エピソード2「少女の沈黙・前編」
エピソード2
『少女の沈黙』
魔王に率いられた魔族の軍勢による侵略。対するは一人の勇者により種族の垣根を超えて結成された同盟軍。
『魔王戦争』。
同盟軍はこの激戦を制するも、そこに勇者の姿はなく、国家は崩壊し、多くの人々が故郷を失った。彼らは生きるために時に助け合い、時に争い、数多の種族や民族が混じり合った混沌の時代が始まった。
そしていつしか、この地には数百の都市国家が乱立していた。それは、堅牢な城壁に囲まれた都市に暮らす数千から数万の市民と、広大な農地で働く農奴からなり、それぞれが独自の政治形態を持っていた――
『カルキノス』はそんな都市国家のひとつであり、広大な湖――ウーラ湖を天然の要害とした、恐らくは唯一無二の水上都市である。
都市部に暮らす市民の人口はおよそ3万人、ウーラ湖に流れ込むイソファゴス川周辺の農地に暮らす農奴の人口はおよそ5万人。
都市国家としては中堅どころといった規模である。
様々な種族が混在していたこの時代にあって、カルキノスに暮らす人々は多様性を極めていた。
筋力も魔力も平凡だが、学習力と繁殖力に優れる平地人。
長命で魔力に優れ、美しい容姿を持つ森人。
頑強な肉体と優れた冶金文化を継承する岩人。
獣や鳥の力をその身に宿し、高い身体能力を持つ獣人。
並外れた巨体と筋力を誇る鬼人。
特定の環境と魔力属性に特化した火竜族や風精族といった精霊族。
そして、屍に魔力を循環させて疑似的な生命を再現した『不死人』……。
そんな、体つきも精神性も異なる者たちの社会秩序を維持しているのは、カルキノス独自の社会組織、『夜巡り隊』である。
「はぁ、はぁ……、待って、待ってください……」
活気に満ちた市場を、1人の女性が走っていた。否、これを走ると表現してもよいものだろうか? 顎が上がり、膝は笑い、力の抜けた長い手足をばたつかせるその姿は、方向が定まっているだけ酔っ払いより多少マシな千鳥足だった。
「お願い、待って! 強盗さんッ!」
彼女の叫びを聞いた誰もが、待てと言われた待つ奴がいるかと思ったことだろう。混雑する市場に、その長身は明らかに走行の邪魔になっており、人々は迷惑と好奇の入り混じった眼差しで彼女を見やっていた。
ついに女性はへたりこむ。
白い袖なしのワンピースからのぞく肌は淡い青灰色。はらりと落ちるつば広の帽子。現れたのは切り揃えた黒髪と、糸のように細い双眸。
「待って……あぁ、行かないで……」
去り行く恋人にすがるように手を突き出す。――相手は強盗で、その姿はとうに人込み紛れて見失われているが。
「あぁ……」
絶望の吐息は、妙に艶っぽかった。
「ヴェルヴェーナ! そっちはどう――ってうぉい! 逃げられてるぅ!?」
そこへ駆けつける、砂色の体毛をした獣人の青年。子犬のようなあどけなさがあるが、尖った耳とシャープな鼻先は犬ではなく狼のそれだった。
「すみません、ポディ様……」
「いいから! どっちに逃げた!?」
ヴェルヴェーナの指し示す方向にあるのは、見分けのつかない人、人、人……。
「大丈夫! 任せて!」
ポディはすぅっと鼻で呼吸をひと嗅ぎする。その顔は狩りに向かう狼のものだった。
「ふッ――!」
瞬間、ポディの脚がバネのように弾けた。旋風が周囲を薙ぎ、街行く人々の頭上を砂色の疾風が駆け抜ける。
「「うおぉぉぉッ!」」
狩猟者の雄たけびと、迫り来る獣の爪に気付いた強盗の悲鳴が重なった。
◆ ◆ ◆
「ヴェルヴェーナの仕事ぶりはどうだ?」
都市国家カルキノスの実質的支配者である終身執政官、クローコスの問いはしばしの沈黙で返答された。
「あー……」
人差し指でぽりぽりと頭を掻くのは、夜巡り隊のリーダー格であるメリッサである。
メリッサは風精族の少女である。風精族はかつて妖精とも呼ばれ、身長50センチにほどのあらゆる種族の中で最も小柄な体躯と、背中に生えた透き通った1対の翅が特徴の種族である。
「……」
「どうした、メリッサ?」
