第五章 陥穽 chapter09
この日、木賊工業を訪れたアイビー工機の社長・伊吹と、経営コンサルタントの田中優子。2人は応接室に通されると、神妙な面持ちで治と浩志を見つめた。緊張感は部屋の空気を凍らせ、カップに注がれたコーヒーの湯気だけがゆらめいていた。
「今日は、重い話をしに来ました」
伊吹がゆっくりと切り出した。優子は沈黙を守りながら、手元の書類に視線を落としていた。
「製薬装置開発コンソーシアムから、木賊工業さんを外す方向で、経産省と調整が始まっています。正式決定ではありませんが、今の情勢では……」
言葉を選ぶ伊吹の目には、申し訳なさと同情と、何かを決断した者の確かな意志が宿っていた。治は目を見開き、浩志は顔を伏せた。あまりに突然の話だ。しかし、覚悟をしていなかったわけではない。
「そうですか」
ようやく答えた治の声は掠れていた。
「ただ、私は、木賊さんのマイクロリアクター技術が必要だと考えています。正直に言って、あの品質、あの信頼性はほかに替えがたい。ですから——」
ここで伊吹は背筋を伸ばした。
「木賊工業の精密機器部門を、アイビーに吸収合併させていただけませんか。雇用もそのまま守ります。開発も継続してもらって構わない。いろいろ手続きを踏むことになりますが、技術は守られます。皆さんの生活も」
静寂が訪れた。優子が小さく息を飲む。決断が早い——その早さは彼女の予想を超えていた。
「それは、つまり……」
浩志が口を開いたが、言葉にならなかった。言い淀む父の横で、治が重い声を絞り出した。
「私どもの……木賊の名前が、消えるということですか?」
伊吹はうなずく。そして、それ以上は何も言わなかった。ここで優子が静かに話し始める。
「私も正直、驚いています。ここまでのお話だとは……。でも、これは一つの正解かもしれません。企業の名前にこだわって社員が路頭に迷うより、皆さんの技術と生活を守ることを優先すべき、という経営判断もあります」
伊吹の提案は助け舟か、あるいは巧妙な策略か、にわかに判断はつかない。1人を除いて誰も、それを見抜くことはできなかった。
「ご検討ください」
そう言い残して、伊吹と田中は静かに部屋を出ていった。
話はすぐに社内に伝わった。社員たちがカフェスペースに集まる。皆に促され、治が簡潔に提案の内容を説明した。
「……つまり、木賊工業はアイビーの一部になるってことですか?」
篠原の問いに、治はうなずいた。ざわめきが走る。
「精密機器事業は継続できる。皆の雇用も守られる。ただ、会社の名前が消えるだけだ」
沈黙がざわめきに取って代わり、空気が一瞬にして凝固する。
その沈黙を破ったのは、意外なことに奈緒美だった。震える声ながらも明確に、こう言った。
「……それでも、私は、なんか嫌です」
皆が一斉に奈緒美に目を向けた。
「私たちは何も悪いことしてません。社長も相談役も、あやさんも、優しいしいい人だし。みんなちゃんと働いてきました。経営のこととかあんまよく分かりませんけど、こんな形で終わるのは、なんか、嫌です」
俯き、声を少し震わせて訴える奈緒美は、そのまま隣で立ち尽くす彩花に抱きついた。篠原が静かにうなずいた。
「俺もそう思う。木賊工業の名前は消しちゃいけません。俺たちは木賊っていう名前に誇りを持ってるんです。ここで潰されるなんて納得できない」
他の社員たちも、次々と声を上げ始める。
「たとえ仕事が減っても、ここで踏ん張らないと後悔します」
「社長、相談役、もう少しだけ粘りましょう」
皆の言葉に、治は頭を下げた。浩志の頬にも、静かに涙が伝っていた。
それは東京の下町で始まった、小さな決起集会だった。
木賊工業は、吸収合併の申し出を一旦断るという決断を下した。治の中に一つの確信が芽生える。
「会社は、技術だけでできているんじゃない。人がいてこそ、会社なんだ」
これから始まる嵐のような展開を前に、木賊工業は、自らの意志で「生き残る道」を選び取ったのだ。しかしそれがどれほど厳しい道であるか、誰よりも治が分かっていた。




