エピソード2「少女の沈黙・中編」
「どうして、こんなことに……」
ざわざわとどよめく群衆と、広場に急遽運び込まれた円形の的を前に、ヴェルヴェーナはつぶやきを漏らした。
午後から広場ではじめられた宴の場。はじめは和やかな雰囲気から始まった。カルキノスの終身執政官クローコスとペレキスの『弓の女王』は同格の席に座り、他の者たちは身分の高低を問わない立食形式となった。
そこらな蛮族よりも好色で好戦的と恐れられていたペレキスの女戦士たちも、実際に対面してみるとおしゃれでおしゃべり好きでよく笑う年頃の女性たちと変わりはなかった。
弓の女王が「カルキノスの武勇のほどを見てみたい」と言い出すまでは。
その瞬間、女戦士たちの顔付きが変わった。それは、相対する者の力量を見極める武人の目にも、獲物の大きさを見定める狩人の目にも思えた。
相手は武力に特化した軍事都市国家である。カルキノス側も、女王がいずれこのようなことを言い出すと予想していた。そのため、あらかじめ剣、槍、弓、魔法、馬術などの達人を選定し、密かにコンディションを整えるよう命じている。
だが、次の女王の行動は予想外だった。
「そこの不死人」
女王は立ち上がり、まっすぐにヴェルヴェーナの前にやって来たのである。
「汝の噂はペレキスにも届いていた。式典の時からずっと気になっていたのだ。汝の肉体に内包される魔力、只者ではあるまい?」
無造作に伸びる女王の手が、ヴェルヴェーナの胸骨に触れた。
「!」
武道の達人の動きは、ゆっくりとしたものであっても躱せないと言われる。この瞬間がまさにそれだった。ヴェルヴェーナは慌てて相手の手首をつかむも、女王の手は小揺もしなかった。
「陛下、お戯れは……」
抗議の声は、女王の鷹のような瞳の前に封じられた。長身のヴェルヴェーナに対し、女王の背丈は頭一つほど低い。にも関わらず、ヴェルヴェーナは見えざる巨大な手によって頭を押さえつけられているような錯覚に囚われていた。
「面白い肉体をしているな。そこにあるのは本当に心臓か? 答えよ」
「わかりません……。生前の記憶は持っておりませんので……」
「興味深い。汝の魔力を見てみたいな」
女王の言葉は、そのままの意味ではないことをヴェルヴェーナは本能的に理解していた。女王の瞳から発する眼光は、見た者の脊髄を芯から凍てつかせるのではないかと思えるほどに冷たく研ぎ澄まされていた。
それは、女王からの決闘の申し出だった。
「ご容赦ください。今の私は、魔力のほとんどを体の維持に回しておりますので……」
「何も本気で死合おうとは言っておらぬ。だが、手合わせ程度なら付き合えよう?」
窮したヴェルヴェーナに、助け舟を出したのは終身執政官クローコスだった。
「女王陛下、ここは宴の席。無用な争いは光竜フランベネクスも望みますまい」
「汝の言はもっともだ。だが、この不死人の魔力は私の芯にも火を点けてしまったのだ。この心身の火照り、どうしてくれる?」
この場にいたカルキノス人全員が思った。「お前の性癖など知るか」と。
「陛下は弓の女王であらせられる。ならば的中て勝負はいかがか? 陛下は弓矢、ヴェルヴェーナは魔法で」
「よかろう。そのあたりが落とし処か。だが、余興ついでにもうひとつ。英雄オジロス殿も参加せよ。聞くところによると、オジロス殿はもともと弓の名手であったと聞く」
女王の提案に、今度はカルキノスの市民も歓声を上げた。
「いいぞ! やってくれ!」
「英雄オジロスなら、やってくれる!」
「斧の女王を討ち取っただけでなく、弓の女王にも勝てば……!」
(さすがは弓の女王)
一瞬、ヴェルヴェーナとクローコスの目線が交差した。2人は互いに、どうやら相手が同じことを考えていると察した。
(弓の弦と同様、人の心にも緊張と緩和を調整するのが巧みらしい)
こうして、広場には的中て場が急遽設営される運びとなったのだった。
「これはあくまで宴席の余興。勝負の末に遺恨はなし。よろしいな?」
クローコスの念押しに、弓の女王は快くうなずいた。
「では、言い出した私から参るとしよう」
そう言うと、女王は杯いっぱいの葡萄酒を飲み干し、的場に立った。すかさず、近習の兵士が弓を差し出す。
「あれがペレキスの弓?」
不思議な形状をした弓だった。全長はおよそ230センチ。上下は非対称で、小柄な女王が構えると、上側が大きく空いている。
「この形は、かつて勇者タイスケスが発案したものだ。威力、精度共に優れているが、扱いには長い修練を要するため普及はしなかった」
その解説を最後に、女王は口を閉ざすとおもむろに矢をつがえた。
空気が凍る。
矢も長い。大きく弓を引いたその姿は、まるで女王自身が弓矢と一体化したようだった。
静まり返った広場に、空の切れる音が響く。その時にはすでに、矢は的の中央を射抜いていた。
「……」
女王が弓を下ろし、体の緊張を解くまで、誰一人身じろぎひとつできなかった。
「綺麗……」
ヴェルヴェーナの漏らした言葉が、この場にいる全員の心を代弁していた。
弓の女王の見事な射が、ヴェルヴェーナの覚悟を固めた。
「では、参ります」
女王に倣い、葡萄酒を飲み干す。
(あ、美味しい)
ペレキス産の葡萄酒は、甘みが強いが後味は爽やかでひと口でヴェルヴェーナの気に入った。
(でもキツい!)
