話が」
「ええ、大変馬鹿馬鹿しい話です…が、事実です」
私は深刻な顔で頷いて、デズモンドの前に1枚の紙を差し出した。
「こちら、その5人の名前と勤め先の一覧です。名前は店での呼び名の可能性がありますし、勤め先についてはあくまでその当時の情報ですが」
今もその店に勤めているかは分からないが、デズモンドなら、本人を特定することも、裏付けを取ることも容易だろう。
紙を一瞥したデズモンドの眉間のシワが、さらに一段深くなる。私は淡々と続けた。
「ダニエルがこのような行動を取る理由は分かりません。深く考えずに女性に手を出して、別れ話をするのが面倒だったから後始末を私に押し付けたのかも知れませんし、単に私に対する嫌がらせだったのかも知れません。いずれにせよ、私を本当に『愛している』のなら、そして多少なりとも常識があるのなら、このような奇行に走るはずがないでしょう」
半ば吐き捨てるような口調になってしまったが、本心なので構うまい。
「このような馬鹿げた行為を繰り返されたので、ダニエルに『僕が心から愛する者はウェンディ・ロレンスだ! 婚約は解消する』といった旨のことを言われた時、私は即座に婚約解消に同意しました。恐らくダニエルは冗談ではなく本気だったと思いますが、ウェンディはダニエルに両想いだと勘違いされていただけで、彼女がダニエルに言い寄っていたという事実はありません。むしろ真面目に仕事をしていたのにダニエルにしつこく絡まれて、迷惑がっていました。この件については本店の商会員に聞けばすぐに裏が取れるかと」
ね、とウェンディに目を向けると、彼女は真面目な顔で深く深く頷いた。そしてまた、私はデズモンドに視線を戻す。
「ダニエルが私との婚約を継続したい──結婚したいと言っているのは、愛しているからではなく、好きなだけ無料で酷使できる便利な人材を手元に置いておきたいからでしょう」
「タダ?」
「タダです」
眉をひそめるデズモンドに、私は真顔で同じ言葉を繰り返す。
案の定だ。デズモンドは、私がタダ働きさせられていたことを知らない。
「私はレトラ商会で働いていた3年間、一切、金銭を受け取っておりません。商談に同席するためにと渡されたドレスや宝飾品も、商会の備品だからと言われて毎回ダニエルに返却しておりました。婚約時に約束されていた結婚準備金はハーミット男爵家として受け取っておりますが──私の労働に対する対価は、ゼロです」
ヒュッとデズモンドが息を呑んだ。
目を見開いて固まった後、いや、と強く首を横に振る。
「そんなはずはない。私は毎月アレクシア嬢に渡す報酬をダニエルに預け、領収書を貰っている」
「領収書、ですか?」
「報酬を受け取った旨を書き記した書面だ。君の直筆のサインも入っている」
とても嫌な雲行きだ。
何が起きているのか何となく予想がついて、私は黙って手帳を取り出し、紙を一枚破ってテーブルの上に置いた。
そしてそこに『アレクシア・ハーミット』とサインし、そのままデズモンドに差し出す。
「これが私のサインです。私が普段文章を書き記す時の筆跡とは異なります。──その領収書に書かれていたサインと一致しますか?」
「…」
全体的に斜めに傾いた、独特の書体。これは実物を見て練習しないと真似できない。
そして、私はレトラ商会で書類仕事をする時、必ず『ダニエル・レトラ』とサインしていた。
レトラ商会で働いていても厳密には商会員ではないので、『アレクシア・ハーミット』の名は使うなとダニエルに言われていたのだ。ダニエルの代理扱いだからそれで良いと。
よくよく考えると全く良くないが。
ともあれ、レトラ商会でこの『アレクシア・ハーミット』のサインを披露したことはないので、私の知らない領収書にこれと似たようなサインは書かれていないはずだ。真似しようがない。
サインを受け取ったデズモンドは、無言。その額に、わずかに汗が浮いている。
まさか、と彼が呟きかけた時、控えめにドアがノックされた。
「入れ」
デズモンドが入室を許可すると、入って来たのは本部の商会員の一人。こちらを気にしながらもデズモンドに足早に歩み寄り、そっと耳打ちする。
「…──ダニエル様が…」
辛うじて、その名前だけが聞き取れた。それだけで、おおよその事情を察する。
「ダニエルが来ているのですね」
「!」
呟いた途端、商会員がビクッと肩を揺らした。図星だ。
私はにっこりと笑みを浮かべた。
「丁度良かった。──デズモンド様」
「…何だ?」
「この際です。デズモンド様の認識と私の認識、どちらが正しいか──本人に証言してもらいませんか?」




