第十章 女王陛下の攻城戦 chapter02
霞が関、東京地方裁判所。刑事裁判での激闘の記憶が生々しい。
刑事裁判で幾度も足を運んだ建物に、再び九印法律事務所の面々は姿を現した。今日は刑事部ではない。案内板には「民事第10部 名誉毀損請求事件」と記されている。
「今日は面倒なことになると思うから、弁護士に一任ってことで傍聴席にいてください」
哲也にそう言われて傍聴席に腰を下ろした彩花は、不思議な感覚に包まれていた。法服を着た裁判官が前に座っているが、刑事法廷ほどの緊張感はない。被告人席もなく「原告席」と「被告席」が左右に並んでいる。その片方に九印陣営が、もう片方にアイビー工機の代理人弁護士が座っていた。
裁判官の声が響く。
「それでは、令和〇年第5062号、名誉毀損請求事件、民事第10部、開廷します。原告、木賊彩花、ほか。被告、アイビー工機株式会社。本件は、原告の緊急保全申請に基づき、企業の信用毀損の重大性から早期審理を認めました」
木賊工業をめぐる刑事裁判の真っただ中で、今度は名誉毀損の民事訴訟。あまり例を見ない事態に記者たちも一応はペンを取った。
葉桜は静かに立ち上がり、一礼した。
「原告側代理人、九印法律事務所、弁護士・九印葉桜です」
横に座る哲也も頭を下げる。対するアイビー側は、企業法務で名を馳せる大手事務所のパートナー弁護士が並んでいる。
裁判長が淡々と確認を進める。
「本件は、木賊工業の製品が兵器転用可能であるかのような報道が拡散した結果、企業の信用を毀損されたとする原告が、被告であるアイビー工機に損害賠償を請求するものです。訴状は既に受理しています」
葉桜先生が言っていた最後の闘い、ついにそれが始まるんだ……彩花は、祈るような思いで葉桜の横顔を見ていた——あの夜のことを思い浮かべながら。
「刑事裁判の最中に国賠? 姉さん、それは無理だ」
司法の玄人も素人も、葉桜の戦略に唖然とした。しかし当の本人は涼しい顔で応じる。
「国家賠償請求なんかじゃ間に合わない。けれども、名誉毀損は企業の信用に直結する。放置すれば被害は拡大するばかり。だからこそ裁判所も仮処分や早期審理の名目でスピード開廷を認めざるを得ないわ」
「木賊工業への名誉毀損か……!」
哲也は思案顔で頷いた。
「確かに企業の信用は一度失われれば回復が難しい。『急を要する信用回復のため』と申請すれば民事部も必ず動く……」
「検察側はきっと思ってる。刑事で勝利すれば全て終わる、と」
「それで、具体的には?」
「どこか手頃なところを訴えちゃう」
葉桜はようやく笑った。
「ま、アイビーね。『木賊が兵器転用をした』かのように世間に印象付けた。刑事起訴がなければそんな発言は出なかったはず。つまり刑事事件とアイビーの広報は表裏一体。だから民事の場で彼らの責任を問う。この記事の中から提訴に使えるものを抜き出さないと」
ボス弁は、机の上のスクラップを叩いた。
「あ! 藍原さんの録画……」
哲也の声に反応したひかるが急いで番組を再生する。
——古い会社によく見られる〝技術一流、経営三流〟の典型です。私が経営体質を調べた時点で、すでに資金繰りは危うく、取引先からも見放されかけていた。正直、このままでは遠からず経営破綻していたことでしょう
「あら、これは決定的ね! いつか言った通り尻の毛まで抜いてやるわ」
「テレビの発言だから公然性は十分。経営破綻していた、というのは倒産を既成事実化している。取引先から見放されかけていた、というのも信用を低下させる具体的指摘だ。一見正論っぽく言っているけど……名誉毀損の要件を満たしてますね」
「民事には応訴義務がある。アイビーは出てこざるを得ない。ここに〝青い封筒〟を絡めるの」
検察が隠した補強資料。差出人を突き止める時間はない。しかし葉桜は差出人が誰だろうと関係ない、という。
「問題はそれを起訴の補強に使い、結果として木賊を社会的に抹殺しようとしたこと。——この青封筒を咥えたちびトカゲの尻尾を引っ掴んで、民事の法廷に引きずり出してやる。刑事の延長戦よ」
「なるほど、証拠の幅が刑事より広い民事なら、三原補佐官の告発状も匿名のまま使えるし、何より青い封筒についても開示を迫れる。でも……果たして可能なのか……」
葉桜は全員を鼓舞するように言う。木賊はまだ負けてない、と彩花を勇気づけるために。
「検察側が築いた城壁は堅牢。でも打ち抜くよ。針の穴程度で構わない。そこにきっと勝ち筋がある。これが司法の城に挑む、最後の攻城戦よ」
再び現在。東京地裁民事部の法廷。
冒頭のやり取りを終えた裁判長が、双方に視線を向ける。
「それでは、証拠申出及び証人申請に移ります」
葉桜は一歩前に出た。
「原告代理人として、被告アイビー工機による名誉毀損発言の背景を立証するため、以下の証拠を申請します。まず、公安内部からと思われる当職宛に届いた文書。公安の取り調べの違法性と、経産省から検察へ送られた青い封筒の存在が記されております」
傍聴席がざわめく。再び出てきた〝青い封筒〟という言葉。記者たちは顔を見合わせ、ペンを走らせた。
葉桜はさらに声を張る。
「加えて、起訴に至る経緯を明らかにするため——東京地検公判担当検事、竜崎薫子検事の証人申請を行います」
法廷が再びざわめく。対するアイビー側の代理人は思わず立ち上がり、声を荒らげた。
「裁判長、それは本件とは無関係です。刑事事件の公判担当検事を民事の証人に呼ぶなど——」
裁判長は手を上げて静止した。
「静粛に。……確かに異例ですが、原告代理人の意図を確認します。九印弁護士、なぜ竜崎検事を?」
葉桜は真っ直ぐ裁判官を見据えた。
「本件は、単なる名誉毀損事件ではありません。青い封筒なるものの存在が起訴を支え、被告アイビー工機の発言を誘発し、結果的に原告木賊工業の名誉を著しく傷つけました。検察がその封筒を保持している以上、その内容と経緯を知る者——竜崎検事こそ、事実を明らかにできる唯一の証人なのです」
言い切った瞬間、傍聴席から三たびどよめきが起こった。これはただの名誉毀損裁判ではない、そう気づいた記者たちの声だ。
裁判官の表情は険しくなり、書記官が慌ただしく手元の書類を確認する。
葉桜は言葉通り、高らかに宣言した。
「この場にいる誰でもいいわ、彼女ににお伝えください! 葉桜はあんたに喧嘩を売ってんのよ、と!」