だが、アルコールの衝撃は少し遅れて現れた。これは、飲み方を誤ると大変なことになる類の酒だった。
気を取り直し、ヴェルヴェーナは右手をまっすぐに差し出した。血液の代わりに体内を循環する魔力の一部を、手の平に集中させる。パリッ、パリッ、と周囲の空気に火花が散る。
「雷属性かよ!?」
現在提唱されている魔法属性は5つ。「炎」、「水」、「風」、「雷」、「癒し」である。その中で「雷」を扱える者はきわめて稀であり、歴史上で名を残した者は王や勇者に限られる。
「あの人、本当に生前は大魔導士だったんだ」
「そう言えばそうだった。ただの足の遅い人じゃなかったんだな」
口さがない人々の言葉は、集中するヴェルヴェーナには届いていなかった。彼女の周りに、かすかに饐えた甘い腐臭が漂う。
刹那、彼女の手から的に向かって青白い稲妻が閃いた。少し遅れて「パンッ!」と破裂音が鳴り響いた。的の中心が黒く焦げ、一筋の煙が立ち上っていた。
「見事!」
弓の女王の賛辞を皮切りに、広場は賛辞と拍手で満ち溢れた。
「ふーっ」
大きく息をつくヴェルヴェーナ。
「お疲れさま」
いつの間にかポディが側に来て、肉の盛られた皿を差し出していた。
「もしかして、臭いますか?」
彼女は恥ずかしそうに身を縮めた。集中すると、魔力の体内循環がおろそかになり肉体が腐敗してしまうのがヴェルヴェーナの悩みの種である。ちなみに、ポディは「あはっ」と笑っただけで答えなかった。
「……」
そんな盛り上がる広場の片隅で、沈黙の沼に頭まで浸かっていたいたのは英雄オジロスだった。
「見ろよ、あの集中。さすがは英雄だ」
「どんな技を見せてくれるのか楽しみだ」
周囲の期待も、彼の耳には届いていないようだった。
「団長、こちらへ」
竜騎兵団の副団長であるラーヴァがいた。森人には珍しい黒褐色の肌は、海の向こうにある砂漠の王国にルーツがあるらしい。赤熱したような赤い髪と相まって、その名の通り体の奥で静かに燃える溶岩を思わせる、男装の麗人のような雰囲気の女傑である。
「おう」
オジロスは短く返答すると、足取り重く立ち上がった。
「……悪酔いですか?」
「なぜだ?」
副官は無言で置き忘れられていた弓矢を差し出した。オジロスはそれらを不機嫌に引ったくる。
――彼は酔ってはいなかった。単に全く別のことに気を取られていただけである。
(まだか?)
周囲の目線に押し出されるように、オジロスはのそのそと歩き出した。肉付きの良い身体とブラシのような髭のおかげで、人々の目にはそれが堂々たる態度に映った。いささか、もったい付け過ぎではないか、とは思われたが。
(何をしている?)
儀礼用の金の兜を着けたおかげで、彼の顔面の大きさには不釣り合いな小さな目が、時計塔の巨大水時計ととある場所をせわしなく行き来している様子は誰にも知られなかった。
ラーヴァが葡萄酒に満たされた杯を差し出す。オジロスは特に考えもせずにそれを飲み干し、思わず「酒!?」と叫んだ。
広場がどっと笑いに包まれる。
「あの男……、なるほど、初めて見る英雄の型だな」
弓の女王の、オジロスを見る目が変わった。
(何だ? なぜ俺は笑われている?)
当のオジロスは状況を理解していなかった。彼は自分が思っていた以上に周囲が見えていなかった。彼は前の2人が酒を飲んでから的中てを行っていたことを、目にはしていたのだろうが記憶に留めてはいなかったのだ。
突如、彼はわきの下から冷たい汗がどばっと溢れるのを感じた。
(大丈夫か、俺!? こんな浮ついた気持ちで、酒まで飲まされて、俺は弓を引けるのか?)
手元の弓を見る。最後に弦の調整をしたのはいつだった? 前の戦から弓に触れた覚えがない。上の空ながら、女王もあの不死人も見事に的を射抜いたことだけは覚えている。ここで自分が矢を外したら、生き恥なんてものではない。
(早く! まだか、まだか! 早く!)
手の震えを必死に押し隠し、弓を構える。矢を弦につがえる。いっそこれを女王に向けて乱戦を起こした方が自分にとって有益なのではないか? そんなバカげた誘惑が心の中に巣くった毒蛇のように鎌首をもたげてくる。
目が泳ぐ。水時計、空、水時計、空……永遠のような瞬間の連続。そしてようやく、水時計の水面が約束の時に達した。
「ッ!」
オジロスはその場所へ振り返った。本来の計画では、誰かが気付くまで待つつもりだったが、もうそんなことは言っていられなかった。言い訳など、後でいくらでも立つ。
「おい! あれは何だ!?」
広場のあちこちから一斉に声が上がった。
人々が指さしたのは、カルキノスの城塞の一画にある物見の塔だった。そこに、人が1人立っていた。
全てのペレキス兵と一部のカルキノス軍人が瞬時に戦闘の構えを取る。
「塔の向こうは?」
弓の女王が静かに問い、近習の女戦士が「深い湖です」と返答していた。
塔の上の人物は、赤いローブを纏っており、顔はおろか種族や男女もわからなかった。それは幽鬼のようなおぼつかない足取りで塔の端へ向かうと、空を仰ぎ、城壁の向こう側へと消え去った。
「落ちたぞ!」
そこかしこから、悲鳴交じりの叫び声が上がる。
「行くぞ!」
いち早く走り出したのはメリッサとポディだった。
その後間もなく、兵士を乗せた飛竜の一団が飛び立つ。
残された者たちは、どよめきの中で呆然と立ち尽くしていた。勇者オジロスもまた、兜と髭で安堵の表情を隠しながらぼんやりとたたずんでいた。
(これでいい。これで、俺は英雄のままだ)