彼女が言い淀んだのは、ヴェルヴェーナ本人を含んだ隊員全員の前で人物評を聞くクローコスの無神経さに一瞬呆れたからである。隊の新人にたいする評価については端的に言い切った。
「首から下はまるで使えねぇな」
「……そうか」
メリッサの率直すぎる評価に、森人であるクローコスの端正な顔を損なっている眉間の深いしわが一層深くなったようだ。
「メリッサ、その、本人の前だしもう少し……」
オロオロとフォローするポディ。当のヴェルヴェーナはその長身をできるだけ縮めようとしているかのように肩を寄せてうなだれている。
「夜巡り隊は「巡る」のが仕事だ。足が遅いんじゃ話にならねぇ」
一瞬、ヴェルヴェーナの糸目の奥で瞳が動く。その先にはでっぷりと太った豚鼻の青年のぼーっとした顔があった。だが、メリッサは目ざとくその視線を察してにやりと笑った。
「おっと、今ブートンを見たな、ヴェルヴェーナ? 残念だがコイツはデブだが動けるデブだ」
「ッ――!」
恥じ入るようにその身体をさらに縮こませるヴェルヴェーナ。一方のブートンは照れたように「ブゴッ」と鼻の奥を鳴らした。
「つってもギリギリだがな! 痩せろ!!」
「ブヒッ!? 面目ない……」
クローコスは片手をあげて、ともすれば好き勝手に騒ぎ始める若者たちを制した。
「わかった。ヴェルヴェーナの隊における処遇については今後の検討材料とする」
クローコスはあらためて直属の配下である夜巡り隊の面々を見やった。
隊のまとめ役だが、口が悪く激昂しやすい風精族の少女、メリッサ。
風の魔法を得意とする風精族には珍しく、メリッサのその小さな体には炎の魔力も宿っている。彼女独自の風と炎を組み合わせた爆発魔法は威力だけでなく、轟音や爆風を調整することで暴徒の制圧にも応用が利く。
鋭敏な嗅覚と俊足で、現状ではもっとも隊の役割を果たしている狼獣人の青年、ポディ。
彼の追跡能力は隊内に限らず、都市国家全体の中でも突出している。だが一方で容姿にも性格にも幼さが残っており、凶悪犯や知能犯を相手にすると押しの弱さが露呈する。
鬼人特有の巨体と膂力が素直な強みであるブートン。豚のような鼻と丸々とした太鼓腹のせいで鈍重な印象を与えるが、実のところは冷静で博識な頭脳派である。惜しむらくは、元来のマイペースな性格と若干の吃音のせいで彼の知見を言葉にして表すことが極めて不得手である点である。
(ヴェルヴェーナであれば、彼らの穴を埋めることができるはずだ)
ヴェルヴェーナ自身は忘れているだろうが、クローコスは知っている。彼女は戦時中において規格外の魔導士であり、また大小さまざまな事件やもめ事をその観察眼と話術で解決してきた存在――探偵――であったことを。
この先、都市国家カルキノスにヴェルヴェーナは必要な存在となる。彼が理想とする政治形態――法による統治の実現のために。
「本日お前たちを招集したのは、別の案件だ」
クローコスの言葉に、ヴェルヴェーナ以外の面々はだいたい察しがついたような素振りを見せた。
「ペレキスから使者があり、和平の締結とその証しとして宴をこのカルキノスで行うことになった。使者が帰還次第、ペレキスから女王自ら軍勢を率いてこちらに向かって来るだろう」
「ペレキス?」
「逆らっちゃぁいけねぇ三大都市国家のひとつだ。いや、その中でもぶっちぎりのイカれ集団……」
メリッサの言葉に、他の2人も、クローコスさえもうんうんと頷いている。
「ぶっちゃけ、三大都市国家の中ではソフィアみてぇな桁違いの人口とバカ広い農地を持っているワケじゃねぇし、キーマみてぇに海運を牛耳ってアホほど金をため込んでいるワケでもねぇ。ペレキスは……市民全員が職業軍人の戦闘狂集団なんだ!」
「市民が兵役の義務を負っているのはカルキノスも、いえ、他の都市国家も同じだと聞いていますが?」
「兵役じゃねぇ。職業軍人だ。ウチらや他の所は普段は農業とか別の仕事をしていて、戦になったら兵役に出るだろ? だがペレキスの市民は違う。物心ついたら訓練、訓練、訓練! 股に毛が生える頃には実戦、実戦、実戦! 戦死以外の死はすべて恥! そんな連中だ!」
