第五章 陥穽 chapter08
「木賊さんも今はちょっと仕事にならないでしょうね」
木賊疑惑の第一報が流れ、しかしまだ「炎上」には至っていなかったある日の午後。田中優子はアイビー工機の会議室にいた。机の上には新聞とタブレットが置かれている。いずれも開かれているのは「木賊工業経営陣に任意の聴取。輸出機器に軍事転用懸念」というニュースだった。
「経産省から連絡が入りました。『製薬装置開発コンソーシアムの件、しばらくストップします』と。そりゃあそうですよね、参加企業に警察の捜査が入ったんですから」
アイビー工機社長の伊吹は、残念そうに呟く。優子はタブレットを手に取り、SNSを開いた。
「トクサ祭りの時は彩花さん……木賊の広報で娘さんなんですけどね、彼女が盛り上げてたのになあ」
皮肉なことに木賊工業のフォロワーは増えている。しかし最近増えたフォロワーのほとんどは、いわゆる野次馬だった。
「売国企業、死の商人、テロリスト……ひどい書かれようね。いい会社なのに」
「しかし現実問題、この件が無実であれ犯罪であれ、トクサのTFCRがないと、実験や生成の効率はかなり下がります」
伊吹は事業停滞の現実に、ずいぶん沈んでいた。優子も残念そうに呟く。
「輸出が問題だったというだけで、この技術自体に罪はないわけですから……お役所も柔軟に構えてくれればいいのですが」
なるほど、確かにMTS法は〝輸出規制〟だ。国内で活用するには問題ないはずだ。とはいえ、この報道があった以上、木賊工業の事業参加継続を認めるのも難しいのだろう。優子が続ける。
「抜け道を探すわけではないですが、アイビーさんの経営にも関わることです。トクサ製品自体は悪いものではないのですが、これでは資金のショートが起こります。ここはちょっと知恵の絞りどころですね」
この女性は地アタマがいいと言えばいいのか、会話しているといろいろと知恵が湧いてくる気がする。そうだ、コンソーシアムは国内事業だ。発想の転換次第で道が開ける気がする。
そして数日後。〝木賊炎上〟を優子からの連絡で知った伊吹は、彼女に対し「近日中に木賊さんに伺います。一緒に来ていただけますか?」と返信するのだった。
優子と伊吹が話し合っていたその日、霞ヶ関の経産省ビルの中では、貿易経済安全保障局の調整官・藤堂が最終的な決断を下す時期に来ていた。彼らは「警視庁公安部が主導的立場となって進めるのであれば」のエクスキューズ付きながら、木賊工業への家宅捜索を認めたが、公安七課はいよいよ逮捕へと動こうとしているようだ。野添が「トクサのマイクロリアクターは輸出規制対象と認められる」という最終の報告書、実験結果を持って訪ねてきたことからも、それは明らかだった。
「実験では、ある程度の酸や有機溶剤に対して、トクサのリアクターは耐性を見せました。私たちの解釈では、これは十分に規制の対象です」
「もはや現場であれこれ決められる時期ではなくなりましたね」
「報道発表としては、木賊工業が巧妙にMTS法の網を掻い潜っていた、とします」
「MTS法運営の担当者としては、この法令違反を見過ごすわけにはいきません。早期に対応できたことを、むしろ喜ばしく思います」
「それでは、現場同士で意思の疎通も良好、ゴーサインが出たということで」
藤堂は胸のポケットから青い封筒を出して、野添に渡した。
「これ、公安さんからですよね? おかげでこちらも決断しやすかったです」
「これは?」
そう言って中を見た野添は小さく笑った。
「これはありがたい。トクサのリアクターの具体的な危うさが書かれているじゃないですか」
「てっきり、公安さんからのリークかと」
「うちではありませんね、書き方が技術的、経営的に専門的すぎる」
では、木賊工業のライバル企業からの情報か。おそらくアイビーさんかな……。
「お渡ししておきますので、捜査にお役立てください」
その言葉に、野添は一礼して、経産省を後にした。
この件は省庁のトップが了解したことだ、深くは追わずにいよう。あのややこしい青い封筒も公安に押し付けることができたことだし……。これが藤堂の処世術だった。
「ある程度の濃度、か。あやふやにせず、薬品名と濃度を入れておこう」
もう一つの現場、実証実験に携わっている早瀬と南波は、裁判所に送る捜査報告書のまとめに入っていた。
「神経ガスの前駆体が生成可能であったこと、それは正式に入れろ。一気通貫式のリアクターだ、そのまま神経ガスが作れる。兵器転用できるレベルの化合物が生成できる、ということを書くんだ」
「稼働時間と破損場所は——」
「書かなくていい。重要なことではない」
「分かりました」
「補佐官」
三原沙耶香が呼ばれた。
「チェコのフィロチェム社と深圳の晨星科技集団、この関係性を改めて調べてください。深圳側の資金がどの国から来ているのか。これが隣国であることを証明できれば、安全保障の大義名分が立つ。逮捕状の請求まであとわずかだ」
「分かりました。外務省に照会します」
無表情な補佐官に対し、早瀬は長くは意識を払わなかった。これが現実、これが現場だ。今後のために知っておけ——。
三者の現場で進んでいく三様の判断と決定。しかしそのどれもが、一つの結果に向かっていく——。