◆ ◆ ◆
切り立った黒い岩肌の崖の下。打ち寄せる波は白く泡立ち、湖畔というより荒れた海岸のようだった。
現場では、すでに問題が発生していた。
「何、勝手なコトしてくれてんだ? あ?」
「これを見て何もしないなんてできないだろう!?」
言い争っているのはメリッサと竜騎兵団副長ラーヴァである。彼女たちの傍らには、大きな布に顔から足先まで包まれた遺体があった。
2人の対立は、この遺体を包む布にあった。
先に現場に到着し、遺体を発見したラーヴァたち竜騎兵団が遺体にマントをかぶせ、それに現場保存を求めるメリッサたち夜巡り隊が異を唱えたのである。
「もしこれが万がいち殺人だったらどうするよ? 何が重要な証拠になるかわからねぇんだぞ?」
「だからって遺体を野ざらしになんてできないだろう。戦場以外の死がどれほど屈辱かを考えたらなおさらだ」
「職業軍人の理屈を持ち込むんじゃねぇよ」
緊張が高まりかけたところを、ブートンが「まあまあ」と割って入った。その背中にはヴェルヴェーナがへばりつくように背負われている。
「過ぎたことはしょうがないよ。それより。夜巡り隊は僕らの仕事をしよう」
「つっても、ウチらにできることはあんまねぇぞ。遺体は湖に落ちていたところを竜騎兵団に引き上げられた。これじゃあ狼獣人の鼻は役に立たねぇ。魔力の残滓も感じねぇ」
「とりあえず、ご遺体を調べてみようか」
「――あの、ひとつよろしいですか?」
ブートンの背中にくっついたまま、ヴェルヴェーナが声を上げた。
「ご遺体は竜騎兵の方なのでしょうか?」
「ああ。元、だけどね。でもどうして?」
「戦場以外の死は屈辱とおっしゃっていたので。竜騎兵団副長はこの方をご存知なのかと」
ラーヴァの顔に陰りがさす。
「知っているさ。彼女は――」
「アンドロマケ!」
そこへ、オジロスが突撃するように駆けつけてきた。周囲を押しのけ、遺体に被せられたマントをはぎ取る。
血の気を失い、土気色の女性の貌があらわになる。
「おお! 何と言うことだ! どうしてこんなことに――!」
オジロスは妻の遺体をかき抱き、天を仰いで吠えるように泣いた。
「……彼女はアンドロマケ。見ての通り、英雄オジロスの奥方で、かつては我々と同じ竜騎兵団の一員だった」
「そうでしたか。ご冥福をお祈りいたします」
ヴェルヴェーナの口調には、死者を悼む想いは確かに込められていたが、それとは別の無機質な冷たさがかすかに混じっていた。
その細い目からは感情は読み取れないが、「目を開けてくれ! アンドロマケ!」と叫び続けるオジロスをじっと見つめているのは明らかだった。
「なぁ、ヴェルヴェーナ」
そんな彼女の耳元に、メリッサがこっそりとささやきかける。
「あの英雄のこと、怪しいと思ってんだろ? ウチもだ。あの嘆き方はなんかわざとらしい。それに、もっとこう、はっきりとモヤるんだよ。何て言ったらいいか、何か違う。アイツは何かを間違えた。ウチの勘だが……」
「その勘、当てましょうか」
ヴェルヴェーナの口元がほほ笑んだ。だがその眼差しはオジロスをとらえたまま、剃刀のように研ぎ澄まされた。
「オジロス様は順番を間違えたのです。遺体が布に覆われている時点で「アンドロマケ」と名前を呼んでしまった」
メリッサは指先で額をカリカリと掻いた。言われてみれば簡単なことに、違和感を覚えるばかりで言語化できなかった自分に苛立っているようだ。
「うおおおおアンドロマケ! どうしてだぁ! 何もかもがこれからだと言うのに! 光竜よ! どうして私から愛する妻を奪ったのだぁ!!」
◆ ◆ ◆
「聖女の次は英雄か」
このところ、クローコスの眉間のしわが深くなる一方だな、と夜巡り隊の面々はぼんやり考えていた。
「そう言えば、ペレキスの女王様は?」
「丁重にお帰りいただいた。戦場の外で死に触れるのは縁起が悪いと、向こうから宴の中断を申し入れてきた」
「……」
口には出さないが、不幸中の幸いだと誰もが思っただろう。
「今後の方針は?」
クローコスの問いに、メリッサが答える。
「……オジロスは遺体の顔を見る前にそれが奥さんだと確信していた。ってことは奥さんはあの時すでに死んでいて、オジロスが殺したか少なくとも本当の死因を知っているってことになります」
「では、広場で多くの者たちが目撃した、物見の塔から飛び降りた人物は?」
「替え玉ってことになりますね」
「ならば解き明かすべきは3つ。替え玉の正体、被害者の本当の死因、それらと英雄オジロスとの関わりだ」
メリッサは、やや決まり悪そうにヴェルヴェーナを見た。それは先日、彼女の夜巡り隊としての資質を腐してしまった負い目だったが、迷いは一瞬のことだった。
「どうしよう、ヴェルヴェーナ?」
メリッサは素直に、夜巡り隊の頭脳となるべく現世によみがえった不死人に頼ることにした。それはメリッサ個人のプライドの低さか、事件の早期解決を至上とする夜巡り隊としてのプライドの高さか、いずれにしてもその表裏の無さは彼女の美点と言えた。
「そうですね。さらに突き詰めれば、私たちが手に入れるべき手がかりは1つだけと言えるかも知れません。つまりは――替え玉さんが何者か?」
ヴェルヴェーナは言う。あれだけのことをした以上、替え玉が事件について何も知らないはずがなく、オジロスと無関係であるはずもない。
「どうやら、目星も付いているようだな」
「はい。オジロス様には召使いの少女がいました。身代わりを演じるには少々小柄ですが、ローブを羽織れば誤魔化し様はあるでしょう」