「しかも、全員女性」
「全員女性!? それって社会が成り立たないのでは――」
「……あいつらは年に1回、軍勢を率いて大規模な狩猟に出かける。要は他の都市国家を略奪して回るんだ」
そして奪った男は弱い者は奴隷に落とし、強いものは種を搾り取った後で奴隷に落とすのだという。
もっとも、収穫後の農閑期に都市国家間で戦が始まることは珍しいことではなく、むしろ一種の風物詩ですらある。作物が不作だったり疫病などで奴隷が大量に失われた都市国家が、豊かな所に遠征し略奪を働くのだ。
だがペレキスの遠征は豊作も不作も関係なく行われ、率いられる兵力も遠征範囲も他のそれとは比較にならない。なぜなら、彼女たちのそれは新兵の実践訓練と老兵の死に場所を兼ねているからである。
「それは何と言うか、はた迷惑な方々ですね……」
ヴェルヴェーナの感想に、ブートンは「うーん」とうなった。
「一概にそうとも言えなくてねぇ。うちよりもっと小さい都市国家なんかは、あえて奴隷と作物を貢ぐことでペレキスに守ってもらうこともあるし。巨大な魔物が出た時はあの人たち、率先して戦ってくれるからねぇ……」
魔王戦争後の混沌の中から、独自の生存戦略を模索した結果生まれた極端に戦争に特化した政治形態を持つ都市国家。それがペレキスであるとブートンは語った。
「ところが、だ」
そこで、メリッサはにやりと笑った。
「今年はウチらを標的に攻め込んできたペレキスだが、思わぬ事態が起きた。いつもは抵抗空しく奪われるままだったウチらが、ペレキスの女王を討ち取る大金星を上げちまったんだ」
カルキノスは都市国家の中では中堅ながら、独立不羈を掲げている。そのためペレキスへの上納をよしとせず、独自の研究と戦略を練り上げてきた。
その1つが、ごく少数ながら特定の分野に特化した精鋭兵団の設立だった。
特に、飼い慣らした飛竜に乗って戦う「竜騎兵団」は、構想自体は古くから知られているものの、成功したのは現状カルキノスが唯一だろう。
今回、この竜騎兵団の副団長オジロスが、ペレキスの女王『斧の女王』を打倒し、女王のシンボルであった「黒金剛の斧」を持ち帰った。
この功績により、オジロスは戦死した団長ヘクトールに変わって竜騎兵団長となり、英雄として称えられることとなった。
一方のペレキスは「黒金剛の斧」の返還を求め、代わりに奴隷としてとらえた男たちの変換と大量の穀物を差し出すこと、そして今後はカルキノスへの略奪をしない旨を申し出てきたのである。
「アンタが目覚める前にそんな戦があったワケよ」
「なるほど。あれ? ちょっと疑問なのですが、ペレキスの女王を討ち取ったのですよね? ですが先ほどクローコス様は女王自らこちらに来ると……」
「人の話はホントしっかり聞いてるよな」
メリッサの声色には、先ほどヴェルヴェーナを「使えない」と腐した時とは打って変わって純粋な敬意がこもっていた。良くも悪くも表裏が無いのがメリッサという少女なのだろう。
「あそこが変なのは、女王が2人いるってことだ。『斧の女王』と『弓の女王』がな。今回うちに来るのは『弓』の方だ」
二王制。他の都市国家ではまず見られない政治形態である。ペレキスでは2つの独立した王家があり、毎年交互に遠征軍の指揮をする。
「さて、状況が分かったところで今回の任務だ。お前たちには英雄オジロスを警護してもらう」
「ウチら全員でですか? 市民はどうします? 誰も彼もお祭り気分で何やらかすかわかりませんが」
「だからこそ、ここで英雄オジロスに何かあっては困るのだ。市民の統制は他の区画の夜巡り隊にあたってもらう」
「あの、不勉強ですみません。夜巡り隊って私たちだけじゃないんですか?」
すまなそうに手を上げるヴェルヴェーナに、メリッサは「悪ぃ」とそえつつ答えた。
