14 川での無茶振り
身支度を整えた後、私はブランに連れられて館を出た。
ゾフィーは何やら感動したように目を潤ませていたが、残念ながら私の気持ちが回復したわけではない。相変わらず気分は沈んでいるし、何故外に出なければならないのかも分からない。
半歩先を行くケットシー、ブランの背中を、私はぼんやりと見遣る。
私の朝食とは別に、塩分控えめの茹でササミを貰ったブランは大変上機嫌なようで、ふさふさの尻尾がピンと立っている。
ゾフィー曰く、彼女自身は昨日初めて会ったが、ブランは兄の数年来の友であり、たまにふらっと管理館にやって来るケットシーとして管理館の使用人たちに認知されているそうだ。
《アレクシア、お主はこの荘園をきちんと見たことはあるかの?》
不意に話しかけられて、私はゆっくり意識を現在に戻す。
「ええ、一応は」
まだ母が健在だった頃、兄共々、何度か見学したことがある。
この荘園は領主様の直轄地の一角にあり、ハーミット男爵家はその管理を任されている。
小さな村とその周辺に広がる川と畑、そして管理館、それだけがハーミット男爵家の管轄だ。
村で生産しているのは、生糸。『蚕』という虫を飼育し、その繭を解いて糸に仕立てて出荷する。
生糸を織り上げると『絹』になり、高級な布として平民の裕福層や貴族たちに重宝される。
生糸の生産をしている場所は他にも数多くあるが、領都という一大消費地に近い立地から、この荘園で作られた生糸には多くの引き合いがある。主に、輸送費が安く済むという理由で。
《ならば生産現場を見たこともあるかの?》
「ええ」
生産現場とはつまり、蚕の卵を採取する採卵場、幼虫を孵化させる孵化場、そして飼育場、繭から糸を紡ぐ紡績場なども含むのだろう。
私が頷くと、ブランはほうほうと感心したように頷いた。
《貴族のご令嬢では、見るのも嫌だと言うと思うておったが》
「我が家が任されている仕事だもの、嫌悪するなんて有り得ないわ」
まあ確かに、初めて見た時は全身に鳥肌が立って、逃げ出したいのを必死で我慢した覚えはあるけれど。
蚕は昆虫、蛾の一種だ。成虫は長年の品種改良によって飛ぶ力を失っている上、全身がモフモフしていて一匹一匹は結構可愛い。
が──幼虫は、特に数が多いと…なかなかの迫力がある。
ここ数年はレトラ商会での業務に忙殺されて、荘園には顔を出せていなかった。
今あの飼育場の光景を見たら、卒倒でもするだろうか。…いや、しない気がする。
《なんじゃ、つまらん。それなら今日は別の場所じゃな》
ブランは尻尾を一振りして、ふんと溜息をついた。
まさか嫌悪感を示そうものなら強引に連れて行くつもりだったのだろうか。このケットシー、性格が悪すぎる。
溜息をつきながらついて行くと、ブランは村へと向かう道を途中で逸れ、畑の方へ向かった。
畑といっても生えているのは小麦や野菜ではなく、蚕のエサとなる桑の木だ。この若い枝葉を、蚕は好んで食べる。
ちなみに、桑の木は葉を蚕のエサにする以外にも、葉を乾燥させて煮出したものをお茶として飲むこともできるし、初夏に実る濃い紫色の小さな果実をジャムやお菓子の材料として使うこともできる。使い道の多い樹木である。
蚕のエサとして若枝を収穫するのは早朝と昼食後、そして夕方と決まっているので、今の時間帯は畑に人の気配はほとんどない。
桑の木の間を縫うように進むブランを、私は必死に追いかける。人間よりよほど小さいのに、意外と足が速い。
そうして畑を抜けると、一気に視界が拓けた。
「…川?」
《うむ》
柵の向こう、さらさらと流れる川。水量はそれほど多くなく、午前の日差しが川面に反射してきらきらと輝いている。
考えるまでもない。この荘園の村のすぐ近くを流れる川だろう。しかし、こんな間近で眺めるのはそれこそ荘園の仕事を見学した子どもの頃以来だ。
《では、行くぞ》
「え?」
ブランは当たり前の顔で柵の下をすり抜け、斜面を下り始めた。まさか、実際に河原まで下りるつもりだろうか。
