13 ブラン
その後数日、私はぼんやりとして日々を過ごした。
兄の言う通り、寝たい時に寝て、起きたい時に起き、お腹が空いたら管理館の料理人が作ってくれた心尽くしの料理をいただく。
明らかに不規則な生活になっているというのに、ゾフィーは何も言わずに笑顔で世話をしてくれて、いつでも温かい食事が供された。
昼前まで寝ていても誰も文句を言わない──どころか、起きたら穏やかに「おはようございます」と挨拶される。
そんなぬるま湯に浸かるような生活は快適だったけれど、時折、ひどく落ち着かない気分になった。
使用人が廊下を行き交う足音。抑えた声。部屋の外の人の気配は気忙しく、いかにも『働いている』という雰囲気だ。
それを感じると、心のどこかで誰かが囁く。
どうして自分は何もしていないのか──と。
身体は動かない。何もかもが億劫で、日がな一日、ベッドの上で窓の外の庭木が風に揺れるのを眺めるのが精一杯。昔愛読していた小説さえ、文章を目で追うのがつらい。
そんな状態なのに、どうしてか、自分も早く動かなければと焦りが滲むことがある。
いつもではなく、日に何度か、思い出したように。…実際に動けるわけではないのに。
焦りと自嘲と諦めが沈積しては消え、消えたはずなのにまた澱のように胸の底に降り積もる。
そんな胸中を持て余して浅い眠りを何度か繰り返し、ようやく夜を越える──そんなある日。
「……?」
寝返りを打って伸ばした手の先に奇妙な感触を覚え、私はゆっくりと目を開けた。
管理館の自室は、既にそれなりに明るかった。
カーテンの隙間から差し込む日射しの角度から考えると、まだ朝だ。そこまで確認して、そろりと視線を動かす。
それほど遠くない位置──いや、むしろ至近距離に、真っ白いふわふわとした丸い物体が鎮座していた。私の右手は、その白い物体に半ば埋まっている。
感触を一言で表すなら、もっふん、という感じだろうか。ムートンよりきめ細かく軽い感触で、何よりとても温かい。
いつの間にこんな毛皮を──そこまで考えて、気付く。
これは毛皮ではない。生き物だ。
「…え」
白い物体の真ん中あたりが、ゆっくりと上下していた。
明らかに、寝息を立てている。温かいのも道理、だって生きているのだから。
驚いたのは一瞬。仮にも貴族の寝床に見知らぬ生き物が入り込んでいるという事実にも、不思議と危機感は湧かなかった。
ただ眠気は飛んだので、もふりと、真っ白な毛皮を撫でてみる。
もぞり、毛玉が動いた。
真っ白な丘の上にぴょこんと一対の三角形が出現し、それが持ち上がってそれほど大きくない頭が現れる。
くあ、とあくびをする横顔、大きな口に可愛らしい牙が見えた。
《…んむ》
むにゃむにゃと口を閉じた後、ぱちりと開いた目は、蒼穹を思わせる鮮やかな青。それが穏やかに細められ、こちらを向く。
《おお、目が醒めたようじゃな》
頭に響く声は、肉声ではない。念話、と呼ばれるものだ。
そこまでくると私にもこの生き物の正体が分かった。
ケットシー──魔法を使い、念話で人と話すことができる、人間に友好的な魔物の一種。
領都でよく見かけるケットシーは白黒柄や真っ黒、三毛と言われる黒・茶・白の三色、それに縞模様などだが、このケットシーは全身真っ白だった。
しかも明らかに普通より毛足が長い。癖のない繊細な被毛が、きらきらと輝いているように見える。
《おはよう、アレクシア》
「おはよう、ございます…?」
にこにこと当たり前のように名を呼ばれ、首を傾げながらも応える。こんなに美麗なケットシーの知り合いはいただろうか。
白いケットシーは丸くなった状態から身を起こし、私の視界の中央できちんと座り直した。
揃えた前脚に、太い──いや、被毛のボリュームで太く見えている長い尻尾をくるんと巻き付け、小首を傾げて私を見下ろす。
《うむ、それなりに顔色は良いようじゃな》
念話は、老成した男性のような落ち着いた響き。口調と相まって、何となくおじい様──先代ハーミット男爵を連想する。
しかしやはり、記憶の中にこのケットシーに該当する知り合いはいない。私は横になったまま、眉を寄せた。
「あの、貴方は…?」
ケットシーはきょとんと首を傾げた後、おお、と耳を立てた。
《すまんすまん、忘れておった。──わしはケットシーのブラン。アルバ、などと呼ばれることもあるが、まあブランと呼んでおくれ》
ブラン。アルバ。どちらも『白』を意味する古い言葉だ。私は頷いて身を起こし、姿勢を正した。
「名乗りをありがとうございます。私はアレクシア・ハーミットと申します。…ご存知かと思いますが」
先ほど、ブランは私の名を呼んだ。ぼそりと付け足すと、青い瞳が面白そうに細められる。
《左様、左様。セドリックから話は聞いておったでな、ついつい知り合いのように振る舞ってしもうた。じゃがまあ、お互い名乗り合ったことだし、これで問題はなかろう? ああ、敬語は要らんぞ》
ぱちり、器用に片目を瞑ってみせる。
ブランはそのままずいっと身を乗り出し、私の膝に前脚を乗せて鼻先を私の顔に近付けた。
すんすん、と匂いを嗅ぐような仕草をして、
《ふぅむ…》
片耳を倒す。
膝に伝わるぷにっとした温かさにケットシーの肉球とは存外柔らかいものなのだなと思っていると、ブランは鼻にしわを寄せ、ぼそりと呟いた。
《運動不足の匂いがするのぉ》
「…初対面の淑女に対して失礼だとは思わないの?」
前言撤回。おじい様には全く似ていない。
正真正銘の紳士と名高かったおじい様だったら、絶対にこんなことは言わない。
運動不足の匂いとは何だ。こちらの顔に鼻を近付けているが、まさか口臭ではあるまいな。
半眼で見詰めると、ブランはほほ、とわざとらしく笑い、尻尾を一振りする。
《細かいことは気にするでない。どうせ日がな一日、部屋にこもっておるんじゃろ? それも悪くはなかろうが、あまり動かんでおると足が腐るぞ》
失礼なことを重ねて言われている気がするが、微妙に憎めない。この見た目のせいだろうか。
ブランは身を翻してベッドから飛び降りると、思い切り伸びをした。そのまま床のカーペットで爪とぎをする態勢になり、
《おっとイカン》
サッと姿勢を戻して前脚を舐める。どうやら我慢しているらしい。
無遠慮な物言いのわりに、変なところで気を遣っている。
そんな奇妙なケットシーは、舐めた前脚で顔を洗い、ついでに背中も舐めると、微妙に変な癖の付いた毛並みをそのままに立ち上がった。
《まあそんなわけでな、お主、今日は一日わしに付き合え》
「え」
《まずは朝食じゃな。食堂へ行こうかのう》
「ゾフィーに言えば、部屋に用意してくれるわ」
《なんと、至れり尽くせりじゃな》
ブランは目を輝かせて私を見上げた。さあ早う、と急かされるまま、私はベルを鳴らしてゾフィーを呼ぶ。
いつの間にかこのケットシーに付き合う流れになっている、と気付いたのは、朝食を終えた後だった。
今作のケットシー、登場。
今回はおじいちゃんです。