「……召使いか」
考え込むクローコスに、ヴェルヴェーナは小首をかしげた。それにブートンが解説する。
「召使い――つまり奴隷を民衆裁判の証人にするのは、難しいかもしれないんだ」
奴隷とは、主の所有物である。魔王戦争が終わり、都市国家の社会が成熟するにしたがって奴隷にも徐々に人権が認められつつあるとはいえ、依然として根深い身分差は存在する。
「特に市民は、戦場に出て『都市国家』を守っているという自負がある。『都市国家』の中には、奴隷によって回っている農地や施設も含まれてる。もちろん、財産としての奴隷自身もね」
「最近は戦に出たくねぇから、あえて奴隷になるってのもいるしな」
「なるほど。民衆裁判ではオジロス様は先の戦の英雄――つまりは体を張って奴隷を守る市民の代表と見られ、召使いの方は戦場に出ずに守られる者でありながら主に弓を引く不届き者と見做される可能性が高い、と」
メリッサは「ふん」と鼻を鳴らし、ポディは乱暴に尻尾を振っていた。
「民衆裁判は、市民の裁判ですからね……。あれ? すみません、今の私はどのような身分なのでしょうか?」
クローコスはヴェルヴェーナに背を向け、外の景色を眺めながらつぶやくように言った。
「市民でも奴隷でもない。言うなれば、都市国家カルキノスの『備品』だ」
「備品……」
少なからぬショックを受けるヴェルヴェーナ。
「大丈夫! ヴェルヴェーナはもう僕たちの仲間だから!」
「気にすんな。ウチやポディも似たようなモンだ」
そんな彼女に唐突に親近感を覚えたのか、ポディとメリッサは急激に距離を縮めてきた。
「……将来的に、カルキノスでは奴隷制度を廃止する。だが、お前たちの今の課題は、その召使いの少女を確保して真相を解き明かすことにある」
「奴隷の少女の証言が、市民の英雄を刺すことになっても?」
「かまわない。英雄であろうと聖女であろうと、カルキノスの秩序を乱した者は平等に裁かれなければならない」
「もし、ボスが過ちを犯したら?」
「私はお前たちを飼い犬にしたつもりはない。たとえ相手が終身執政官であろうとも、獲物と見たなら噛みついて来るがいい」
ヴェルヴェーナは、メリッサたちが彼をボスと呼ぶ理由がわかった気がした。
◆ ◆ ◆
訪問客が途絶え、オジロスはようやく一息つくことができた。
「おい!」
型どおりの挨拶でも、何十人も相手にしていれば声も枯れる。オジロスのだみ声に、家の奥からパタパタと足音とともに小柄な少女が駆け寄ってきた。
「あい……」
舌足らずの小さな声。それがオジロスには気に入らなかった。
「返事は「はい!」だ! 飲み物持って来い! 言われなくてもわかるだろ!?」
「ひゃい!」
アンドロマケは召使いにどんな教育をしていたのだろうか? 家の中にいるのなら、主の声がかすれていることに気付いているべきであり、客足の途切れを見計らっていてしかるべきだろう。
(水なんか持って来たらぶっ叩いてやる)
少女が差し出したカップの中身を一息に飲み干す。
(茶……)
オジロスは一瞬判断に迷ったが、結局「葡萄酒だバカヤロウ!」と少女の頬にいくつも指輪をはめた平手を振り上げた。
「まあまあ、落ち着いて」
だが、その手首は背後に現れたぽっちゃりとした手につかまれていた。
「このたびは、お悔やみを申し上げます」
「……ああ」
そこにいたのは、見覚えのある者たちだった。
でっぷりとした太鼓腹と豚鼻をした鬼人の青年と、淡い青灰色の肌をしたやたらと目の細い女。あの日、半日だけ自分の警護をしていた夜巡り隊の面子である。
(まさか来るとは)
創世教の聖女が彼らによって追放されたのはオジロスも知っていた。だが、カルキノスでは創世教の勢いは弱く、さほど驚くに値しなかった。だが――
(俺はカルキノスを救った英雄だぞ?)
苛立ちが積乱雲のように膨れ上がるのを、必死で抑え込む。
「すみません。何しろ多くの人々が見ているもので。その、奥様の飛び降りの瞬間を」
口ではすまなそうに述べるヴェルヴェーナとかいう不死人の、常に微笑んでいるような目が気に入らない。
ついでに、白い袖なしのワンピースを纏ったその体つきも気に入らない。長身でメリハリが効いていて、それでいて森人のような近寄り難い美でもない、まさにオジロスの好みである。好みであるのだが――
(戦場を知らない奴の体だ)
こんな体をした者に、市民として生きる価値はないとオジロスは本気で考えていた。このような体の女は、奴隷として英雄を慰めるためにのみ価値がある。
なのにこの女は、とうとう胸のひとつも触らせようとしなかった。
「で? 何のようだ?」
「はい。このままでは噂が噂を呼んでオジロス様にあらぬ不名誉にならないとも限りません。ですので、奥様の死についてはっきりとさせておきたいのです」
あくまでオジロスを立てる言い方に、彼は少しだけ気を良くした。
「私もあの瞬間は目にしましたが、奥様は自ら壁の向こうに身を投げたように見えました。目撃者は皆、あれは自殺であると考えているようですがオジロス様はどのようにお考えかと」
「……不名誉なことではあるが。俺もあれは自殺だと思う」
「奥様が自ら命を絶つ理由として、お心当たりはありますか?」
「無いこともない」
オジロスは召使いの少女が再び運んできた飲み物を一息に飲み干す。
(茶……)
だが、今はそれどころではない。
「どうせ噂になっているだろうから言っておく。アンドロマケはもともと、別の男と婚約していた」
