エピソード2「少女の沈黙・後編」
都市国家カルキノスに限らず、この時代の人々はある意味で非常に理性的だった。それは、数千年後まで遺されている叙事詩や英雄譚から察せられる。
当時、吟遊詩人によって語り継がれていたとされるこれらの物語では、数多の英雄たちが登場する。だが、彼らを一方的に褒めそやす内容のものは驚くほど少ない。
人々は英雄たちが困難に打ち勝ち、偉業を成し遂げる物語を好んだが、それと同じくらい失敗談や笑える小話も好んだ。それは彼らの英雄のことならなんでも知りたいと思うミーハーな好奇心だったのか、それともいわゆるギャップ萌えの類だったのかは定かではないが、ともかく『盲目的な信者』と言われるような熱狂とはほど遠い人々が大半であったことは想像に難くない。
この日、突如告知された民衆裁判に人々は驚愕した。なにしろ、罪状は殺人、被告人はつい先日まで救国の英雄と讃えられていた竜騎兵団長オジロスであったのだ。
裁判が開かれるカルキノスの中央広場を訪れた1000人の投票者と、それ以上の数の聴衆達は早くも熱い議論と言う名の噂話で盛り上がっていたが、「英雄オジロスを罪人扱いするとは何事だ」と怒る者の数は以外と少数であった。
人々はそれ以前に「英雄オジロスが何をしたのか?」「妻アンドロマケの自殺の真相は?」といった、まずは真実を知りたいという欲求と好奇心を燃え上がらせていた。
「……」
都市国家カルキノスの中央役所の役割を果たす時計塔の一室で、ヴェルヴェーナは体を固くして座っていた。
「大丈夫か?」
メリッサの言葉に、ヴェルヴェーナはカチコチに固まった微笑みを返す。
「ボスの前では自信満々に言ってたけど、あんたの理論は相当な綱渡りだぞ?」
「はい……。わかっています。ああ、何であんなこと言っちゃったんだろう?」
「『英雄の要塞を攻め落とす材料は揃いました』ってやつか?」
「言わないで……。思い出すだけで恥ずかしい……」
表では、終身執政官クローコスが民衆裁判の開催を宣言している。さらにオジロスの「この俺に何という仕打ち! 許さんぞ!」というだみ声も聞こえてくる。
「ま、石を投げられた時はせめて隣にいてやんよ。行こうぜ」
「はい」
ヴェルヴェーナは立ち上がり、大きく深呼吸をした。
「葡萄酒、一杯だけ飲んでもいいですか?」
「いいワケねぇだろ」
◆ ◆ ◆
「当方の主張を述べます。当方は竜騎兵団長オジロスを殺人の被疑者として告発いたします」
ヴェルヴェーナの声は相変わらず静かだが、よく通った。
「竜騎兵団長オジロス様は、おそらく自宅にて妻アンドロマケ様を口論の末死に至らしめました。時間はペレキスとの和平式典から親睦の宴までの間です。オジロス様は妻の死亡時刻を工作。ご自分が宴に出席している時点では妻が生きており、大勢の人々の前で投身自殺をしたように見せかけることで身の潔白を証明しようと画策しました」
「でっちあげだ! 証拠はあるのか!? 証拠を出せ証拠を!」
すかさずオジロスが叫んだ。
「証拠は、ある市民の証言です」
「だったらそいつを連れて来い! 今すぐにだ!」
「その前に、当方はその証人について説明をする必要があります」
「回りくどいことをするな! さっさと証言させろ!」
「オジロス殿!」
クローコスの声が場を制した。
「夜巡り隊の主張は終わっていない。後ほど貴殿にも反論の場を設けるゆえ、今はお静かに」
オジロスは歯ぎしりをしながら押し黙った。終身執政官の言葉に屈したわけではなく、民衆の目に嘲笑の色合いを感じたからである。
(恩知らずどもめ)
「ヴェルヴェーナ。証人について説明を」
「はい。証人の名前はアポリトマ。アンドロマケ様の召使いをしていた少女です」
民衆にざわめきが広がった。
「召使いってことは、奴隷か?」
「冗談じゃない! 奴隷が市民の、しかも英雄の罪を証言するのか!?」
加熱しかかる民衆を、ヴェルヴェーナは優雅に手をかざして抑え込む。
(調子が出てきたな)
傍らにいるメリッサは思った。聖女の時と同じだ。次第に芝居がかっていくヴェルヴェーナの体に、何かが乗り移りつつあるような、底知れない雰囲気を感じる。
「説明いたします。ここに、時計塔に提出されておりますアンドロマケ様の遺言があります」
「何だと!?」
