第九章 東京地裁の災い chapter03
「戦争……! 今回の事件は、日本の安全保障が脅かされ、あるいは戦争に巻き込まれる契機となる、そういう性質のものなのです!」
鋭い咆哮で、まだ温まりきっていない法廷内に檄を放ったのは、東京地検の竜崎薫子だった。法服を模しつつモダンにデザインされた黒のスーツは彼女の戦闘服、その胸には〝秋霜烈日〟——検察官記章が光を放つ。
場所は霞が関の一角、東京地方裁判所。冬の冷たい太陽に照らされた白き威容。何者にも侵されず、縛られず、孤高を保ち、人々の権利を保護する裁判所は、この国の司法を守る「最後の砦」と称される。
その511号法廷。廷吏の声が響いたのは、ほんの数分前のことだった。
「起立!」
木製の扉が開き、黒い法服に身を包んだ合議体の3人すなわち裁判官が入廷。全員が着席。裁判長の低い声。
「それでは、令和〇年、(わ)第1611号、木賊治に対する機微技術国際流通管理法違反事件の審理を開始します」
形式的な人定質問、起訴状朗読、黙秘権などの告知、被告人の認否……真実を希求する男の声。
「それでは検察官。冒頭陳述をどうぞ」
裁判長によって、正しく執行された儀式。ここで築き上げられた重い緊張感を、薫子は咆哮によって吹き飛ばしたのだった——。
薫子は物語を紡ぎ始めた。高らかに、冷徹に、しかし華やかに。
「被告人・木賊治は、自らが社長を務める木賊工業において、特定の状況下で凶悪な神経ガスを、ごく微量とはいえ確実に生成し得るマイクロリアクター『TFCR』を製造しました。そしてその危険性を熟知していながら、経済産業省の承認を得ることなく違法に輸出。その技術が日本と緊張関係にある周辺国で兵器転用される可能性をもたらしたのです!」
手のひらを上にし木賊治を指し示す姿は、さながらキャストを紹介する舞台女優のようだ。広い袖口がはためく。
「被告人は、輸出先が軍事技術開発に関わる企業であることを知りながらも、自らの利益のために輸出を強行したのです。さらに、軍事転用の可能性を認識していたからこそ、形式的に『平和利用誓約書』を取り交わしていました。まさしくこれは、自らの行為の違法性を自覚していた動かぬ証拠です!」
検察の物語は淀みなく、そして強固に築き上げられていく。
「被告人は警察・検察の取り調べにおいて『輸出先の軍事情勢を調べなかったことを後悔している』『強力な薬品の使用に耐えることは知っていた』という趣旨の発言もしております。ここに、国家安全保障に対する意識の欠如と利益優先の傲慢さが歴然と見て取れるではありませんか!」
立ちあがろうとする葉桜の手を机の下で引っ掴む哲也。「まだです」とその目が語る。薫子も九印側に手のひらを向け、静止していた。
「弁護側は『強引な取り調べ』『実験条件の恣意性』などを口にするでしょう。しかし検察の立証は、客観的証拠に基づいています。おそらく彼女らが問題視する〝黒塗りの資料〟は、国家安全保障に関わる情報を秘匿するためのものであり、裁判の公正を損なうものではありません。必要な部分は十分に提示されています」
薫子は一拍置き、法廷全体を見渡した。
「要するに——」
傍聴席、被告人、裁判官、その全員を視線で射抜く。そして僅かに首をかしげ、傍聴席の石田だけが気づく薄い笑顔をたたえた。
「被告人らの行為は、国を危機にさらす裏切りでした。自らの利益のために、技術を差し出したのです。その行為を放置すれば、わが国の安全保障は崩壊します。検察は、本件がいかに重大かを立証し、厳正な裁きを求めます」
薫子は、再び一礼して席に戻った。
くるりと身を翻すその姿は極めて冷静。だが、法廷に居合わせた者たち……傍聴席の彩花や浩志、ひかるさえも、彼女が放った「戦争」という言葉の熱をまだ肌に感じていた。
「検察側は証人として公安七課捜査官3名、木賊工業社員3名。証拠として供述調書16件、鑑定書3件、押収資料データ400点余りを提出いたします」