「ウチがいっつも人手が足りねぇってボヤいてるから、勘違いさせちまったな。ウチらの管轄はこの時計塔から北の城門までの大通り、中心部と市場周辺が管轄だ。5人の執政官にそれぞれ直属の夜巡り隊がいるんだ。ま、管轄がはっきり分かれてるし、どこも人手不足でこき使われてるから交流するヒマなんてないけどな」
「今回の祭典を指揮しているのは光竜教会の神官長だ。彼と段取りを打ち合わせて警護計画を提出しろ。以上だ」
「はは、神官長、久しぶりの仕事で目ェ回してるでしょうね。ウチらが創世教会の聖女様をアレしちまったから」
「無駄口を叩くな。これからお前たちの目も高速で回ることになる」
◆ ◆ ◆
クローコスの忠告通り、その後の彼らは多忙を極めた。というより、カルキノス全体が沸き立っていた。
戦勝の興奮の中で、ペレキスの女王とその兵団に備える者、宴の酒や食料を仕入れる者、商売を目論む者、誰もが責務を果たし商機を生かすために血眼で奔走していた。
市民ひとりひとりは必死だったが、都市全体で見ればその様子はお祭り騒ぎ以外の何物でもなかった。
そして、月日は放たれた矢のように過ぎ去り、ついにペレキスの女王を迎える日がやって来た。
「『弓の女王』である。門を開けよ」
決して轟くような大音声ではなかったが、その声は張り詰めた弦を伝うように響き渡った。
そして、あえてゆっくりと厳かに開いた門の向こうに現れた数百人の軍勢は人々の目を釘付けにした。
「あれが、ペレキス……」
女性だけで構成された生粋の戦闘集団。その威容を前に、人々の口から思わず漏れた言葉は――
「美しい……」
「綺麗……」
しなやかに鍛え上げられ、引き絞られた筋肉と艶やかな小麦色に日焼けした素肌を惜しげもなく見せつけ、胸と股間のみを覆う鎧は銅と金の合金で、眩く輝くピンクゴールド。風に波打つ髪は色とりどりだが、いずれも入念に整えられ、まるで風の方が彼女たちの髪型を引き立てるために吹いているのではと思わされる。
おそらく、様々な種族の血が混じっているのだろう。
細身ながらも密度の高い屈強な筋肉は岩人や鬼人、長い手足と整った顔立ちは森人の血であろう。中には獣人の毛並みを持つ者もいる。
だが、彼女たちの姿が見る者を惹きつけて離さないのは外見の美しさだけではない。
自信である。
己の強さと美しさを信じて疑わない、確固たる自信。彼女たちは自分と他者を比較するという発想が無いのであろう。あるのは、己の研鑽を一瞬でも怠ったことがないという自信、ゆえに自分は誰よりも強く美しいという確信。
それが、彼女たちを内面から輝かせているのである。
そして、先頭を歩む『弓の女王』。
身長は、屈強なペレキス兵の中ではむしろ低い方だろう。年齢も十代と言われても納得できるほど若い。
くすんだ金髪はひっつめにしただけのシンプルな型。身に着けているものも鎧は他の者とさして変わらず、唯一の違いは赤く染められた毛皮のマントがあるのみ。
それなのに、誰もがひと目で彼女こそが女王だと確信した。
顎をわずかに引き、細い吊り目から放たれる眼光は獲物を狙う猛禽――否、炎を吐く直前の竜を連想させる。
引き締まった肉体に抑え込んでも抑えきれないかのようににじみ出る闘気は、すべてを焼き尽くす焦熱とも、すべてを氷結させる凍気とも感じられる。
「我々は、本当にあんなのに勝てたのか?」
カルキノスの市民の誰もがそう思った。
静まり返る大通りを、ペレキスの兵団はここがまるで自国の領土であるかのように悠然と進み、時計塔の前の広場(民衆裁判が開かれた場所である)に到着すると流れる水のような優美さで整列した。
「……」
祭壇の上で待っていたカルキノス側の者たちは、各々の程度の差こそあれ、誰もが内心の戦慄を隠すために少なからぬ心労を強いられた。
それは、日ごろ冷徹な裁定者とされている終身執政官クローコスも例外ではないようで、端正な顔に刻まれた眉間のしわがひときわ深く見える。