オジロスは思わず声を上げた。夫である自分は知らなかったことだ。ヴェルヴェーナは淡々と続ける。
「ここには、アンドロマケ様の市民権について記載があります。『自身が死亡せし時点より、市民権は自身が所有する奴隷であるアポリトマに貸与されるべし』と。つまり、アンドロマケ様が亡くなった時点よりアポリトマ様はカルキノスの準市民。次の徴兵名簿に署名するまで、彼女は市民としての身分を保証されています」
オジロスはあやうく「バカな!」と叫びかける自分を御した。妻の行動に無知すぎる夫の姿は、カルキノスでは受けが悪い。
民衆の間にはすでに「準市民なら問題ないな」という空気が広がっていた。だが一方で「さっきまで奴隷だった者に市民の責任を果たせるのか?」と言う声も聞こえてきた。
「ヴェルヴェーナ」
市民の声を代弁するようにクローコスが口を開いた。
「書面の上では、確かにアポリトマは準市民である。だが、市民であるからにはそれなりの資格を要する。一つは兵役の義務を果たすことだが、それは先ほど述べたとおり保留を認める。しかし、これは暗黙の了解だが、最低限の教育を受けている者でなければ彼女を証言席に呼ぶことはできない。この場で証言をするということは、別の市民の人生に多大な影響を及ぼすということ。その力量が、その重い責任を負う資格が、アポリトマにはあるのか?」
「はい」
ヴェルヴェーナは迷わずに答えた。
「多くの市民の証言により、アンドロマケ様とアポリトマ様は2人でよく市場を巡っていることがわかっています。また、アポリトマ様の事件当日の行動の中に、おつかいと思われる買い物の様子がこれも店の者たちの証言により明らかになっています」
どこからか「おつかいだったらガキでもできるぞ!」と声が飛ぶ。ヴェルヴェーナは微笑みながら大げさにうなずいた。
「あの日はペレキスとの和平式典とその後の宴のため、市場は少なからず混乱の中にありました。また、その数日前よりペレキスから大量の穀物と葡萄酒が納められ、市場にも出回っています。アポリトマ様は当日、1人で市場を巡り買い物をしています。よろしいですか。彼女はたった1人で商品価格が乱高下している市場で予算内で買い物を済ませているのです。これは彼女が少なくとも文字を読み、店の者と会話をし、計算ができ、自力で適切な判断を下せることを意味します。このことはアンドロマケ様が日ごろから彼女に市民として生きるための教育を施していた証明と言えるのではないでしょうか」
一瞬の静寂。それは、民衆が少女を1人の市民として認めたことを意味していた。
「準市民アポリトマを証言席へ」
クローコスの命により、ブートンに付き添われて小柄な少女がおずおず現れた。途中、オジロスをちらりと見、すくんだように足を止める。
「大丈夫だよ」
ブートンに促され、アポリトマは証言席にちょこんと座った。
「証人についての説明を続けます。まずは当方の推論を述べます。現在のところ根拠はありません。しかし最後まで聞いていただければ彼女の証言の重要性がご理解いただけるかと存じます」
あらかじめオジロスの反論を制しつつ、ヴェルヴェーナは歌うように話し始める。
「ここにいる皆さまの中にもご覧になった方はいるでしょう。私もその1人です。ペレキスの弓の女王との余興の最中に事件は発覚しました。物見の塔に現れたローブ姿の人物。その人物は大勢の人々の目前で投身自殺を図りました。真っ先に現場に駆け付けたのは飛竜を駆る竜騎兵団。指揮をしていたのは副団長ラーヴァ様。続いて我々夜巡り隊が現場に到着。湖中より引き上げられた遺体をアンドロマケ様と確認いたしました」
民衆は静まり返ってヴェルヴェーナの言葉に聞き入る。オジロスは憮然と腕組みをしていた。彼にとってはわかり切っている話だ。若干の失敗の記憶と共に。
「ならばこう考えられるでしょう。物見の塔から飛び降りた人影と落下地点で見つかった遺体は同じ人物。しかし、すでに述べたように当方の主張は違います。アンドロマケ様は宴の前にはすでに亡くなっていた。ならば、物見の塔の上にいた人影は別人でなければなりません。つまりは替え玉です」
民衆が再びざわめき出す。「替え玉とは誰だ? あの召使いか?」「だが確かに飛び降りたところを見たぞ?」。
オジロスはこっそりと鼻を鳴らした。一体自分はいつまで黙っていなければならないのだろう?
