第十章 女王陛下の攻城戦 chapter01
閉廷後の九印法律事務所。普段なら電話や打ち合わせの声が響く時間帯だが、この時ばかりは皆、言葉を探し出せずにいた。裁判所を出てから一言も口を開いていない葉桜は、机の上で、バサバサと書類を動かしている。その横顔からは感情を読み取ることができず、ソファにいる彩花とひかるは不安げに、その姿を窺うことしかできなかった。時計の針が、刻、刻、と未来を過去へと削っていく。
沈黙を破ったのは、彩花と対面して座る哲也だった。
「……ちょっと厳しいね。せっかく青い封筒とやらの存在を突き止めたのに」
この日の裁判結果を端的に表す言葉だった。葉桜が提示した匿名の手紙は、検察側の巧みな反対尋問によって「噂話」として片付けられた。
「分かってはいたけど、証拠能力のない手紙では難しかった。疎明資料……参考資料として出すので精いっぱいだからね」
誰に話しかけるでもなく、哲也は続ける。
「正直、今回の裁判は検察のやりたい放題だった。調書主義の強さは日本の刑事裁判の特色だ。今回は自白こそなかったけど、捜査官の調書が重視される。どんなに不当な尋問で引き出されたものでも供述調書に署名がなされれば、それは真実として扱われるんだ……」
「疎明資料は退けられたけれど、無駄じゃないわ。刑事訴訟法319条、強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない。三原さんの手紙があったからこそ、強く言うことができたもの」
葉桜は作業を止めず、自分の机から会話に参加していた。哲也も同意する。
「確かに裁判所は『証拠能力がない』と切り捨てた。でも心の奥では、あの文書を意識せざるを得なかったはずです。裁判官だって人間だ。自由心証主義の下で、調書の信用性をどう見るかは彼らの良心にかかっている」
しかし哲也の説明が「弁護側の期待」でしかないことは、彩花にも分かる。ただ、もうこれ以上、父と祖父が苦しむ姿を見たくない。どういう結果であれ、終わりを迎えてほしい。もちろん悔しい。しかしいつまでも父と祖父が世間と法に揺さぶられ、消耗していくのを見ていられなかった。
耐えきれず、ひかるが弁護士たちに尋ねる。
「じゃあ、いくら先生たちが頑張っても、検察の優位は覆せないってことですか……?」
「……裁判所は形式上は独立しているけど、現実には検察の主張を追認する傾向が強い。検察官は『公共の利益の代表者』とされ、その主張は客観的で公平なものとみなされるから。裁判官が検察の主張を覆すことは……極めて稀……で、姉さん、さっきから何してるんだよ?」
葉桜は忙しそうに、パソコンのキーを叩いている。
「民事があるからその準備をね……」
哲也は驚いて姉を見た。
「姉さん、今は別件のことは置いておこうよ。まずは木賊さんの……」
「先生、諦めるしかないんですか!?」
「父と祖父は……?」
3人から向けられた視線に戸惑う葉桜。
「え?」
「え?」「え?」「え?」
と、その他の3人。四つの疑問符が飛び交う。ようやく葉桜がソファにやってきた。
「別件って何よ? あなたたち、諦めたの?」
「今、民事って……え? まさか。冗談だろ?」
しかし当の葉桜はいたって大真面目だった。
「刑事で道が塞がれたなら、別の盤面を用意するまで」
哲也は信じられないものを見るように目を丸くした。
「ちょっと待ってよ。刑事裁判の最中に国賠? それは無理だ」
なんの判決も出ていない今、国家に対して国家賠償請求……不当な裁判の賠償請求などできるはずもない。それはひかるにだって分かる。
「やっぱり司法の城を崩すのは簡単じゃなかった。こうなりゃどんな手を使ってでも、検察の守りをぶっ壊してやる。待ってなさいよ、アイビー工機!」
「アイビー?」
ばさ、と机の上に広げられたのは、ひかるがスクラップしていた木賊事件絡みの記事だった。




