10 兄への報告
ハーミット男爵家が領主様から管理を任されている小さな荘園は、領都から馬車で1時間程の場所にある。
メイドのゾフィーと共に、執事のジョージの操る貸馬車で荘園の管理館を訪れると、すぐに館の奥へ通された。使用人の案内で向かった先は、執務室だ。
「セドリック様、お客様がおいでです」
「通してくれ」
硬質だが、どこか温かい声の響き。懐かしさを感じている間に、ドアが開いた。
「──アレクシア!?」
大きな机に向かっていた若い男性が、驚きに目を見開いて立ち上がる。
その拍子に山積みになっていた書類が横滑りし、机の上から床へと雪崩を起こした。
「うわっ!」
使用人と若い男性──私の兄セドリックが、慌ててそれを回収する。私たちもすぐに手伝い始めたが、
「…ふふ…」
先刻の泡を食った様子が脳裏によみがえり、つい笑みがこぼれてしまった。
書類を拾い終えて差し出すと、兄が渋面でそれを受け取る。
「そんなに笑うことはないだろう」
「ごめんなさい、お兄様」
謝りつつも、口元は笑んだまま──そのはずだったのだが、兄は私の顔を見詰め、不意に真面目な表情になった。
「紅茶と焼菓子を頼む。クルミ入りのクッキーがいい」
「承知致しました」
指示を受けて、使用人が素早く退出していく。
兄は私の手を取って、執務机の前、応接用のソファーにエスコートしてくれた。
クルミ入りのクッキーは、子どもの頃から私の好物だ。5年近く顔を合わせていなかったのに、ちゃんと覚えていてくれたのが嬉しい。
「…それで、何があったんだ?」
既にある程度準備されていたらしく、すぐに紅茶と焼菓子が供される。
ゾフィーとジョージが私の背後に付き、私がお菓子をいただいて一息つくのを待ってから、兄は真剣な表情で問い掛けてきた。
4歳違いの兄、セドリック・ハーミット。
久しぶりに向き合うその顔には、隠しようのない疲れが見える。5年前にはなかった目の下のクマと、ややこけた頬が、荘園運営の大変さを物語っていた。
そんな兄に、こんなことを伝えるのは心苦しい。けれど、そのためにここまで来たのだ、伝えないわけにはいかない。
私は膝の上に両手を揃え、背筋を伸ばして無理矢理微笑んだ。
「──ダニエルに、婚約解消を言い渡されたわ」
「は」
兄の動きが止まった。私は淡々と後を続ける。
「心から愛する方が別にいるから、だそうよ。とはいえ、肝心のお相手は寝耳に水のご様子だったけれど…」
数秒後、兄の目が吊り上がり、口元が歪んだ。
「──何をやっているんだあの男は!」
怒りの声に、私は思わず身を竦めた。
兄がこちらを見遣り、はっと表情を変える。
「すまない、アレクシア」
「…いいえ、怒ってくださってありがとう、お兄様」
声には驚いたけれど、兄の反応に安堵する。資金源が絶たれることに狼狽えて私に理不尽な指示を出してきた父とは違う。
兄はふー…と長い溜息をつき、腕組みした。
「倫理観の緩そうな奴だと思っていたが、まさかそこまで阿呆だとは…」
「阿呆」
「阿呆だろう、間違いなく」
「…そうね。婚約解消を宣言した相手に『今後は商会員になって僕の右腕として働け』などと言う程度には、阿呆だったわね」
「……は?」
再度、兄が動きを止めた。
視線が斜め上を向き、眉間にシワが寄り、数秒後、完全に理解できないものに出くわした顔がこちらを向く。
「婚約解消、したんだよな?」
「当主間の契約として正式に解消されたかどうかは未確認だけれど、少なくともダニエルからは、はっきりとそう宣言されたわ」
「…その相手を雇おうというのは、一体どういう了見なんだ?」
「そこは私にも理解不能なの」
即座に『お手上げ』の旨をご報告申し上げる。
3年そばにいても、結局ダニエルの内面を理解するには至らなかった。まして今となっては、あの男の思考回路など理解したくもない。
ともあれ一旦落ち着いたところで、私は改めて事の経緯を説明する。
ただでさえ疲れの見える兄の顔は、話が進むにつれ、どんどん歪んでいった。しかめ面どころか、怒りを通り越してもはや殺気立っているように見える。
「──と、こういうわけで、しばらくこちらに滞在させてもらえると嬉しいのだけれど…」
荘園に来た理由まで話し終えると、兄は深々と頷いた。
「分かった。お前の部屋はそのままだから、好きに使うと良い。いつまでいてくれても構わない」
むしろこっちに住む方が安全だろう、という言葉に、私は少しだけ安堵する。
一方兄は、腕組みしたまま目を眇めた。
「…それにしても、父上の現実逃避ぶりはいい加減目に余るな。いっそ領都の屋敷を売り払って路上に叩き出すか」
「売り払うって…お兄様にそこまでの権限はないでしょう?」
今のハーミット男爵家の当主は、『男爵代行』である父ザカリー。当然、領都の屋敷の所有権も父が持っている。
それを勝手に売り払ったら、罪に問われるのは兄の方だ。
しかし兄は、そうでもない、と口の端を吊り上げた。
「父上が私に仕事を丸投げしてくれたお陰で、既に条件は揃っているんだよ」
「条件?」
「私が『ハーミット男爵』の爵位を継承する条件だ」
爵位の継承には、直系血族であることと、一定以上の年齢、そして各家に与えられた仕事を十全に遂行できる実務能力が必要だ。
普通なら、跡継ぎとなる子どもは当主の下で実務を学び、実践し、当主に認められたら爵位を継ぐ。
この『当主に認められたら』という条件が曲者で、既得権益を手放したくない当主が後継者を敢えて教育せずに放置し、まだ未熟だとして世代交代を拒むケースが稀にある。
そういう場合、後継者が領主や国王に申し立てることで、上位者から爵位の継承を命じてもらうことができる。無論、後継者がそれに足る能力を有していることが条件だが──
「…あ」
既に5年も荘園運営の実務を担っている兄ならば、十分にその条件を満たしている。それに気付いて声を漏らすと、そういうことだ、と兄が笑んだ。
「丁度3日前、領主様から承認の正式書面をいただいた。爵位移譲の命令書はまだだが、数日中には発行されるだろう」
担当文官立ち会いのもとで父に命令書を提示すれば、その時点でハーミット男爵の位は父から兄に移行し、ハーミット男爵家の不動産や財産も兄の所有となる。
そうなれば、父の処遇は兄の采配次第。この国において、前当主の公的権限はほぼ皆無に等しいのだ。
ようやく、父の身勝手な振る舞いを止めることができる。
だがそれ以上に、兄の今までの努力が領主様に認められたのが嬉しい。
「おめでとうございます、お兄様」
「ありがとう、アレクシア」
私が心から祝福すると、兄は嬉しそうに微笑んだ。
そしてその笑顔が、不意に苦いものに変わる。
「…もっと早く承認を得ていたら、お前とあの阿呆との婚約を止められたんだが」
「流石に経験年数2年では、領主様にも認めていただけないんじゃないかしら」
兄がこの荘園の運営を引き継いだのは5年前、私がダニエルと婚約したのは3年前だ。それは無理な相談というものだろう。
土日祝日は更新頻度を上げていきます。
本日はこの後13:10と15:10に更新。
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