「仕掛けは単純です。遺体はあらかじめ湖の中に運び込まれていました。替え玉の正体は皆様が言われた通り、アポリトマ様です。彼女はローブをまとい、底の高い靴を履いて身長をごまかし、アンドロマケ様になりすまして物見の塔に上りました。そして人々の目線が集まったのを確認し、飛び降りました」
民衆の中から「飛び降りたら死んじまうじゃねぇか!」とヤジが飛んだ。ヴェルヴェーナはそんなヤジは当然予期していたとばかりに頷く。
「彼女は元竜騎兵アンドロマケ様の召使いであり、竜騎兵団長オジロス様の飛竜の世話も行っています。彼女は飛竜に乗ることができるのです。彼女は塔から飛び降ります。同時に崖下に待機していた飛竜が飛翔し、彼女が水面に落ちる前に拾い上げたのです」
オジロスは一瞬迷った。自分がどう振る舞うべきかを考えた後、大音声を張り上げた。
「そんなバカな! 貴様は竜騎兵団を愚弄するか! 飛竜に乗れるようになるまでにどれほどの鍛錬を積まねばならないか、それを知らないからそんなたわ言を言えるのだ! たかが飛竜の世話をしただけの召使いに、そんな高度な芸当ができるはずがあるまい!」
ヴェルヴェーナの細い目がオジロスを見た。まるで剃刀で斬られたかのような感覚がオジロスを襲った。
「皆様、お分かりいただけたでしょう。この事件はすべて、アポリトマ様の証言にかかっているのです。当方が彼女に求める証言は次の2つです。「貴女はアンドロマケ様の身代わりとなって物見の塔から飛び降りましたか?」そして「貴女は飛竜を乗りこなすことができますか?」」
数千の目線が小さな少女の体に集中した。その中にはオジロスの烈火のようなまなざしも含まれていた。
「……」
少女は目をぎゅっとつむり、口をきゅっと結んで押し黙った。彼女の全身から「何も言うまい」という意志がありありと感じ取れた。
(やべぇぞヴェルヴェーナ)
メリッサは内心の動揺を何とか押し隠す。少女の沈黙を破ることができるのか。それが今回の民衆裁判の最大の賭けだった。
(そうだ。それでいい)
一方で、オジロスは内心の安堵の笑いを押し隠していた。アポリトマがしゃべらなければ、あの不死人は何ひとつ立証することはできないのだ。そして、アポリトマが真実を喋ることは決してない。
「アポリトマ様」
ヴェルヴェーナは少女に向かって諭すような口調で話しかけた。
「貴女は今、1人の市民としてここに居ます。貴女は自由です。だから、話したくないのなら話さなくていい」
「え?」
声を上げたのはアポリトマではなく、傍で聞いていたメリッサだった。
「ちょ、おい、ヴェルヴェーナ?」
ヴェルヴェーナは構わずに続ける。
「貴女がアンドロマケ様から市場で学んだことと同じです。今、貴女がするべきことは、ご自分の目で見て、ご自分の耳で聞いて、ご自分で考える。それだけです」
少女の小さな手がぎゅっと握りしめられる。その姿はまるで、嵐が過ぎ去るのをじっと耐えているかのようだった。
「クローコス様、私からひとつお願いがございます」
「何か?」
「先ほど、オジロス様よりご指摘がありました通り、私たちは竜騎兵団について存じ上げないことが数多くあります。我々の推論を証明するには飛竜の存在が重要である以上、竜騎兵団の方のお話を聞くことも必要であるかと存じます」
「言い分はわかった。具体的な要求を聞こう」
「はい。ここに参考人として、竜騎兵団の副団長、ラーヴァ様をお呼びしたいと思います」
「オジロス殿はよろしいか?」
オジロスは頷かざるを得なかった。いやらしい女だ。ついさっき、竜騎兵団への無知を追求したのはオジロス自身である。ここで拒否をすれば言動の不一致を印象付けられてしまうのは明白だった。
◆ ◆ ◆
「えっと、聞いていないんだけど……」
一部の主に女性たちからの黄色い歓声を浴びながら、竜騎兵団の副団長ラーヴァは困惑の表情で証言席に立っていた。
「まず、これは裁判の証言ではありません。あくまで竜騎兵団や飛竜についてお伺いしたいだけです。世間話だと思ってお話しください」
「それは無理でしょ」