「はい、聞きました。ヘクトール様、かつては貴方と組んでいたとか」
「ああ。相棒だった。竜騎兵は2人1組で戦う。あいつは槍で、俺は弓」
「初代の竜騎兵団長もヘクトール様だったのですね」
「……ああ」
ヘクトールの背中を思い出し、オジロスは苛立ちを吐き出すようにため息をついた。
「だが知っての通り、ヘクトールは死んだ。ペレキスの斧の女王と戦って、斃されちまった」
「彼の槍をオジロス様が引継ぎ、今度は貴方が斧の女王を下したのですね」
「そうだ。俺はあいつの槍と共にその想いを受け継ぎ、あの女王の斧が繰り出す竜巻のような一撃をかいくぐって――」
陽光が陰り始めた。
「――というわけで、俺は黒金剛の斧を持ち帰ったワケだ」
「その雄姿が目に浮かぶようです」
武勇伝をとうとうと語り、オジロスはすっかり気分がよくなっていた。
「それでどのように奥様と?」
「ああ。俺は託された。奴の最期の言葉は、「アンドロマケを頼む」だったからな。だが、アンドロマケはやはり奴を忘れられなかったんだろうよ。あれは、そうだ、式典の前日だった。ペレキスから一足先に捕虜と遺品が返却された」
「そうでしたね」
「その中には、奴の遺品も含まれていた」
「ヘクトール様の? それはどのような?」
「武具一式だ。槍と盾、兜、胸当てに脛当て、そんなところか。奴は天涯孤独だったからな、引き取り手はアンドロマケしかいなかった。あいつはそれを見て恋人を思い出しちまったんだろう。もともと思い立ったら突っ走る女だったからな。衝動的に奴の後を追っちまったんだな」
「お労しいことです」
オジロスは、相手に気付かれないように鼻で嗤った。女は時折、理解できない物事に共感する。英雄の妻になる以上の幸せなどどこにもないというのに。
「男としては複雑だが、これでよかったのかも知れん」
オジロスは自分に半ば自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
(まあいい。もっといい女はいくらでもいる。本来は奴に捧げられるべきものを得ることができたのだから良しとしよう)
そんな下衆なことを考えているうちに、陽は完全に落ちていた。
「では、本日はこの辺で」
立ち上がる夜巡り隊の者たちに、オジロスは少々驚いた。てっきり、あのことを問い正されると思っていたのだが。
「ところで……」
仕方なく、オジロスから言うことにした。でなければ、胸の奥がモヤモヤとしてしょうがない。
「もしかしたら、俺にあらぬ疑いがかけられているかも知れん。あの時、俺にどうして死体が妻だとわかったのか、とか」
ヴェルヴェーナは黙って微笑んだ。考えが読めない。
「遺体が妻だという確証は無かった。ただ、奴の遺品を受け取ってからずっと塞ぎ込んでいたから、もしやと思っていたんだ」
「そうでしたか。やはり戦場に立つ方は判断力が違いますね」
ヴェルヴェーナはそう言うと、会釈をして立ち去ろうとする。
「待て、どういう意味だ?」
「いえ。もしかしたら愛する人かもしれない遺体がマントに包まっているのを見たら、私だったら未練がましくまずはお顔を確認するかな、と。信じたくない。人違いであってほしいと、一縷の望みにかけてしまうのではないかと想像してしまって」
(――しまった)
不意に、オジロスは胸の奥に冷やりとしたものを感じた。目の前のひ弱な女性に、鎌首をもたげた毒蛇のようなイメージが重なったのだ。
「ああそう、もうひとつだけ」
ヴェルヴェーナの細い目がオジロスの向こうに向けられた。
「貴女のお名前をお伺いしても?」
そこには、お盆を抱くようにしてたたずむ召使いの少女がいた。
「アポリトマ……」
か細い声で少女は告げた。その瞬間、オジロスは鬼のような形相で少女に迫った。
パン! と乾いた音が響く。
今度ばかりは、ブートンにもヴェルヴェーナにも止められなかった。
「勝手にしゃべるな!」
「……」
頬を抑えながらも、床に這いつくばって謝罪の意を示すする少女。
「そこまでしなくても……」
ブートンがたしなめるが、オジロスはもう彼らの方向を見ようともしなかった
「もう夜だ。帰ってくれ」
「わかりました。アポリトマ様、申し訳ありませんでした」
ヴェルヴェーナは奴隷の少女に向かって丁寧にお辞儀をすると、足取り重くその場を後にした。
◆ ◆ ◆
「ヴェルヴェーナ、大丈夫? 顔色悪いよ」
帰り道、ブートンは尋ねた。
「これ以上、私の顔色が悪くなることがあるのでしょうか?」
「あるんだねぇ。僕もびっくり」
「……胸が苦しいです。心臓は動いていないはずなのに」
ブートンはそれ以上何も言わず、お腹の肉を持ちあげると、そこには道具入れの小箱が並んだツールベルトがあった。彼はその中から干した薬草を取り出すと、粉状になるまで握りつぶし、ハンカチに包んだ。
「このを香りを吸うと落ち着くよ」
「ありがとうございます」
正直、血流が無いヴェルヴェーナにどれほどの効果があるのかは不明だが、病は気からという言葉もある。
「ヴェルヴェーナの生前に何かあったのかな?」
「わかりません。でも、多分何かあったのでしょうね」
無理に思い出す必要はないだろうとブートンは思った。吟遊詩人からの受け売りだが、過去というものは忌まわしいものほど向こうからやって来るものだ。
「次はどうする?」
「ご遺体は自宅にありませんでしたね」
「うーん……。あるとしたら光竜神殿か……でも、軍人の奥さんだから、もしかしたら兵団の方かも……」