他にいるのは、これから始まる式典を取り仕切る光竜教の神官長と4人の執政官。重装歩兵団長であり有事の際はカルキノス軍の総大将となる初老の鬼人ガンコモン、斥候兵団長である平地人ヒュブリス、竜騎兵団の副長である森人ラーヴァといった面々である。
弓の女王はカルキノスの幹部たちを前に静かに壇上へ上がり、クローコスの前に立った。
「我らペレキスの申し出を受け入れていただき、感謝する」
「こちらこそ、女王陛下の決断に最大限の敬意を」
互いに頭は下げない。今回の講和と同盟は対等な立場で行われることを示すためである。
「こちらが贈与品の目録となる。品物はすでに納めたと認識している」
「承っている」
唯一、カルキノスが先勝側であることを示すのが品物の受け渡し日であった。
ペレキスは前日に奴隷としてとらえた者たちと戦死者の遺品、そして大量の穀物と葡萄酒をカルキノスに納めていた。
一方、その対価としてカルキノスが返還する「黒金剛の斧」の受け渡しはこれから行われるのである。
農地が痩せていると言われるペレキスにとって、戦利品の返還や食料の損失は打撃であろう。だが、「斧の女王」の象徴である黒金剛の斧には彼女たちにとってそれだけの価値があるという証明でもあった。また、この年に彼女たちが迎える飢えと貧困は翌年の戦意の糧になるであろうことは兵士たちの眼差しから容易に想像できた。
「……」
不意に、それまで事務的に粛々と行われてきた式典に不自然な沈黙が下りた。
弓の女王が発する眼光が、斥候兵団長ヒュブリスに向けられていた。
「よくも、やってくれたものだ」
放たれる殺気を、ヒュブリスは簡単な会釈をもって受け流した。――その瞳を除いて。
ヒュブリスは朝黒い肌とクセのある黒髪をした細面の美丈夫である。切れ長の目や通った鼻筋、小さめの口もとなど個々の要素は女性的だが、軟弱な印象をいささかも与えないのは、その瞳に宿る静かに燃える野心的な炎のせいだろう。
今回、ペレキスとカルキノスが和平と同盟を結ぶに至った影には、ヒュブリスの率いる斥候兵団の暗躍があった。
本来、ペレキスの兵力をもってすれば再戦によって黒金剛の斧を力ずくで奪還することは可能であった。それができなかったのは、ヒュブリスの部隊が各地の都市国家を駆け回り、斧の女王の戦死とペレキスの敗北を吹聴して回ったからに他ならない。これによりペレキスは傘下の植民都市や奴隷の反乱に備える必要が発生し、年内の遠征は不可能となったのだ。
「情報を武器にした戦、学ばせてもらった。……我らの肌には合わんがな」
女王の不敵な微笑をもって、緊張の糸は緩んだ。
すかさず神官長の叫ぶように宣言する。
「で、では、黒金剛の斧を返還いたします。我らが英雄、オジロスをここに!」
◆ ◆ ◆
「……だまされた」
この日のために貸切られた大衆食堂「目白亭」で、メリッサは数十回目の悪態をついた。
「何が英雄の警護だよ」
少女の憎々し気な目線の先には、テーブルに両足を投げ出しながら酒を飲む大男がいた。両手には悪趣味な指輪がいくつもはめられている。
「おい! そこの羽虫娘! ぼーっとしてないで酒をつげ!」
刈り込んだごま塩頭、顎をぐるりと覆う黒い髭はブラシを思わせる。鼻と口が横に広い一方で、異様に小さく丸い目は常にきょろきょろと動いており、どこか魚類を思わせた。
「今のカルキノスがあるのは俺のおかげだ! 分かっているのか? あ?」
だみ声で喚き散らすこの男こそが、英雄オジロスその人であった。
「――でだ、俺ァアイツの槍を拾ってあの女王に向かって行った。正面からだ。女王が斧を振り回せば竜巻みてぇな衝撃波だ。だが俺は真正面から受け止めた。俺には見えていたんだ、奴には決定的な隙があった。わかるか? 奴自身も気付いてなかっただろうが、その目の奥には俺に対する明らかな恐怖が……」
そんな英雄の傍らで、ヴェルヴェーナはにこやかに話を聞いていた。だが、テーブルの下では足がサンダルを脱いだり履いたりを繰り返しており、苛立ちを何とか紛らわせているのがわかる。なぜなら、彼の武勇伝はすでに何度も繰り返されており、回数を重ねるごとに話が大きくなっていくからである。