ですよねぇ、と微笑みながらも、ヴェルヴェーナの細い目はラーヴァをとらえて離さなかった。
「で、何を話せばいいのかな?」
「そうですね。オジロス様のご自宅には2頭の飛竜がいらっしゃいますね。ご存知ですか?」
「もちろん」
「綺麗な緑青色のドラゴンと、お強そうな葡萄酒色のドラゴン。オジロス様がお乗りになるのは青緑色の方ですね?」
「そうだ」
「では葡萄酒色の方がアンドロマケ様の?」
「その通り」
「やはり、竜騎兵団長ご夫妻の愛竜ともなれば、飛竜の中でも優秀なのでしょうね」
「優秀なんてものじゃないさ!」
にわかにラーヴァの言葉が熱を帯びた。
「今まで、獰猛な害獣扱いされていた飛竜の常識を覆したのがあの子なんだ! 歴史に残したっていいくらいさ!」
「……今、『あの子』とおっしゃいましたか? 『あの子たち』ではなく?」
「え……あ、それは……」
「前に、人が飛竜を乗りこなすには2つの方法があるとお伺いしました。1つは飛竜と信頼関係を結ぶ――要は友情をはぐくむこと。もう1つは飛竜と主従関係を結ぶ――つまりは飛竜を厳しく躾けること」
アポリトマの小さな肩がぴくりと震えた。
「先代の団長、ヘクトール様は友情派、現団長のオジロス様は躾派だそうですが、アンドロマケ様はいかがでしょうか?」
「……友情派」
ラーヴァは慎重に言葉を選ぶ。世間話だなんてとんでもない。むしろこちらが裁判の本筋だ。
「そもそもの話ですが、飛竜たちはどのような経緯で竜騎兵団に? 野生の飛竜を捕まえるのですか?」
「いいや。卵から育てる」
ヴェルヴェーナはかすかに微笑んだ。我が意を得たり、とでも言いたげな底知れない余裕の笑み。
(彼女は誰だ?)
不意に、ラーヴァの心に不安がよぎった。ヴェルヴェーナのことを深く知っているわけではない。兵団の宿舎でいちど話したきりだ。だが、あの時の彼女とは何かが違う。戦場に立つとスイッチが入ったように性格が変わる兵士は多い。ヴェルヴェーナにとって、この民衆裁判の場が戦場ということなのだろうか?
「つまり、今オジロス様のご自宅には異なる生い立ちの飛竜がいるということです」
――来る。ラーヴァの兵士の勘が告げる。
「もし、オジロス様の身に、万が一ですよ? 何かがあった時、あの緑青色のドラゴンはどなたの元へ?」
「それは……」
殺すしかない。飛竜は大喰らいだ。1人の竜騎兵は1頭の飛竜を飼うだけで精いっぱい。竜騎兵団も潤沢な予算があるわけではない。そもそも、カルキノス自体が裕福な都市国家ではない。
殺すしかないのだ。先代の団長、ヘクトールの愛竜のように――
オジロスの刺すような視線を感じる。「言え」と。穀潰しとなった飛竜に居場所はないと。
意を決したラーヴァが口を開いたその時だった。
「そう言えば」
ヴェルヴェーナが狙いすました矢のようなタイミングで口をはさんだ。
「ラーヴァ様は、前髪で片目を隠していらっしゃいますね」
「え?」
「竜に乗る時は視界を優先して前髪は上げる。でも、普段はおしゃれを優先して髪を下ろすと」
ラーヴァの目がちらりとオジロスの仏頂面をかすめる。
「すみませんが、前髪をかき上げていただけますか?」
「……」
もう、ヴェルヴェーナを意図を読むことは諦めた。彼女はすでに何もかもわかっている。
「目元に痕がありますね。ほとんど治っていますが、こうして間近で見ればわかる」
「……誉れ傷だよ」
「でしょうね。でもそれは、戦場でできたものではない。貴女の飛竜につけられた痕では?」
「その通り」
「アンドロマケ様の頬にも似たような痕がありました。はじめはてっきり、オジロス様につけられたものだと思ってしまいました。でも、実際は飛竜に、あの葡萄酒色のドラゴンによるものだった」
「……」
「貴女はご自分の痕を誉れ傷だとおっしゃいました。アンドロマケ様は飛竜との友情と信頼を重んじた方。おそらく貴女もそうでしょう。つまりその痕は、飛竜との信頼の証。甘えっ子な飛竜に頬ずりをされてできたものですね?」
「貴女の言う通りだ」