「オジロス様の手元にないなら好都合です。彼が手を回す前に調べなければ」
「だったら、今夜中に神殿に確認しに行こう。なければ明日朝いちばんで竜騎兵団の兵舎」
「わかりました。あの、ブートン様、これ、ありがとうございます」
薬草を包んだハンカチを返されて、ブートンは少し困った。できれば洗って返してほしかったのだが……。
◆ ◆ ◆
翌朝、竜騎兵団の兵舎を訪れたヴェルヴェーナとブートンは、空を旋回する竜騎兵たちに圧倒されていた。
「早朝は巡回がてら、思い思いに空を飛んでいる。竜騎兵にとって最も大切なことは、兵士と竜の心がひとつになることだから」
対応に現れたのは、竜騎兵団の副団長ラーヴァだった。整った容姿を特徴とする森人の女性だが、黒褐色の肌や赤い髪は森人には珍しい。片目を隠したショートヘアがよく似合う、その凛々しい顔立ちと颯爽とした振る舞いは、男性よりも女性を惹きつけそうだった。
「……」
現に、ヴェルヴェーナも言葉を忘れて彼女の顔を見つめている。
「今度、一緒に食事でもする?」
「あ、いえッ!?」
この手の視線には慣れているのか、余裕の笑みでからかうラーヴァにヴェルヴェーナは恥ずかしそうに恐縮した。
「前にお会いした時と、髪型が違うなと」
「変なところを気にするね」
まんざらでもない表情でラーヴァは微笑む。
「竜に乗る時は視界が最優先だからね。でも普段はおしゃれ優先」
身だしなみへのこだわりは、女性兵士にとって大切な娯楽なのだという。
「それにしても、皆様はお見事に飛竜を乗りこなしていらっしゃいますね。本来、飛竜は気位が高くて獰猛な性質であると聞いたのですが」
「飛竜を乗りこなすには、2つの方法がある。四六時中一緒に過ごして信頼関係を築くか、暴力を交えて主従関係を叩きこむか」
ヴェルヴェーナの手がそっと胸をおさえる。
「今の兵団はどちらの方針ですか?」
「……さあね。ヘクトール団長は前者だったな」
ラーヴァの口調から察するに、新団長オジロスは後者で、ラーヴァ自身はヘクトール派らしい。
「アンドロマケの遺体だったね。確かにここで預かっている。彼女もかつては竜騎兵団の一員だったからね」
「ああ、それで――」
ヴェルヴェーナは、ラーヴァが遺体を前に「戦場以外の死は屈辱である」と語っていたことを思い出した。
「ご遺体を見せてもらっても?」
「……いい気分はしないが、断る理由がないな」
理由があれば断りたいと言いたげな声色だった。
アンドロマケの遺体は簡素な石棺に納められていた。部屋全体がひんやりとしている。
「……」
「ヴェルヴェーナ?」
「すみません。この部屋は、その、私にとっては……何と言ったらいいか、お昼寝したいくらい居心地が良くて……」
不謹慎で本当にすみません、と恐縮するヴェルヴェーナに、ラーヴァはくすりと笑顔を返した。
「不死人の貴女がそう言ってくれるなら、私たちがあの子にしてあげられる最善は尽くせているということだろう」
「好かれていたのですね。アンドロマケ様は」
「明るい子だった。ヘクトール団長とも相思相愛で。理想のカップルだったのに」
話の途中で、兵士が「報告します」と告げたため、ラーヴァは「失礼」と言って部屋を出た。
その間に、ヴェルヴェーナとブートンは棺に横たわるアンドロマケを観察する。
「申し訳ありません、アンドロマケ様」
遺体に詫びるヴェルヴェーナの横で、ブートンは鈍重そうな外見に似合わず、てきぱきと遺体を検案し始めた。
「頭の後ろに傷がある。硬いものに打ち付けたんだ」
「崖下の岩でしょうか?」
「多分ね。でも――前に湯舟の角に頭を打ってしまった遺体を見たけど、傷痕が似ている気がする」
できればスケッチをして記録を取りたいとブートンはぼやいたが、ラーヴァはいい顔をしないだろう。
「左の頬に擦り傷がある」
よく見ると、アンドロマケの頬には治りかけの傷があった。左の頬骨から顎にかけて3本、皮膚が切り裂かれたような痕がある。
「爪で引っかかれた?」
「だったら、もっと深く抉られているはずだ」
ブートンは言う。3本の傷が爪によるものだとしたら、傷同士の間隔から手の大きさを類推すると相手はかなりの大型獣になる。だが、そんな大型獣の爪撃を受ければ、傷の深さはこんなものでは済まない。また、獣の爪はかぎ爪であり、たとえ掠ったとしても傷痕は皮膚がはがれるような形状になるはずである。
「では、この傷痕の原因は?」
「例えば……砂利のある地面に顔を押し付けられて引きずられたとか、ごつい指輪をはめた手で殴られたとか。あくまで可能性のひとつだけど」
「あまり想像したくないですね」
ブートンはふとヴェルヴェーナを見たが、彼女は落ち着いていた。
「遺体の冒涜は終わったかな?」
ラーヴァの硬質な声が室内に響く。
「申し訳ありません。これも私たちの仕事ですので」
「……わかってる。すまない、言い過ぎた。でも彼女は自殺したんじゃないのかい? これ以上何を調べることが?」
「万が一にも、あらぬ噂が英雄の名誉を傷つけてはいけませんから」
「そういうことにしておこう」
「そちらはアンドロマケ様の遺品ですか?」
棺桶の傍にある粗末なテーブルに、弓と胸当て、そして一本の矢が置いてあった。
「ああ。彼女も優れた竜騎兵だった。棺の中に入れてあげようと思ってね」
「この矢は……」
「矢尻に飛竜の牙を使っているんだ。あの子たちの牙は定期的に生え変わるから助かるよ」
