第六章 絶路 chapter06
「お戻りか、じゃあ原宿署に行ってきますわ」
公安七課オフィスにいた早瀬が三原沙耶香に嫌な笑顔を向ける。これは公安事件である。そのため2人が警察署に戻されることを、七課のベテランたちは知っていたのだ。
「娘を利用しようが何をしようが、うちと日本の平和のためだ。福田参事官やその上のお墨付きもある。この20日間で吐かせてやるさ。三原補佐官、木賊の娘をまた任意で引っ張るかもしれん。木賊にはそれが一番効くからな。その時はまた立ち会いを頼みますよ」
そう言い残し、取り調べ担当の捜査官たちは、取り調べを行う原宿署へと出ていった。
逮捕から約56時間。木賊親子は再び原宿署留置場の住人となった。再び拷問にも近い日々が始まる。
「木賊さん、明日からよろしく」
沙耶香に見せたものと同じ笑顔で、早瀬は治たちを出迎えた。そのまま治と浩志はそれぞれ単独坊へと送られる。と同時に、2人は、壁の傷、天井の染みを数える間もなく、深い眠りに落ちるのだった。
「よく眠れてるか? あんたみたいな売国企業の人間に税金で飯を食わせるのももったいないんだがね。どうだ、経産省を欺いて輸出にこぎつけた件、もう認めるな?」
「弁護士を呼んでほしい」
「……なに?」
「弁護士を呼べるんですよね。呼んでください。高齢の父にも」
「日本の安全を売っておいて、弁護士? 良かったな、寛大な国で。しかし呼べるのは治さん、あなたのだけだ。本人が希望しないことにはな。浩志さんにも権利告知はしてある。呼ぶも呼ばないも本人次第だ」
弁護士、という言葉に早瀬は少しイラついた。しかしそれを顔に出すほど青くない。こちらが不利になるかもしれないことを気取られてどうするのだ。
「長引くだけですよ? 裁判所の心証もどうなるか。……分かった、弁護士会を通じて当番弁護士を呼びましょう。言っておくが当番弁護士と接見できるのは一度だけだ。これも決まりなんでね」
自身を閉じ込める石の壁への小さな〝ひび〟となるか無力なこだまとして消え入るか、分からない。しかし逮捕後4日目、少し落ち着きを取り戻した治にできるのは、これしかなかった。
「この悪あがきで親父さん、どうなるかな。あと、あんたがくれたこの時間で、彩花さんに話を聞く機会も作れそうだ。国も家族も売る。大した経営者だ。そうそう、あの子、狭い部屋が苦手みたいですな」
刃のような言葉を残し、早瀬は取調室を出ていった。治はそのまま、単独房へと送り返された。
原宿署の薄暗い接見室、そこに通された治の前に立つ、初老の男性。男は、名刺を差し出すでもなく、静かに椅子に腰かけた。
「木賊治さんですね。弁護士の西山です。弁護士会から派遣されてきました」
「ありがとうございます……」
絞り出した声は、ひどく掠れていた。西山は治の憔悴した顔を見つめ、静かに切り出した。
「今の状況について説明します。この勾留は最長で20日、その間に検察官は起訴するかどうかを判断します。起訴されれば、さらに裁判のために東京拘置所で身柄の拘束が続きます」
治は、生気を失った目でただ頷いた。
「弁護士さん。お願いしたいことがあります」
「何でしょう」
「娘の彩花に、私と親父はなんとか大丈夫だと伝えてほしい。心配するな、と」
弁護士は黙って頷き、ペンを走らせた。その沈黙が、治の言葉の裏にある絶望を際立たせる。
「そして、もう一つ…」
治は息を継いだ。
「親父、木賊浩志にもこのまま会っていただけないでしょうか。高齢で、きっと私以上に参っているはずです」
弁護士はペンを止めた。その表情に薄い困惑の色が浮かんだ。
「お気持ちはよく分かります。しかし残念ながら、ご本人からの依頼がなければ……法的に許されないのです。すぐに弁護士会に相談してみますが、今日明日というわけには……」
治は肩を落とした。父を案じる気持ちが、法律の壁によって阻まれる。この非情なシステムの中で、自分がどれほど無力であるかを思い知らされた。
「あなた自身の弁護についてですが、この事件は専門性の高い経済事件であり、複数の関係者が絡む複雑な案件です。当番弁護士としての私の役割は、ここでの初回のアドバイスまでとなります」
弁護士は言葉を選んだ。
「正直なところ、私の専門は主に一般民事で扱うのは離婚や親権、交通事故などが多く……これほど複雑な刑事事件は専門外なのです。この件は、刑事事件、経済事犯に詳しい経験豊富な弁護士に依頼されることをお勧めします」
治の希望は、次々と打ち砕かれていった。娘へのメッセージは伝わるかもしれない。だが、父を救うことも、自分自身を救うことも、この場では叶わない。頼みの綱だと思った弁護士にも、自分の事件は手に負えないと言われた。
「娘さんには今の状況と、ご伝言をお伝えします。とにかく取り調べでは、黙秘を続けてください。警察、特に公安は、自分たちのストーリーを構築する技術に長けているのです」
「……分かりました」
治はそれ以上、何も言えなかった。言葉にならない絶望が、冷たい接見室に満ちていた。