ラーヴァはささやかな嘘をついていた。彼女が前髪で痕を隠していたのは、見栄えのためではない。竜騎兵団長オジロスの顔に、その竜騎兵にとっての誉れ傷が無いからである。それはオジロスへの気遣いであったことはもちろんだが、それ以上に――
「その痕はほとんど治っている。アンドロマケ様のお顔もそうでした。これは推測ですが、賢い飛竜は自分の頬ずりが愛する者を傷つけてしまうことを学び、その後は別の甘え方をする。いかがでしょう?」
「私は飛竜じゃないから確かなことは言えないが、多分そうなんだろうな」
「ご存知ですか? アポリトマ様にも、その誉れ傷があることを?」
「え?」
ヴェルヴェーナはくすりと笑う。
「貴女は私よりもさらに背が高いから。小柄なアポリトマ様のお顔は見えにくいのでしょう。ここで重要なのは、アポリトマ様の頬に傷をつけたのはどちらの竜なのか?」
「……」
「整理しましょう。飛竜は信頼をおいた相手に甘えて頬ずりをする。しかし、彼らの硬い鱗は愛する相手を傷つけてしまう。そのことに気付いた彼らは、二度と同じ甘え方はしない。葡萄酒色の飛竜はすでにアンドロマケ様の顔に傷をつけてしまっています。つまり、アポリトマ様の頬に傷をつけたのは緑青色の飛竜ということになります」
「あの子が……人に甘えた……?」
ラーヴァはたまらず少女に駆け寄った。しゃがんで少女の顔を見る。
「ああ、こんなに……。アポリトマ、触れてもいいかい?」
少女は目を伏せ、かすかに頷く。指先から伝わる少女と竜の絆。長年飛竜と接してきたラーヴァだからこそわかる。
「もうお分かりでしょう。アポリトマ様はなぜ沈黙しなければならないのか? あらためてお聞きします、竜騎兵団副団長ラーヴァ様。もし、オジロス様が飛竜を手放さざるを得なくなったとき、緑青色の飛竜の処遇は?」
「……――ない」
「やはり、殺処分を――」
「できない! もう二度とやってたまるか! 私だって辛かった! ヘクトール団長の竜を殺すのは! 生まれて初めて竜騎兵になったことを後悔したくらいに!」
ラーヴァはアポリトマの足元に崩れ落ちた。
「すまないアポリトマ……。今の私には、あの子を絶対に殺さないという確約はできない……。でも、でも私は全力を尽くす! あの子を守るために! だから――」
「おい!」
オジロスが叫ぶ。
「勝手なことを言うな! 俺は無実だ! アンドロマケは自殺だ! それで飛竜も無事だ! わかっているなアポリトマ!」
その怒号を最後に、広場は沈黙に包まれた。アポリトマは全身を石のように固くするだけだった。小さな少女の体を中心にその頑なな精神が伝播し、数千人の民衆が石化したように動かない。
キューン……
沈黙を破ったのは、どこか遠くから聞こえる甲高い音だった。
だが、その瞬間、アポリトマの石化が解けた。
「帰る……」
少女がぽつりと漏らした。
「帰らなきゃ。あの子が呼んでる……」
熱に浮かされたように歩き出す少女を、ブートンの太鼓腹がぷよんと止めた。
「帰して! おうちに帰して!」
ぽっちゃりした手が、じたばたと暴れる少女を抱き上げる。
「放して! あの子が呼んでるの! 壊れちゃう! あの子が壊れちゃう! あの子は! ずっと打たれて! 自分のことが大嫌いで! 抱きしめてあげなきゃ! 早く! あの子が壊れちゃうよ!」
「うん。そうだね。このままでは、君も壊れちゃう」
ブートンは地面にどしんと腰を下ろすと、片手で少女を抱き寄せ、もう一方の手で腰の道具ベルトから香草を取り出した。
「いい匂いだろ? 心が落ち着くよ。今の君を見たら、あの子も不安になっちゃうんじゃないかな?」
アポリトマは力なく首を振る。どうしようもないのだと、これしかないのだと訴えるように。
「心の荷物を1つだけ降ろそう。君は今、色んなものに押し潰されちゃってる」
オジロスのだみ声がどこか遠く聞こえる。「茶番はもうたくさんだ!」「証言を放棄しているのだから退出させろ!」そんな言葉がぼんやりと聞こえている。
代わりに、アポリトマに聞こえてくるのは――
――重いでしょ? そんなに抱え込まなくていいのよ?