あまりに膨大な数字に、法廷はざわついた。
「異議を申し立てます」
哲也が声を上げる。
「供述調書の多くは任意性に重大な疑義があり、黒塗りされた資料群についても証拠としての適格性が欠けます。このまま認めることは、防御権の侵害です」
「異議は留保、採否は追って判断します」
薫子の唇に、また小さな笑みが浮かぶ。
今度こそ葉桜は、ゆっくりと立ち上がった。おっつけ、裁判長が認める。
「弁護人、意見陳述を」
彼女の視線は、俯く治の固く握られた拳に一瞬だけ触れる。それから傍聴席の彩花、浩志へと移る。
「弁護人、九印葉桜です」
葉桜の声は、法廷の隅々にまで響き渡る芯の通った響きを持っていた。
「検察官は、被告人・木賊治氏が、国家の安全保障を脅かす悪意ある犯罪者であるかのような『物語』を、見事なまでに語られました。しかしその物語には、決定的に欠けているものがあります。それは、真実です」
その響きは、傍聴席の聴衆を瞬く間に掌握した。
「木賊治氏は、日本のものづくりを支える一流の技術者です。彼らの製造したリアクターは医療技術や化学研究の進歩に寄与する、夢と希望に満ちた装置です。それを、特定の条件下でのわずかな反応をもって『兵器』と断定し、純粋な研究意図を歪曲するとは、技術者への冒涜であり、日本のものづくりに対する言語道断たる不当な評価です!」
哲也が、葉桜の横顔を見つめる。彼らの反証実験の成果、そして木賊工業の信念が、この言葉に凝縮されている。
「検察官は、被告人の『誠意』をあたかも『故意』の証拠であるかのように語りました。しかし、それも誤りです。技術者は、自らの技術が意図せず悪い方向に利用される可能性を常に憂慮します。その『もしも』に対する真摯な反省と、法が禁じる『故意』とは、全く異なる次元の話です」
たたみかける声に怒りの色を滲ませるのは、本心か演出か。
「そして、検察官から提出される供述調書。これこそが、この物語の最大の欺瞞! 長期にわたる勾留と繰り返された逮捕、家族を生贄にするかのような非人道的な取り調べの下、被告人を精神的に極限まで追い詰めた状況で得られたものです。その作成過程には重大な疑義があり、その任意性・信用性は、断じて認められるべきではありません! 警察・検察が都合の良い『物語』を作るために、1人の技術者、いえ、家族の尊厳を踏みにじったのです」
ここで葉桜も一拍。視線を薫子に向け、高らかに宣言する。
「我々弁護人はこの裁判において、検察官が提示する『虚構の物語』を必ずや打ち砕きます。そして被告人木賊治氏の無罪を、彼の技術者としての誇りと名誉を、必ずや回復してみせましょう。この法廷は、真実を裁く場であると信じております!」
葉桜は一礼し、席に戻った。薫子の前口上によって検察側に傾いていた流れは、葉桜の演説によって一気に引き戻された。
「喧嘩腰じゃん……」
聞き覚えのある声に、傍聴席のひかるは振り返った。
「四之宮さん!」
四之宮祐斗。かつてひかるの訴訟において、彼女をその知識と度胸で支えてくれた、職場の元・先輩だった。
「裁判って映画とかドラマでしか見たことがなかったから、一度傍聴に、と思ってね」
皮肉屋だが知識欲旺盛で、前職ではひかるの守護神だった男が、久しぶりに姿を見せたのだ。
「さっきの証拠調べも検察の意見が通ってた。そんなこんなで刑事裁判っていうのは弁護側に不利なケースが多いらしい。でもまあ、まずは互角のスタートじゃないかな」
四之宮による小声の解説に、ひかると彩花は「うん、うん」と頷くのだった。
裁判長が時計を確認した。
「本日の審理はここまでとします。次回期日は2月24日午前10時。閉廷」
廷吏の「ご起立ください!」の声に従って、3人の裁判官が法壇を去る。彩花は拳を握りしめ、彼らを見送るのだった。




