第六章 絶路 chapter02
「分かりました」
そう答えて東京地検特捜部副部長の前を辞した薫子は、自身の執務室に戻った。〝弟子〟である検事の松本、検察事務官の石田が揃っていた。この3人が、最近の薫子のチームである。
「新しい事件が入るよ。松本は覚えてるでしょ、木賊工業。石田さんにはこないだ伝えたっけ?」
石田明彦、今日もきっちりとグレーのスーツを着こなす、白髪混じりの髪を整えた事務官だ。キャリアも長く、薫子も信頼を置いている。
「先日、松本検事と話しておられましたね。MTS法違反、こちらに回ってくるんですか。信頼されてますね」
「予告があったわ、ありがたいことにね。起訴と証拠固めは公安部主体、公判を特捜部・竜崎が担当せよ、と。逮捕は間もなく」
「あちらが捜査担当、こちらが公判担当、ですか」
まずはチェコへの輸出の件で、木賎治と浩志の身柄を確保するらしい。薫子は石田に公安部との連携スケジュールの確認を依頼した。松本は緊張した面持ちで頷き、石田は静かにメモを取った。
翌朝、午前9時。木賊工業に2台の覆面パトカーが再度侵入を果たした。紺色のウインドブレーカー姿の男たちが4人。1人が冷たい声で言った。
「警視庁公安部・外事第七課の者です。木賊浩志さん、木賊治さんは出社していますね」
その瞬間、彩花の背筋に冷たい何かが流れた——来た。夢で何度も繰り返された悪夢が、現実になったのだ。
「MTS法違反の容疑で、逮捕状が出ています。お二人とも、身支度を整えていただけますか」
捜査員の1人が、手袋をした手で紙を差し出す。罪名は機微技術管理法……MTS法の違反だ。
声をかけられた浩志は、気配を察していた。治も静かに立ち上がり、上着をまとう。
浩志は彩花を見た。怯えるような、縋るような目で孫娘が立ち尽くしている。
「大丈夫だ、すぐに帰ってくる。彩花、社を頼んだぞ」
「お父さん……じいちゃん……」
こうして2人の男は、あっけないほど簡単に連れ去られた。抵抗や反抗を試みる隙間すらない。淡々とした事務的な手続きの中で、大切な家族は、彩花からもぎ取られてしまった。
浩志と治は無言で車へと案内された。彼らの身は、原宿署へと送られる。どういう事情かは、浩志にも治にも、告げられることはなかった。
午前9時40分、木賎治と浩志は別々の護送車から降ろされ、留置管理の担当官に引き渡された。薄暗い廊下を進む2人の足音が、湿った空気に反響する。公安七課の早瀬が先導し、留置担当の警官が書類を確認する。
「木賎治、56歳。木賎浩志、78歳。MTS法違反の被疑者。留置手続きを進める」
治と浩志は、個別のブースに通された。そこは狭く、灰色の壁に囲まれ、蛍光灯が冷たく光っている。警官が、淡々とした口調で説明を開始した。
「私物は全て預かります。指紋採取と写真撮影の後、官品に着替えてください」
治はスーツのポケットから財布と携帯電話を取り出し、プラスチックのトレイに置いた。浩志は古びた腕時計を外し、トレイに載せた。警官が私物を封筒に詰め、金属探知機で身体検査を行った。
「いきなり犯罪者扱いだな」
浩志が呟いたが、警官は無表情で応えた。
「手続きですので、ご協力ください」
指紋採取、写真撮影。澱みなく進む手続きの中、木賊親子はかろうじて正気を保っていた。未体験の出来事の中で、少し興奮状態にあったのかもしれない。しかしここから先、2人の心は静かに折られていく。
官品への着替え。留置場の更衣室は、消毒液の匂いが漂う狭い空間だった。手渡されたのはグレーのスウェット。クリーニングはされているが、何度も使われたのだろう、いやに柔らかい手触りだった。袖口とズボンの裾には番号が縫い付けられている。治は小さなため息をひとつつき、着替えた。生地が肌に擦れる「自分のものではない」とはっきり分かる感触。この扱いが、とうとう、治の中に屈辱を呼び起こした。
別室の浩志も、ゆっくりとシャツを脱ぎ、不自然に柔らかいスウェットに袖を通す。78歳の身体は、かつての工場での力を感じさせない。
「治、頭を下げちゃならんぞ。木賎の名前は、こんなところで汚してはいかん」
治と彩花の顔を思い浮かべ、心をまっすぐに立たせようとする浩志だった。
治と浩志は別々の階に分けられた。それぞれが案内されたのは、3畳ほどの空間だった。石のように冷たい壁には、過去の被疑者が刻んだ傷が薄く残る。
担当の警察官が去り、鉄のドアが重い音を立てて閉まる。房内には、薄い布団とステンレス製の便器があるだけだ。治は壁に背を預け、目を閉じた。浩志は床に座り、遠くで響く警官の足音を聞いていた。
「彩花……」
その先の彼の呟きは、石の壁へと吸い込まれていった。