「ご主人様……?」
2人で市場を歩いた思い出。アンドロマケの役に立ちたくて、抱えきれないほどの荷物を持とうとふらふらになったアポリトマの頭をなでる優しい手。ふわっと軽くなる荷物。
――兵士はいつ死ぬかわからない。アポリトマも市民になったら、1人で歩かなきゃならなくなる時が来る。
「やだ……ご主人様……」
――不安になった時は、不安を荷物だと思わないこと。いっそ不安を愉しんじゃえ。あなたの側にいなくても、私はずっと……
「おかあしゃま……お母さま……ッ! んぐっ! ふぎゅうッ! お、お母さまッ!」
「あなたたちは、2人きりの時は本当に母娘として過ごしていたのですね」
「んぐぅぅッ! うぅッ! アァッ! ギュアアアアーッ!!」
それはまるで、ドラゴンの咆哮のようだった。
キュォーン……
呼応するように、彼方から遠吠えが聞こえてくる。
「お、おい、アポリトマ、まさかお前――」
「ッ!」
オジロスに向けられるアポリトマの瞳。それは、母のように慕った女性を殺害し、弟のように愛する飛竜を人質に罪の隠ぺいを強いた、憎むべき仇を見つめる竜の瞳だった。
◆ ◆ ◆
少女はすべてを話すと、自分を呼ぶ竜の元へ走り去った。もはや、オジロスには一瞥すらくれなかった。少女にとってオジロスは、主でもなんでもないどころか、婚約者を亡くした喪失感に苛まれるアンドロマケーの心に隙間に入り込んだ侵略者であり、身勝手な理屈で飛竜の子を虐待するならず者でしかなかったのだ。
「嘘だ……。全部嘘だ……」
アポリトマにすべてを証言されてなお、オジロスは抗っていた。
「証拠は、あいつの証言だけだ! 信用できん! だいたい、俺には妻を殺す理由はない! そうだ、妻を殺したのはアポリトマだ! あいつが全部やったんだ! 俺は何も知らない!」
場の空気はすでに白け始めていた。アンドロマケを殺す理由で言えば、アポリトマにこそ理由は無かった。2人が主と召使いを超えた関係にあることは市場の者たちの話から自明であった。
「遺産だ! あいつはアンドロマケの遺産と市民権が欲しかったんだ!」
「たとえ市民権を得たとしても、次の春祭で兵員名簿に署名しなければ身分ははく奪されます。殺人を計画できる頭脳があるのなら、未熟な体で戦場に駆り出されるリスクも考慮するのでは?」
「奴は竜に乗れる! そうさ、お前たちが証明したんだ! 奴は俺より巧く竜に乗れるってな!」
土俵際で、オジロスは踏ん張った。
英雄としての威厳が地に落ちた今、彼を支えているのは意地であった。ついさっきまで召使いだった少女に足元をすくわれて負けるわけにはいかない。
「確かに」
クローコスは眉間のしわを深くしながら言葉を発した。
「アンドロマケの死に対し、オジロスを明確な殺人犯とするには少女の証言だけでは足りない。ヴェルヴェーナ、いかがか?」
「おっしゃる通りです」
ヴェルヴェーナは意外と素直に頭を下げた。
「何?」
かえってオジロスの方が拍子抜けをした。
「この段階で、アンドロマケ様の死の真相を証明することはできないでしょう」
「わかっているのかヴェルヴェーナ? ひとつの事件に対し民衆裁判は一度きり。閉廷すれば二度と本件でオジロスをこの場に立たせることはできない」
「やむを得ません」
「え?」
オジロスは戸惑った。それまでの劣勢が嘘のように反転したのだ。
(苦し紛れでも、あがいてみるものだ)
おそらく、アポリトマが証言をすればオジロスは観念すると、ヴェルヴェーナは高を括っていたのだろう。オジロスはヴェルヴェーナをねめつける。甘い。ほっそりとしているが筋肉の少ない身体はやはり生きるか死ぬかの戦場を知らないのだ。
「ははははは! 残念だったな! どいつもこいつも覚えていろ! アポリトマ! ラーヴァ! タダでは済まさんからな!」
そしてオジロスの血走った目が再びヴェルヴェーナに向かう。
「何よりも許せないのはお前だ! 不死人の女! 徒にこの俺の名誉を汚しおって! この場で詫びてもらおうか!」
民衆の一部からも「そうだ! 英雄オジロスに詫びろ!」と怒号が飛んだ。これまで固唾をのんで見守って来た民衆裁判の結末が期待外れだったことへの苛立ちもあるのだろう。
「……」
ヴェルヴェーナはかぶっていたつば広の帽子を取り、深々と頭を下げた。
「申し訳ございませんでした、オジロス様。本筋からそれたお話で、貴方様の名誉を無駄に貶めてしまいました」
「そんな詫びでは到底足りないな。地べたに座れ。手をついて頭をこすりつけて――」
ふと、違和感がオジロスをとらえた。今、この女は何と言った?
