第七章 ひかりとやみ chapter06
原宿署の接見室。アクリル板越しに葉桜が身を乗り出した。
「木賊治さん。今日は大事な話をしに来ました」
治は痩せた頬に困惑の表情を浮かべた。
「弁護士さん……私らはこれからどうなりますか……?」
葉桜は深く息をつき、切り出した。
「黙秘してください。何があっても。調書にはサインしないで」
「……無実なのに、何も話さないなんて。おかしいじゃないですか」
「今はあなたが話したことは全部、検察の武器になります。事実を切り取り、都合のいい文脈で調書に書く。サインしてしまうと訂正も難しいのです。この裁判は裁判員裁判にはなりません。調書に重きが置かれるのです。裁判官は〝自分で認めた〟と受け取ります」
治は拳を握った。
「じゃあ……真実を伝える場は」
「法廷です。それまでは……黙秘を貫いてください」
葉桜は声を低くした。
「黙秘権は正当な権利。でも日本では現実問題、黙秘は不利に働くことがあります……。裁判官も人間です。〝なぜ話さない?〟〝反証なし〟と判断されることがあるのです。本来、権利が不利に働くことなどあってはならない。それでも今は……黙るしかないのです」
葉桜は九印法律事務所に戻り、哲也とひかるに方針を伝えた。
「父子そろって黙秘一貫。調書は一切署名しない」
ひかるが不安そうに眉を寄せた。
「でも、世間は黙っている人を怪しみませんか?」
「それも困ったものなんだけどね。でも世間の目じゃなく、証拠になるかどうか。今はそこだけを考えるの」
と葉桜。哲也も口を挟む。
「供述は一度出たら撤回できない。できるとしても、相当にハードルが高いんだ。無実でも、言葉尻を切られて有罪補強に使われる。黙秘は唯一の防御なんです」
「黙秘でおそらく2人の勾留は長くなる。彩花さんに理解してもらわないとね」
ひかるがここまで渋い葉桜の表情を見るのは、初めてのことだった。それほどまでに厳しい闘いになるのか……初めてこの事件の重さ、深さが分かったような気がした。
その後も、公安七課の取り調べが続いた。治の前に現れた早瀬は、机に分厚い紙束を置く。
「これ、お父さんはサインしたよ」
治の眉が動く。
「嘘だ」
「嘘じゃない。お前だけが頑なに黙ってるんだ。裁判官はどう思うかな。このままだと拘置所暮らしも長くなるぞ」
別の部屋、今度は江藤が浩志に同じ言葉を投げかける。
「息子さん、話してくれてますよ」
浩志は無言で俯いた。そこで調書の束が再び差し出される。
「ここ、名前だけ書けば終わるから。一日でも早く家族に会いたいでしょう。いや、このままだとお孫さんもこっちで預かることに……」
感情を揺さぶる一言が、胸に刺さる。調書に書かれた無害に見える文章、しかし葉桜が警告した通り、集中して読み込めば「不正と知りつつも」「非該当と都合よく解釈し」と言った文言を発見できただろう。これらに一度署名すれば、事実が検察の物語に組み込まれていくのだ。
取り調べがない日もあった。留置場の独房で、時を刻む秒針の音だけが響く。昼の弁当の匂い、遠くで鳴る鉄扉の開閉音。話し相手もなく、ただ天井を見上げる時間が続く。静けさが孤独と不安を増幅させ、精神は少しずつ乾いていく。人恋しさが「厳しい追及でも、人と話せる方が楽だ」という錯覚を生む。
放置された次の日、決まって捜査員たちの物腰は柔らかい。世間話から始まり、徐々に距離を詰めてくる。
「もうすぐ桜が咲きそうだ。娘さんは元気なさそうでしたよ。なるべく優しく事情を聞いてるんですがねえ」
「治さん、あなたの認め方次第で早く解放されるんですよ。これは間違いない事実で」
解放、という言葉に一瞬、心が揺れる。それを見逃さない捜査員たちは「じゃあ、あの書類にサインだけしてよ」と切り込んでくる。
黙秘という行為は日ごとに重くなっていった。沈黙を守ることが、まるで自分の存在をすりつぶす作業のように感じられる。
勾留期限の10日が過ぎるころ、葉桜たちはささやかな抵抗を試みた。
「哲先生。〝新たな証拠が見るかる可能性も低く、逃亡の恐れもない〟として裁判所に勾留延長却下請求を出そう」
「そうだね……」
——当然、その請求は却下された。なにせ木賊の2人は否認しているのだ。裁判所からの意見を求められた検察は、九印からの求めを、あっさりと拒否した。
「否認事件だからな……延長はほぼ自動的に決まる……」
裁判所からの回答に、哲はデスクでため息をついた。
さらに10日の延長。忙しさの合間を縫って訪れる葉桜と哲也は木賊の2人を励ますが、彼らの生気は、日に日に削り取られているのが分かった。
「ほんっと、やりにくいったら……」
この闘いが苦戦続きであることを、九印の誰もが痛感していた。




