表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
48/83

第七章 ひかりとやみ chapter06

原宿署の接見室。アクリル板越しに葉桜が身を乗り出した。

「木賊治さん。今日は大事な話をしに来ました」

治は痩せた頬に困惑の表情を浮かべた。

「弁護士さん……私らはこれからどうなりますか……?」

葉桜は深く息をつき、切り出した。

「黙秘してください。何があっても。調書にはサインしないで」

「……無実なのに、何も話さないなんて。おかしいじゃないですか」

「今はあなたが話したことは全部、検察の武器になります。事実を切り取り、都合のいい文脈で調書に書く。サインしてしまうと訂正も難しいのです。この裁判は裁判員裁判にはなりません。調書に重きが置かれるのです。裁判官は〝自分で認めた〟と受け取ります」

治は拳を握った。

「じゃあ……真実を伝える場は」

「法廷です。それまでは……黙秘を貫いてください」

葉桜は声を低くした。

「黙秘権は正当な権利。でも日本では現実問題、黙秘は不利に働くことがあります……。裁判官も人間です。〝なぜ話さない?〟〝反証なし〟と判断されることがあるのです。本来、権利が不利に働くことなどあってはならない。それでも今は……黙るしかないのです」


葉桜は九印法律事務所に戻り、哲也とひかるに方針を伝えた。

「父子そろって黙秘一貫。調書は一切署名しない」

ひかるが不安そうに眉を寄せた。

「でも、世間は黙っている人を怪しみませんか?」

「それも困ったものなんだけどね。でも世間の目じゃなく、証拠になるかどうか。今はそこだけを考えるの」

と葉桜。哲也も口を挟む。

「供述は一度出たら撤回できない。できるとしても、相当にハードルが高いんだ。無実でも、言葉尻を切られて有罪補強に使われる。黙秘は唯一の防御なんです」

「黙秘でおそらく2人の勾留は長くなる。彩花さんに理解してもらわないとね」

ひかるがここまで渋い葉桜の表情を見るのは、初めてのことだった。それほどまでに厳しい闘いになるのか……初めてこの事件の重さ、深さが分かったような気がした。


その後も、公安七課の取り調べが続いた。治の前に現れた早瀬は、机に分厚い紙束を置く。

「これ、お父さんはサインしたよ」

治の眉が動く。

「嘘だ」

「嘘じゃない。お前だけが頑なに黙ってるんだ。裁判官はどう思うかな。このままだと拘置所暮らしも長くなるぞ」


別の部屋、今度は江藤が浩志に同じ言葉を投げかける。

「息子さん、話してくれてますよ」

浩志は無言で俯いた。そこで調書の束が再び差し出される。

「ここ、名前だけ書けば終わるから。一日でも早く家族に会いたいでしょう。いや、このままだとお孫さんもこっちで預かることに……」

感情を揺さぶる一言が、胸に刺さる。調書に書かれた無害に見える文章、しかし葉桜が警告した通り、集中して読み込めば「不正と知りつつも」「非該当と都合よく解釈し」と言った文言を発見できただろう。これらに一度署名すれば、事実が検察の物語に組み込まれていくのだ。

取り調べがない日もあった。留置場の独房で、時を刻む秒針の音だけが響く。昼の弁当の匂い、遠くで鳴る鉄扉の開閉音。話し相手もなく、ただ天井を見上げる時間が続く。静けさが孤独と不安を増幅させ、精神は少しずつ乾いていく。人恋しさが「厳しい追及でも、人と話せる方が楽だ」という錯覚を生む。


放置された次の日、決まって捜査員たちの物腰は柔らかい。世間話から始まり、徐々に距離を詰めてくる。

「もうすぐ桜が咲きそうだ。娘さんは元気なさそうでしたよ。なるべく優しく事情を聞いてるんですがねえ」

「治さん、あなたの認め方次第で早く解放されるんですよ。これは間違いない事実で」

解放、という言葉に一瞬、心が揺れる。それを見逃さない捜査員たちは「じゃあ、あの書類にサインだけしてよ」と切り込んでくる。

黙秘という行為は日ごとに重くなっていった。沈黙を守ることが、まるで自分の存在をすりつぶす作業のように感じられる。

勾留期限の10日が過ぎるころ、葉桜たちはささやかな抵抗を試みた。

「哲先生。〝新たな証拠が見るかる可能性も低く、逃亡の恐れもない〟として裁判所に勾留延長却下請求を出そう」

「そうだね……」

——当然、その請求は却下された。なにせ木賊の2人は否認しているのだ。裁判所からの意見を求められた検察は、九印からの求めを、あっさりと拒否した。

「否認事件だからな……延長はほぼ自動的に決まる……」

裁判所からの回答に、哲はデスクでため息をついた。

さらに10日の延長。忙しさの合間を縫って訪れる葉桜と哲也は木賊の2人を励ますが、彼らの生気は、日に日に削り取られているのが分かった。

「ほんっと、やりにくいったら……」

この闘いが苦戦続きであることを、九印の誰もが痛感していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