明らかに誇張とわかっている話を長時間聞かされるほど、退屈で無意味な時間はない。
しかも、英雄の手は隙あらばヴェルヴェーナの胸元に伸びてくる。それをやんわりと躱すために集中を切らすこともできない。
ちなみに、ポディとブートンはこの場に居ない。対面早々、「男はツラを見せるな!」と怒鳴られたからである。
(何が警護だ。これじゃ召使いじゃねぇか)
だが、その緩慢な地獄にようやく終わりが訪れた。
「あの、オジロス様……」
小柄な少女がおずおずと入って来た。歳は10歳そこそこだろうか。肌は褐色で、明るい銅色の髪は小さな体に対しアンバランスなほど毛量が多い。だが、2本の注連縄のように編み込まれた髪型は少女によく似合っていた。
染めていない服が、彼女が奴隷階級であることを示している。
「……」
少女を無視し、オジロスは酒をあおる。少女はそろそろと近づくと、もう一度「オジロス様」と手を触れようとした。
「うるせぇ! 何だ早く言え!」
オジロスは小さな手を乱暴に払いのけ、ジョッキを少女の足元に投げつけた。
ヴェルヴェーナは思わず顔を背け、メリッサのこめかみにピキっと血管が浮き出る。
だが、少女は慣れているのか、か細い声で告げた。
「神官様が、そろそろ出番だと……」
少女の言葉にオジロスは返事もせず立ち上がった。体は鍛えられているが、腹の下側がわずかに膨らんでいるのは酒を溜めこんだせいであればいいと、それを見た誰もが願った。
あの磨き上げられた彫刻のようなペレキス人の肉体に相対するカルキノスの英雄が、脂肪で腹を緩ませているなど屈辱でしかない
もっとも、それは他の誰よりもオジロス自身が心得ているようで、彼はこの日のために黄金の鎧をあつらえていた。
見栄えを何とか取り繕い、オジロスは部屋の奥に鎮座している木箱を開けた。そこには、彼を英雄たらしめる戦利品――黒金剛の斧が納められていた。
「へへ……」
それは、長柄の片刃斧だった。その名に反して材質のほとんどは鋼鉄である。飛竜の翼を思わせる巨大な斧頭。そのの縁にはめ込まれているのが黒金剛の刃だった。
黒曜石や黒水晶ではどんなに磨こうと決して生まれない深みのある静かな輝き。まるで石の内面から発されているかのような高貴な光は、確かにペレキスの女王が発するオーラに似ていた。
「んん……ッ」
はじめ、オジロスは斧を腕力だけで持ち上げようとした。だが、すぐに体をかがめると長い柄を肩かけて全身で担ぎ上げた。
◆ ◆ ◆
「オジロス様だ!」
「カルキノスの英雄だ!」
「竜騎兵団長オジロス!」
人混みが左右に割れ、現れた英雄オジロスの姿はさすがに堂々たるものだった。とても先刻まで酒を浴びるように飲みながら女性に延々と絡んでいたとは思えなかった。
黄金の具足に身を包み、肩には巨大な斧を担ぐ。
背後には召使いの少女と緑青色をした飛竜を従え、さらに警護のため夜巡り隊の面々が続く。
オジロスは歓声と祝いの花びらを全身に浴びながらゆったりと歩を進めた。
「アレ、きっと体が重いだけだぜ?」
メリッサがそっとヴェルヴェーナに耳打ちし、ヴェルヴェーナはくすりと笑った。
オジロスは整列するペレキス兵の前を横切り、祭壇を登ると『弓の女王』と対峙した。
「盟約に従い、黒金剛の斧をお返しする」
ここで、式典に再び緊張が走った。
当初の段取りでは、オジロスはまずクローコスに斧を献上し、クローコスが弓の女王に返還するはずであった。
そうでなければ、本来、三大都市国家のひとつと言われ最強の戦闘力を誇るペレキスの女王が、格下の都市国家の、英雄とはいえ身分としてはいち兵士に過ぎない人物から斧を受け取る構図になってしまうからである。
ペレキスはその気になれば再び戦を起こすことができる。何なら、今この場で挙兵することさえできるのだ。それをかろうじて抑止しているのはカルキノスの地道な情報工作と、戦をある意味で神聖視しているペレキス人の精神性である。