「皆様にもお詫び申し上げます。しかしどうかご理解ください。ここまで長い時間をかけて行われたのは、証人の発言がいかに信憑性があるかを皆様にご理解いただくための証明なのです」
ヴェルヴェーナは長い両腕を広げ、暮れなずむ天を仰ぐ。沈みゆく光竜フランベネクスを背にした彼女は、ショーの第2幕が開けたことを高らかに宣言する。
「今より、当方は竜騎兵団長オジロスを殺人の容疑で告発いたします。被害者の名は、前竜騎兵団長ヘクトール!」
「何!?」
「当方の主張を述べます! 先のペレキスとの戦において、ヘクトールは婚約者となったアンドロマケに代わりオジロスを相方として戦場に赴きました。そこでヘクトールはペレキスの斧の女王と交戦、彼女を討ち取ることに成功いたしました!」
民衆がざわめき始める。それどころか、広場の壇上に並ぶ執政官たち、記録の役人、そして終身執政官クローコスさえも動揺を隠せないでいた。
「その際、オジロスはヘクトールを弓で射殺。あたかも自身が女王を討ち取ったかのように、黒金剛の斧を持ち帰ったのです!」
「嘘だ!」
民衆のざわめきは、大きなうねりを発していた。
「でっちあげだ! 証拠はあるのか!? 証拠を出せ証拠を!」
「証拠は、アンドロマケの遺体が抱いていた矢となります!」
ポディが広場に粗末なテーブルを運び込んだ。それは竜騎兵団の宿舎から持ってきたものであり、上には弓と胸当て、そして一本の矢が置いてあった。
「竜騎兵団副団長ラーヴァに問います! この矢は湖で引き上げられたアンドロマケの遺体が抱いていたもので間違いありませんね?」
「ああ。間違いない」
「他にそれを証言できる方は?」
「あの場にいた竜騎兵団の者全員が証言できる。種族は問わない」
ヴェルヴェーナの細い目がクローコスを見る。彼は頷いた。種族が異なる複数の者たちが証言できるなら『獣人の鼻』――ごく一部の少数種族にのみ知覚し得る証言――には該当しない。
「時計塔には、ペレキスの弓の女王がもたらした書簡があります。そこには彼女たちが戦利品として奪取した品々が返還された際の目録があります。ヘクトールの遺品についても記載がある。戦を神聖視し、光竜フランベネクスを軍神と敬う彼女たちがこれらの記載をぞんざいにするとは思えません。いかがですか?」
民衆裁判を裏で支える官吏たちに、ヴェルヴェーナは大仰な仕草で尋ねた。それは民衆の視線を、普段は目立たない裏方である彼らに注目させるためだ。
役人たちはこくこくと頷いた。実際、ペレキスの記録の正確さは彼らのなかで学ぶべきものとして評判だったのだ。
「ヘクトールの遺品は兜、槍、胸当て、脛当て、そして矢とあります。なぜアンドロマケの遺体はこのうち矢だけを抱いていたのでしょうか?」
「それは……」
オジロスは口ごもる。ヴェルヴェーナの意図が読めない以上、迂闊なことは口にできない。
「そもそも、なぜ槍を得意としていたヘクトールが矢を持っていたのでしょうか? 予備の武器だとしたら、なぜ弓を持っていなかったのでしょうか? 考えられることは1つ。この矢はヘクトールが持っていたのではなく、彼の体に突き刺さっていたのです。なぜアンドロマケの遺体は矢を抱いていたのか? そうすることで竜騎兵団が矢を彼女の遺体とともに葬ることを見越していた何者かが、あえてアンドロマケの遺体に矢を持たせたのです! ヘクトールを殺害した凶器を隠滅するために!」
「嘘だ! 想像に過ぎん!」