「はぁ、飛竜の牙ですか……」
まじまじと観察する。それは白く艶のある美しい三角形をしていたが、その縁にはノコギリのようなギザギザがついている。
「まさに肉を切り裂くための構造ですね……」
「どうかな。生半可な力では、このギザギザが邪魔をしてうまく刺さらない。逆に、ひとたび肉に食い込めば君の言う通り肌を切り裂き肉に食い込み、そして抜けない。要はいかに竜の咬力に匹敵する力を弓で生み出すかだ」
矢がヴェルヴェーナからブートンの手に渡る。彼はまじまじと矢尻を見つめながら、ぽつりと言った。
「これ、飛竜ごとに特徴的な形があったりする?」
ラーヴァは目を見開いて鬼人の青年を見直した。
「どうしてそう思う?」
「いやぁ、鬼人がそうだから。角の形がね、みんなそれぞれ特徴的なんだ。他の種族の人にはわからないらしいけど」
「ああ、確かに。君の言う通り、竜の牙に微妙に個性がある。まあ、私たち竜騎兵でも牙だけを見てどの竜のものかを当てることはできないだろうが……。せいぜい、自分の相棒の牙かどうかがわかる程度だね」
ラーヴァは矢を受け取ってテーブルの上に戻す。
「あの、ひとつよろしいですか? 先ほどもそうでしたが、どうして矢を少し離して置くのですか?」
ラーヴァは寂しそうにかぶりを振る。
「この矢は彼女が死ぬときに抱きしめていたんだ。何か特別な意味があるのかもしれないと思って、他の遺品とは少し分けている」
「特別な意味とは?」
「わからない。何か思い出があるのかも。ヘクトール団長との」
「アンドロマケ様は弓兵だった。もしかして、前はヘクトール様と組んでいたとか?」
「その通り。でも、恋人同士はバディを組めないのが竜騎兵団の決まりだ」
「それはどうして?」
「竜が嫉妬する」
その時、外から「何をだらけている! 整列しろ!」と怒声が聞こえてきた。
ラーヴァは軽くため息をついてまた部屋を出て行った。
「僕たちも出よう。もう調べることはなさそうだ」
外では、整列する竜騎兵たちを前にオジロスががなり立てていた。
「まったく。少し目を離したらすぐにだらけおって。ラーヴァ、お前がいながら何てザマだ!」
「はい。申し訳ありません。でもいいんですか? まだ喪は明けていないんじゃ?」
「外敵が俺の事情を考えてくれるのか?」
彼女は一礼したが、その目には明らかに反抗的な光が湛えられていた。お説教を続けるオジロスは気付いていない。
やがて、竜騎兵団は再び竜にまたがると、美しい隊列を組んで飛翔し始めた。ラーヴァは足早にやって来て、
「すまない。訓練が始まる。お引取り願おうか」
それだけ告げて自分の竜に向かおうとした。そんなラーヴァの背中を、ヴェルヴェーナは慌てて呼び止めた。
「あの! ひとつだけ!」
「極手短に」
「崖から落ちる人を、水面すれすれで飛竜が受け止めることは可能でしょうか?」
ラーヴァの足が止まった。
「どういう意味だい?」
「深い意味はありません。飛竜の能力に興味があるだけです」
「要は、飛竜の背中に乗らずに連携できるかということか。……可能だね」
だが、すぐに付け加える。
「でも今は不可能だ」
「どういう意味ですか?」
彼女は空を舞う飛竜たちを見つめながらつぶやくように言った。
「それができた者は2人とも死んだから」
◆ ◆ ◆
少女の小さな体の、どこにそんな力があるのだろうか。彼女は雑穀がパンパンに詰まった自分の体よりも大きい袋を抱え、てくてくと歩いていた。
「アポリトマ様」
ヴェルヴェーナが声をかけると、少女は振り向いた。
(傷?)
少女の左の頬に刻まれた、新しい擦り傷。
(あ、まずい)
ヴェルヴェーナの動いていないはずの心臓が締め上げられる。彼女の肩にぽっちゃりとした手が添えられた。
「代わるよ」
ブートンが前に出て、巨体をかがめて少女と目線を合わせた。――もっとも、彼の短い脚を屈めたところで身長差はいかんともしがたかったが。
「やあ。僕はブートン。君とお話がしたいんだ」
「……」
少女は何も言わず、またてくてくと歩き始める。とりたてて速足になるわけでもないその足取りに拒絶の意思はないと判断し、ブートンは彼女と並んで質問を始めた。
「アンドロマケさんが亡くなった日のこと、覚えてる?」
アポリトマはちらりとブートンを見たが、すぐに目を伏せてフルフルと首を横に振った。
その後も色々と話しかけるも、少女は首を振り続けるのみだった。やがて少女はオジロスの自宅に到着すると、裏に回った。
「ドラゴン小屋か」
「オジロス様はご自宅でドラゴンを飼っていらしたのですね」
そこにはいたのは2頭の飛竜だった。一方は祭典の場でも見た緑青色の鱗をしており、もう一方は熟成された葡萄酒のような暗い赤色をしている。
2頭は人の気配に気づいたのか、目をむいてびっしりと牙の並んだ大口を広げ、「ギュアアアア!」と金属がこすれるような咆哮をあげた。そんな荒ぶる2頭のもとへ、アポリトマは穀物の大袋を抱えたまま無造作に近づいていく。
「あ、危ないよ!」
ブートンが声をかけ、ヴェルヴェーナも思わず(対して意味もなく)手を差し出す。だが、2人の心配をよそに2頭のドラゴンはアポリトマに向かって鼻をスンスンと鳴らし、目を細めて顔を摺り寄せ始めた。
「ご飯だよ」
アポリトマは飛竜たちにささやきかけると、餌箱に穀物を流し込む。だが、ドラゴンたちはそんなことよりアポリトマに甘えたくて仕方がないようで、鼻先からピスピスと音を出しながら頬ずりを続ける。