この祭壇は、張り詰めたか細い一歩の糸によって吊るされた舞台だった。
オジロスのやらかしを、この戦闘民族の女王がいかように解釈するか。彼女がわずかでも怒気を発せば、この場は一瞬で血塗られた戦場と化すだろう。
「……貴君の寛大さに敬意と感謝を」
女王は口元に笑みを浮かべて斧を受け取った。そして、その笑みが不意にいたずらっぽく歪んだ。
「見よ! 黒金剛の斧が我らの手に!」
女王は自国の兵士たちに向き直ると、斧を高々と掲げた。
オジロスが両手で差し出した超重量の斧を、彼女は片手で軽々と挙げて見せたのである。
広場は熱狂的な包まれた。
ペレキスの兵士たちはもちろん、カルキノスの民衆までもが両手を振って女王を祝福した。
壇上のカルキノス上層部だけが、この外交的敗北に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。彼らは、この出来事が後世、数千年にわたって語り継がれるであろうと予測していた。奢った英雄の愚行を、王の器と機転でいなした女王の逸話――
カルキノスの民衆が敵国の女王にたやすく魅了された愚か者であると評するのは、少々残酷である。この時代の人々は、種族も宗教も都市国家も関係なく、『力』の信奉者であった。市民としてこの式典の参加を許されているのは、極めて稀な例外を除き、兵士として戦場に立った経験者である。彼らの中には本能的な力への憧れが根付いているのだ。
巨大な斧を高々と掲げる麗しい女王の姿は、まさに理想の力の象徴だった。
こうして、ペレキスとカルキノスの和平はかろうじて結ばれたのだった。
◆ ◆ ◆
「おい! 帰ったぞ!」
オジロスは帰宅するなり長椅子にどっかりと座り込むと、肺腑に溜まったアルコールの呼気ともやもやとした苛立ちをどっと吐き出した。
「アンドロマケ! いるんだろ!? 何か食い物をくれ! すぐに宴に出なきゃならん!」
返事がない。だが、薄い壁の向こうには確かに人の気配がある。
オジロスの胸中に灰色の苛立ちが積乱雲のように盛り上がる。
「アンドロマケ!」
しばらくして、寝室からどこか虚ろな表情をした妻が顔を出した。
「……お帰り」
かすかな微笑みは、だがオジロスに向けられたものではなかった。
「ただいま戻りました」
妻の元にパタパタと駆け寄る召使いの少女。アンドロマケは腰をかがめて少女に目線を合わせた。
「帰ったばかりで悪いけど、お使いに行ってくれる? いつものやつと、お夕飯の材料」
「あい」
「あの子たちのこともお願い」
「あい!」
少女は、オジロスの後ろに付いていた時とは打って変わって元気に頷く。
「……」
少女は出がけに一瞬だけ振り返ったが、すぐに表へ駆け出して行った。
オジロスはその様子を憎々し気に見つめていた。それは、先刻の不快な出来事の焼き直しを見ているようだった。
今日は、本来であればオジロスの人生にとって至高の日となるはずだった。
最強の戦士の称号、英雄の誉、竜騎兵団長の地位、本来は手の届かない存在だったアンドロマケという妻。そのすべてがいち度に手に入った輝かしい日であるはずだった。
確かに、祭典の段取りを間違えたのはオジロスの失態である。だが、それが何だと言うのだろう? 黒金剛の斧は結局女王に返ったのだからいいではないか。そもそも、間にクローコスを挟む意味が彼にはわからない。
段取りと言えば、弓の女王も自分と同じようにやらかしているはずだ。斧を片手で持ち上げるようなパフォーマンスをするなんて聞いていない。そのせいで、どちらが戦勝した側かわからないような雰囲気になってしまった。
あの祭典の主役は、英雄オジロスであったはずだ。
なのに、カルキノスの幹部たちはまるで自分だけが悪いような目線を向けてきた。斥候兵団長ヒュブリスにいたってはあからさまに顔を背けて形式的な挨拶すらしなかった。
功績が妬ましいのは解るが、救国の英雄に対して最低限の礼儀があるのではないか? そして、なぜ誰もそれを咎めないのか?
