第十章 女王陛下の攻城戦 chapter04
思わず立ち止まり、息を呑む。自分と同じくらい小柄なのに、この存在感——これが……この人が……刑事法廷で葉桜と対峙していた、あの公判担当検事。ひかるは目を奪われた。薫子の方も足を止め、わずかに首をかしげてこちらを見る。数秒の沈黙。人の行き交う廊下の中で、2人だけが切り取られたような空間が完成した。
「傍聴席では毎回賑やかだったわね。確か……九印先生の事務員さん」
薫子が口を開いた。
「はい。藍原といいます」
緊張しながらも、ひかるは答える。控えの紙を胸に抱えたまま。
薫子は目を細め、ひかるを見つめた。敵意ではない、もっと複雑な視線。検察官としての理性と、心の奥に生じた興味が交錯するような。
ひかるはなぜか「あの」と声を発してしまった、自分で理由も分からないまま。
「あら、何かしら? そちらの先生には喧嘩を売られちゃってて。私の勝ちで終わりだったのに。あなたも検察とか司法のこと、恨んでる?」
「私も少し前まで民事裁判の原告だったんです。ネット炎上に巻き込まれて。その時は、裁判の段取りや法律に対して〝なんでやねん!〟と思うこともありました。普通の会社員ならとてもやってられないな、と」
薫子は黙って聞き、かすかな笑顔で続きを促した。
「あの時の私は〝被害者の私が正しい、私の権利は守られるべきだ〟って思ってました。でも、全ての人が、自分なりの正義を持ってるんですよね。お互いが自分の正義を掲げてぶつかり合って、少しずつ譲り合う。それが裁判なんですよね」
「……なるほど」
「九印の先生方は正義を信じています。竜崎検事にも正義は……あります。きっと」
「ええ」
「正義って人の数だけあるんだなって思います」
「葉桜先生があなたくらい頭が柔らかければよかったのに。まったくあのデカ女め……あら、失礼」
「葉桜先生も竜崎検事のことをちびトカゲと呼んでいたのでおあいこです。では、竜崎検事も頑張ってください。九印の先生方は、多分負けません」
「残念ながら私が証人に出なければ、九印先生たちの負け。あんな奇襲が罷り通るほど、法廷は甘くないわ」
「それが竜崎検事の正義なら、それでいいと思います。……うわ、私、なんて失礼なことを! すみません、事務所に戻ります。すみません!」
ひかるは我に帰ったように薫子に一礼して、東京地裁を飛び出した。
「しまった、なんであんな説教じみた偉そうなことを……しまった……しまった……」
「ああ、竜崎検事と会ったのか。ちょっと気まずかったね。何か話したかい?」
自分のデスクで書類製作している哲也が、キーボードを打つ手を止めることなく聞いてきた。
「はい……その……を……しまいました」
「んー? 何だって?」
「その……説教をしてしまいました……」
ひかるは小柄な体をさらに小さくし、自分のデスクに突っ伏して哲也に答えた。
「説教!? いったいどんな話をしたんだ……?」
「はい……意訳しますと……『自分の正義を信じて、せいぜい頑張ってね』みたいな……。もちろんそんなつもりはなかったんです」
ひかるの体も声も、みるみる小さくなっていく。哲也は苦笑いを浮かべながら言った。「出会ってしまったのは仕方ない。で、竜崎検事は何て?」
「『自分が証人に出なければ、九印先生たちの負け。あんな奇襲が罷り通るほど法廷は甘くない』と……」
「そんなことを……。その内容から考えると、姉さんの挑発には乗ってくれなさそうだな」
いつからか奥で聞いていた葉桜が笑い出した。
「いやー、最高じゃないの! うちの敏腕事務員が特捜部のエース検事、あのちびトカゲに説教。痛快だわ。」
「姉さんがデカいんだよ。それに笑いごとじゃないよ」
「いいのよ。ひかるも気にしない気にしない。それより木賊工業へ行ってきてちょうだい。次回打ち合わせまでに準備書面を見ておいてもらいたいの。そのまま彩花さんとお茶でも飲んでらっしゃい」
しょぼくれる事務員の外出を見送った葉桜は顎に手を当て、ふと真顔に戻った。
「奇襲が通るほど法廷は甘くない、か」
ひかるから聞いた薫子の言葉を、ゆっくり反芻するように呟く。
「竜崎検事、見込みは低いね。木賊の名誉毀損は勝てると思うけど、刑事の方は……」
「もともと分の悪い賭けよ。売り言葉に買い言葉で乗っかってくれればラッキー。そろそろ裁判所から検察庁宛に照会書が届く頃かな」
この会話の2日後、東京地検に郵便が届いた。「東京地方裁判所民事第十部」の印と「証人出廷に関する照会書」の文字。竜崎薫子の出廷同意を求める、正式な書面である。




