11 零れた言葉
過去を悔やんでも仕方ない。頷いた兄は、さて、と表情を改めた。
「レトラ家とのやり取りは取り急ぎ、このまま父上に押し付けておけば良いだろう。慰謝料に完全に目が行っている以上、丸め込まれることもないだろうしな。念のため、私の方からもレトラ商会──デズモンド様に手紙を送っておく。良いかい?」
「ええ、お願いします」
じきに当主ではなくなる父だが、最後くらいは当主らしい仕事をしてもらおうということで兄とは意見が一致した。
ただし、万が一交渉が上手くいき過ぎて父が速やかに慰謝料を受け取ってしまった場合、勝手に散財してしまう可能性が非常に高いため、爵位移譲の命令書が届き次第、兄が動いて父の首根っこを掴む予定だ。
「首根っこを掴むって…まるでケットシーみたいね」
「好き勝手に振る舞っているという意味では、似たようなものかも知れないな」
「あら、ケットシーの方がずっと可愛いわよ?」
「違いない」
軽口を叩きつつも、今後の方針を決めていく。
そうして話が『私の身の振り方』に及ぶと、兄は気遣わしげな表情になった。
「アレクシア、お前は今後、どうしたい?」
「どう…?」
言葉の意味を捉え切れず、私は首を傾げる。
私は男爵家の娘。ダニエルとの婚約が私の意思に関係なく結ばれたように、貴族令嬢の身の振り方を決めるのは基本的に当主で、本人の意見は反映されない。
ハーミット男爵家当主の座が父から兄に移行するなら、私の未来は兄が決めるはず──そこまで考えて思い至った。
その権限があるからこそ、兄は私に意向を問うているのだ。ハーミット男爵家の利も当主としての都合も一旦棚上げにして、まずは本人の意思を聞きたい、と。
兄はじっと私の答えを待っている。
その視線はどこまでも真摯で…今の私には、どうしようもなく重い。
「…分からないの」
気付いたら、そんな言葉が漏れていた。
落とした視線の先、きちんと揃えるでも拳を握り締めるでもなく、中途半端に脱力した己の指先が見える。そっと握り合わせても、分厚い手袋越しのように、感触が遠い。
「ダニエルと結婚するものだと思っていたから…商会の仕事も、護身術も、取引先とのやり取りも、全部、できるようにって…言われた通りに努力して。でも…もう、私は」
ダニエルとその父デズモンドの求めに応じて次期商会長の妻としての能力を身に付け、ダニエルの母に『自分の身くらい自分で守れなければ』と言われて護身術を習った。将来、そこに自分も加わるのだと信じていたから。
けれど、全部、無意味になってしまった。
自分が今、どのような立ち位置にいるのかが分からない。何を求められているのかも分からない。
──どうしたいかなんて、分かるはずもない。
今私は、どんな顔をしているのだろうか。ぼんやりと頭の隅で考えていると、ぽん、と頭の上に優しい感触がして、私はそっと顔を上げた。
まるで脈絡のない私の言葉に、兄は困ったように眉を寄せていた。
ああ、失望させてしまった──そう思った次の瞬間、兄は泣きそうな顔で微笑んで、
「──頑張ったな、アレクシア」
たった一言。
頭を撫でながら告げられた言葉は、とても温かかった。
兄の手の体温が、声の柔らかさが、言葉の意味が、静かに胸に沁み込んでくる。
そうして浮かんだのは──悔しさと、悲しさと、どうしようもない、申し訳なさ。
「……ごめんなさい、お兄様…っ」
もっと私が上手くやっていれば、そのままダニエルと結婚できたかも知れない。
もっと私がしっかりしていれば、父もあんな風に後先考えずに浪費していなかったかも知れない。
…こんなことで兄の心を乱さなくて済んだかも知れない。
──全部今更だ。何より、私は、もう、
「……もう頑張りたくないの。どんなに努力を重ねても、結局、何も残らなくて…それが、どうしようもなく…辛くて」
視線が再度、膝に落ちる。半ば伏せた瞼が熱い。両頬に一筋ずつ、冷たいものが伝う感触がある。喉が引きつって、声が続かない。
ずっと、誰かの求めに応じて生きてきた。努力するのが当たり前だと思っていたから、言われるままに頑張ってきた。
男爵家の娘として。次期商会長の婚約者として。商会の未来を担う一人として。
だけど、もう無理だ。何も考えたくない。何もしたくない。頑張りたくない。これ以上努力を求められたくない。
…「頑張ったな」という言葉は、多分、私がずっと求めていたもので。
──最後の一線を突き崩すのには、十分だった。
「…う、…っ…」
顔を伏せたまま、声を殺して泣きじゃくる。
兄が隣に移動してきて、そっと肩を抱き寄せてくれた。突き放すでもなく叱咤激励するでもなく、ただ隣にいてくれる兄の気遣いが嬉しい一方、ひどく申し訳ない気持ちになる。
──不出来な妹で、ごめんなさい。
そんな言葉、兄を困らせるだけだと分かり切っているから、とても口には出せないけれど。
「…」
そうして──どれほど経ったのか。少しだけ私が落ち着くと、兄が静かに口を開いた。
「アレクシア」
「…はい」
そっと私の肩から手を離し、代わりに私の手を優しく握る。優しい声が降ってくる。
「すまなかった。性急すぎたな。──今は何も考えなくていい。この館で、まずは好きなだけ休むんだ」
顔を覗き込んでこないのは、多分兄なりの配慮なのだろう。兄はただ穏やかに、「休め」と繰り返した。
「何をしても良いし、何もしなくても良い。眠くなったら寝て、起きられそうだったら起きて、お腹が空いたら好きな物を食べて過ごしてくれ。それだけでいい」
「それ…だけ?」
「ああ」
兄が深く頷き、ゾフィーを呼んだ。ゾフィーが私の斜め前に跪くとすぐ兄の手が離れ、ゾフィーが私の手を取る。
「アレクシアを自室へ──部屋は整えてあるはずだ」
「承知いたしました。…お嬢様、立てますか?」
ゾフィーに支えられて、私は何とか立ち上がった。感情のまま泣いたのが久しぶり過ぎて、目の奥が痛い。頭も痛いし、足元がおぼつかない。
兄に何か言わなければ。そう思うのに、伝えるべき言葉は出てこなかった。
心配しないで? 私は大丈夫?
もう嫌だと、口にしたばかりなのに?
考えあぐねている間に、再度、ぽんと頭に何かが乗った感触があった。兄の手だ。
「ゆっくりお休み、アレクシア」
それは子どもの頃、幼い私に早く寝るよう言い聞かせていたのと同じ言葉。
「……はい」
それなのに、私は──かつてのように、笑顔で応じることができなかった。