焦燥に似た苛立ちがオジロスの胸中に渦巻いていた。こんなはずではない。自分の見えない場所で何かが狂っている。
――その中心が、先日結婚したばかりの妻アンドロマケだった。
「……」
昨日から、彼女の様子がおかしい。
本来の彼女は、明るくハツラツとした女性だった。健康的なオリーブ色の肌に蜂蜜色の髪、顔立ちはやや童顔で、まるで陽の光をいっぱいに浴びて育った大輪の花を思わせた。
それが昨日のある時を境に、暗い影をまとっていた。
心当たりは、ひとつだけある。
「なあ、アンドロマケ」
オジロスは沈黙に押し切られる形で口を開いた。
「一体どうしたってんだ? もしかして、あいつを思い出したのか? だが――」
アンドロマケの鋭い一瞥がオジロスの口を塞ぐ。しばらく、彼女は言葉を選ぶように考え込んでいたが、やがて意を決したようだった。
「別れてほしいの」
「なぜだ!? やっぱりあいつが忘れられないのか!? 死んだあいつが!」
「ヘクトールは死んだわ! 彼もカルキノスを守るために戦って死んだ! お互い覚悟はできていた!」
戦で伴侶を喪うのは日常茶飯事である。戦死した相手を引きずって生涯を独り身で過ごすことは、都市国家の市民にとって、男女を問わず恥であるとされていた。死と隣り合わせのこの時代においては、子供を産み育てることは市民として公然の義務でもあった。
「だったら、なぜ?」
「……いいわ。やっぱり、ヘクトールのことを忘れられない。そういうことにしていいわ。とにかく別れて」
「何だそれは!? 意味が分からん! きちんと説明しろ!」
「いいのね? 言ってしまって」
アンドロマケの視線が、放たれた矢となってオジロスを射抜いた。その瞬間、オジロスはすべてを察した。
「……考え直せ。俺はカルキノスの英雄だぞ? 結婚してひと月も立たずに嫁に逃げられるなんて、そんな恥さらしができるか!?」
「だから言ったでしょ? 私が死んだ恋人を忘れられないってことにしていいって。それなら恥をかくのは私だけよ」
「そんな理由で……光竜フランベネクスの前で夫婦の宣誓をしたってのに……」
「あなたに、光竜様の名前を出す資格があるの?」
話は終わりだと言わんばかりに、アンドロマケは家を出ようとした。
「待て!」
オジロスは慌てて妻の肩をつかむ。
「放して」
「落ち着け。話し合おう。俺にも面子ってもんがあるんだよ!」
「放してッ!」
アンドロマケの手が、オジロスの手を弾いた。その瞬間、オジロスの頭の中は一瞬で憤怒の赤に染まった。
「……」
我に返ると、アンドロマケはオジロスの足元に崩れ落ちていた。石造りのテーブルの角に赤いものがついている。床にも同じ赤が広がっている。
そのくらいの間、立ち尽くしていたのだろう? どさり、と。背後で物音がしてオジロスは振り返った。
「ご主人様……?」
そこには、お使いから戻った召使いの少女がぺたりと座り込んでいた。