「問題は、この矢が誰のものであったか。竜騎兵団副団長ラーヴァに問います! 竜騎兵団では、矢尻に飛竜の牙を使う。そうですね?」
「そうだ」
「竜騎兵団くらい日ごろから飛竜に触れている者なら、この牙が自分の竜かどうかわかる。そうですね?」
「……少し違うな。わかるのは、日ごろ竜に愛情をもって接している者だ。」
絞り出すように答えるラーヴァの瞳には、赤熱する怒りが滾っていた。彼女は、尊敬するヘクトールの愛竜を、彼を殺したかもしれない男の命で殺処分したのだ。
「この牙がどの飛竜のものかは、貴女はわかりますか?」
「わからない。残念ながら」
ラーヴァの無念の証言に、オジロスはほっと胸をなでおろす。次のヴェルヴェーナの言葉を聞くまでの、ほんの一瞬の間だけ。
「では、アポリトマ様に問いましょう。この矢がどの飛竜の牙であるか。幸い、彼女はすでにこの場におらず、オジロスの家へ竜たちの世話に戻っている。つまり、今の状況をアポリトマは知りません。彼女には何も知らせず、矢尻を外して竜の牙だけを見せましょう。彼女が矢尻を緑青色の飛竜の牙だと言えば、当方の主張は証明されます」
緑青色の飛竜は、あの日、戦場でオジロスが駆っていた飛竜である。その飛竜の牙から作られた矢はオジロスのものであり、それがヘクトールの体に刺さっていたのだとしたら――
(すべて、あの女の手のひらの上だったというのか?)
すべてはこの一手のため。アポリトマの証言ひとつに最大限の重みを持たせるために、今までの茶番があったのだ。
「……その矢が、ヘクトールを殺したものだと、まだ決まったわけではない」
何とか少女に発言をさせまいとオジロスはあがく。だが、クローコスの沈痛な声がそれに答えた。
「……急ぎ、帰還中のペレキス軍に使者を出す。ヘクトールの死の真相は、あちらの斧の女王の死の真相でもある」
「そんな恥知らずなことが――」
「相手は戦に至上の価値を置く強都市国家だ! 女王が戦死するほどの戦を汚されたとなれば、それこそ向こうに再戦の口実を与えることになる! とにかく今はアポリトマの再登壇を待て!」
そして、情報が伝えられないよう細心の注意を払って連れてこられた少女は口を開き、英雄としてのオジロスの生はここに潰えた。
竜騎兵団長オジロス:有罪 追放刑 なお、ペレキスからの要請により、その身柄は弓の女王にゆだねるものとする。
◆ ◆ ◆
「ふぅー……」
夜巡り隊の詰所で、ヴェルヴェーナは長椅子にその身を横たえていた。
「お疲れ」
ブートンのぽっちゃりとした手が、赤い液体を満たしたカップを差し出す。
「葡萄酒にハーブを入れて温めてみた」
「わぁ、それはありがとうございます」
ひと口すすり、ヴェルヴェーナはうっとりとした目で吐息した。
「大変だったね」
「そうですね」
「君が。つらかったでしょ。あの子のためとは言え、アポリトマを追い詰めるのは。胸、苦しかったんじゃない?」
「……どうでしょう? まあ、どっと疲れたことは確かです」
ゆっくり休んで、と部屋を出て行こうとするブートンの背中に、ヴェルヴェーナは問いかけた。
「あの子たちはどうなると思いますか?」
アポリトマと、騎乗者を失った2頭の飛竜。
「足掻くさ。最後の最後まで。カルキノスの市民はみんなそうしてる」
空になったカップを抱いたまま眠りについたヴェルヴェーナから、ブートンはそっとカップを回収した。
都市国家カルキノスに「竜騎兵団にこの人あり」と言われる小柄な英雄が現れるのは、十数年後の話である。