私が柵を掴んだまま戸惑っていると、ブランはこちらを振り返り、尻尾を一振りした。
《何をやっとる。柵の切れ目ならすぐそこにあるじゃろ?》
確かにある。あるが。…いや、考えるのはやめよう。
思考を放棄して、私は言われた通りに柵の隙間を抜けた。服の裾が少し引っ掛かってしまったが、破れてはいないので見なかったことにする。
ブランに教えられながら斜面を下り、茂みを抜けて河原に降り立つ。
大きめの石や砂利が転がっていて、結構足場が悪い。油断すると転びそうだ。
《ほれ、こっちに来てみい》
ブランはその先、川の流れのすぐ近くに立っていた。恐る恐る近付くと、ブランは真っ白な前脚で水の中を指し示す。
《そこにナマズがおるじゃろ?》
「ナ……え? ナマズ?」
私はぽかんと口を開けた。
見れば確かに、ブランの視線の先にはずんぐりとした頭の黒い影がある。
水の透明度が高く、その姿ははっきりと見えた。
砂が集まるちょっとした淀みの端、岩陰に添うようにゆったりと尾びれを動かしている。周囲に小魚もいるが遠巻きにされていて、何となく、川のヌシのような風格がある。
しかし、何故今ここでナマズを紹介されるのだろうか。
私がブランに視線を戻すと、真っ白いケットシーは真面目な顔をこちらに向けた。
《あれが食いたい。獲ってくれ》
「と…」
獲って。つまり、捕獲。
「獲る!?」
私は思わず声を上げた。
この地域では、ナマズは確かに食用だ。淡白な味のふんわりとした白身には意外と脂が乗っていて、きちんと調理すると結構美味しい。しかし、
「待って。私が、獲るの?」
《他に誰がおる》
ブランが呆れたように目を細めた。実際呆れられている気がするが、呆れたいのはこちらの方だ。
仮にも貴族令嬢に、ナマズの捕獲を依頼するケットシーがどこにいるというのか。
…今、目の前にいるが。
私を空色の目でじっと見上げ、ブランは尻尾を一振りする。
《あれはそんなに素早くないし、的も大きい。魔法の一発でも当てれば簡単に捕まるじゃろ》
「魔法…」
ブランは当たり前の顔で言うが、それは私にはとても難易度が高い。何故なら、
「…私、ここ数年魔法なんて使ってないわよ?」
魔法とは、体内の魔力を放出して魔法陣を描き、望んだ効果を引き出すもの。
魔力の有無・大小には個人差があり、主に血筋に依存すると言われている。この国では、貴族は大抵魔力を持っていて、平民は魔力を持っていないことが多い。
一応私も男爵家の令嬢なので、魔力自体は少しばかり持っている。
ただし、それを自在に扱えるかはまた別の話で──いや、もうはっきり言おう。
私は魔法が、苦手である。
子どもの頃、領主様の下で働く魔法使いや回復術師に憧れて、兄と共に熱心に魔法の練習をしていたこともあった。
しかし悲しいかな、それで知ってしまったのだ。私には致命的な弱点がある。
狙いがつけられない。的に当たらない。
全ての魔法が、まるで意図しない方向へ飛んで行く。
こういうのを、俗に『ノーコン』というらしく──当時私の放った火魔法で髪を焦がした兄に困り果てた顔でそう言われ、それ以降、私は自ら魔法を使うのをやめた。制御できない魔法ほど危険なものはないからだ。
へそを曲げたからではない、決して。
そんなことを知らないブランは、なんじゃそんなこと、と片耳を倒す。
《その言い方じゃと、使ったことはあるんじゃろ? 数年程度で忘れるはずないわい。ほれ、やってみい。わしはあのナマズが食べたいんじゃ》
とんだ我儘じいさんである。
とはいえ、ナマズは川の中。正面は川で、後ろは桑畑。
周囲に人影はないし、自分に当たることはまずないし、ブランだったら避けるだろう。
魔法があらぬ所に飛んで行っても、大した被害にはなるまい。
「…分かったわ」
覚悟を決めて、私は久しぶりに魔力を解き放った。
──目標がナマズ、というのが、何とも締まらないけれど。