少女は慣れた様子で餌の袋を置くと、竜たちを撫でてあやし始めた。
「すんごい懐いてますね……」
「うん。ドラゴンってあんな顔するんだ……」
彼らの前で、竜たちは競うように少女の頬を舐めている。
「ねえ、あれ――」
ブートンが気付いた。ヴェルヴェーナも頷く。
「アポリトマ様の左の頬に擦り傷がありますね」
竜騎兵団の兵舎に安置されていたアンドロマケの遺体にも同じ傷があった。頬骨から顎にかけて、広い範囲の擦り傷だ。
「オジロスは右利きだ。彼が平手打ちをすれば、相手の左頬に傷ができる」
「そうですね……」
ヴェルヴェーナは、指先を顎にあてて考え込む。ブートンの鼻が、かすかな腐臭を嗅ぎ取った。
◆ ◆ ◆
「首尾はどうだ?」
クローコスの問いに、ヴェルヴェーナは沈黙で返答した。
「色々と手がかりは揃っているみたいなんですが、まだ考えがまとまってないみたいです」
沈黙に耐えかねたブートンが代わりに答える。実際、ヴェルヴェーナはこの終身執政官の言葉を無視したわけではなく、考え事に没頭していて彼の言葉が聞こえていなかっただけである。
「ほーい、メリッサとポディ、聞き込みの報告を――って臭ッ!? 来るなポディ! テメェの鼻では耐えられ――」
「メリッサ!? どうしたの――ギャオオンッ!?」
「だから言ったんだバカヤロウ!」
「あ、お帰りなさ――ポディさん!? どうしました!?」
ここまでの騒ぎでようやくヴェルヴェーナは思考の沼から這い出てきた。そして床にぶっ倒れているポディに気付き、済まなそうに自分の体を抱くようにその長身を縮こませる。
「すみません。またやってしまいました」
「大丈夫……、俺、紳士だから……」
「何言ってんだお前?」
部屋の隅で、小動物のような仕草で干し肉をポリポリと齧るヴェルヴェーナを横目に、メリッサは報告を始めた。
「アポリトマの行動について聞き込んできた。時間帯は和平の式典から、被害者らしき女の飛び降り騒ぎまでの間だ」
メリッサの目線に、ヴェルヴェーナは頷く。
「アポリトマの姿は市場のあちこちで目撃されている。あの子はいくつかの店の常連で、割と有名だったよ」
「有名?」
「よく、アンドロマケと2人で買い物をしていたらしい。主従っていうより、まるで母娘みたいだってな」
「……それにしては、今の彼女は淡々としてるよね」
ブートンのつぶやきをヴェルヴェーナはあえて聞き流した。今はまだ個人の感想を聞く時ではない。ブートンもそれに気付いたのか、指先で豚鼻を書きながら押し黙る。
「おつかいでアポリトマ1人で市場を回ることも珍しくなかったそうだ。その日も1人で、小麦と葡萄酒、それと食材をいくつか買っている。多分、晩飯だろうな。ニンニク、玉ねぎ、うなぎってとこだ」
「うなぎ?」
「カルキノスじゃあ割とよく食うぞ? それにあの日はペレキスとの宴があったから、肉がそっちに行って、市場には出回っていなかったんだ」
「なるほど。実際に購入した順番もその通りですか?」
「いや。実際は、あー……」
聞き込みをしていたメリッサに代わって、少女の臭いを追跡していたポディが報告を引き継ぐ。
「あの日は多くの人が行き来していたから、あまり正確じゃないんだけど……」
「お願いします」
「あの子はまず、オジロスの家を出て、まずは大通り沿いのお店を北門から南へ向かって一通り見て回っている。それから裏路地の店をのぞきつつ北上して北門に戻り、また時おり裏路地に入りつつ大通りを南下、市場の端に着いたら今度はまっすぐにオジロスの家に帰宅している」
「その後、アポリトマ様がオジロス様の家を出た形跡は?」
「わからない。少なくとも物見の塔に向かった形跡は無かった」
「物見の塔ではアポリトマ様の臭いはありましたか?」
「ごめん」
ポディは悔しそうに喉の奥でうなった。
「あそこは飛竜の臭いがきつくて……」
「そうですか。でも、大変参考になります。ありがとう。メリッサ様も」
ヴェルヴェーナにその意図はなかったが、取ってつけたような謝辞にメリッサはふんと鼻を鳴らして明後日の方向を向いた。
「さて、では最後にクローコス様、ご報告を」
「え? ボス?」
メリッサたちの視線を浴びながらも、クローコスは眉ひとつ動かさず、机に1枚の書面を置いた。
「アンドロマケの遺言だ。職業兵士は家庭を持つと、早い段階で遺言を作ることが多い」
「アンドロマケ様が多数派の方でよかったです」
「内容は単純だ。死後、夫婦の共有財産はオジロスへ。彼女個人の財産は召使いのアポリトマへ」
「待った。アポリトマの身分は奴隷だろ? 奴隷に財産の相続権はあるのか?」
「その点も抜かりない。アンドロマケの市民権はアポリトマに貸与されるとある。つまり、アンドロマケが死んだ時点でアポリトマは奴隷ではなく、カルキノスの準市民ということだ」
カルキノスの市民には兵役の義務がある。兵役の名簿に登録しなかった者、何らかの理由で登録を認められなかった者は市民権を喪失するのだ。
「兵役の名簿登録は毎年の春祭後に行われる。つまりアポリトマは次の春祭までの仮の市民というわけだ」
「ありがとうございます、クローコス様」
再び思考を始めようとするヴェルヴェーナを、クローコスは呼び止めた。
「ヴェルヴェーナ。相手は多大な功績を上げた英雄だ。我々があちこち嗅ぎまわっている状況は人心を惑わす」
「ご安心を」
ヴェルヴェーナは微笑んだ。
「英雄の要塞を攻め落とす材料は揃いました。後は組み立てるだけですから」




