8-5
古老の目が少し動き、アリーの左隣に注がれる。そこには、ふわふわと浮いているマリアがいる。
少し左に動いて、とアリーは目でマリアに訴えかける。マリアが小さく頷き、少し左に動く。古老の視線も、ほぼ同時にマリアを追って動いた。
間違いなく、マリアの姿が見えている。アリーもマリアも、信じられない気持ちでいた。
「わたしが、見えてるの……? あなたは、一体」
少し震えている言葉に、古老は申し訳なさそうに頭を伏せた。まるで怯えさせたことを詫びているかのように思えるが、どうすればいいのかわからなかった。
「少し、待って頂けますか」
俯けた顔から掠れた声が届くと、アリーは小さな声でうん、と答えた。
アリーから答えを聞くと、古老の体から唐突に魔力が迸り始めた。大分強い力で、この辺りの緑が少しずつ元気を失くしていくのがわかる。古老はどうやら、自分の体に大地の生命力を集め、魔力を練っているようだった。
やがて、古老の体に集まった魔力が弾け、眩い光が発せられた。眩しいが、目を開けられないほどではない。アリーが目を半分開けて見ていると、光の下に何かの影がうっすらと浮かび上がってきた。
その姿がはっきりした時、アリーもマリアも、思わず声を上げていた。
古老の背後に、半透明の体を持つ少年の姿が現れていた。ただ、驚いたのはそのことではない。
「ジャン……?」
マリアが、か細い声で呼びかけた。
目の前に現れた少年の顔は、確かに記憶の中にある混血児の少年、ジャンのものに違いなかった。最後に別れた時と変わらない姿をし、それでいてあどけなさの残る顔は、妙な懐かしさを覚えさせる。
「お久しぶりです、マリア様」
あの頃の声で、ジャンが言う。この少年が紛れもなくジャン本人であることは、もう疑いようがなかった。
それでも、マリアはまだ信じられないでいるらしく、何度も何度も強く瞬きをし、頬をつねったりしている。
「本当に、あなたなの? 一体、どうやって……?」
「本当にぼくですよ、マリア様。ぼくは、ずっと待ってたんです。禁断の魔法を使って、あなた様を待ち続けてたんです」
にこりと微笑みながら言うジャンに、マリアは涙を流して飛びついた。ジャンが、しっかりと抱き止め、泣き崩れるマリアを優しく見つめている。
――あの子も、やっぱり。
マリアの体を抱き止めたことで、ジャンもまた意識だけの存在だということを、アリーは確信した。元々、体が半透明であることと、姿が大昔と何ら変わっていないことが不可解だった。おそらく、ジャンの言った禁断の魔法がそういう作用をもたらしたのだろう。
マリアが泣き止み、ジャンから少し離れた。いくらか気持ちが落ち着いたのか、マリアの顔には真剣なものが浮かんでいた。
「色々聞きたいことがあり過ぎて、何から聞けばいいかわからない。ジャン、あなたが説明しやすいようにわたしたちに話して」
「わかりました。順を追って、ご説明いたします」
背筋を伸ばして一礼してから、ジャンが口を開いた。
「あの日、マリア様と別れたぼくは、グランツ様を追いかけて北の森へと向かい、何とかこの村に辿り着きました。この村にはやはり呪いを解く方法があって、そこでグランツ様と再会しました。したのですが、グランツ様はとても話を聞いてくれ状況でもなければ、誰かと話す余裕もなくなっていました。グランツ様の命を破り、この村まで追って来たぼくを叱責することもありませんでした」
「どういうこと? あの厳しいグランツが、そんなことを許すはずが」
「普通だったら、なかったでしょう。でも、あの時のグランツ様は違った。魔力の呪いを解くカギを得るために、体が壊れそうになるほど自分を追い込んでいたんです。そんなグランツ様を気味悪がって、村人は近寄ろうともしなくて。ぼくは気が気でなくて、この村に留まったんです」
ジャンが、遠くに目をやる。その双眸には、うっすらと涙が滲んでいた。
「グランツ様は、呪いを解く方法を見つけていました。ただそれは、未完成の方法で、マリア様の呪いを解けるかどうかはわからなかった。それでもその可能性に縋り、この村に留まってその方法を得ようとしたのです。連絡する間も惜しみ、その力を得ようとしたのです。そして、ぼくが来てからひと月後に、グランツ様は漸くその力を半分得たのです」
「半分?」
「そう、半分です。元々未完成だったというのもありますが、人間であるグランツ様では、半分が限度だったのです。その方法をなすための力は、半分までしか体に刻み込めなかった」
「刻み、こんだ……?」
マリアが、顔をやや青ざめさせながら言った。
「ええ。グランツ様が得たその方法は、呪われた魔力を奪い取り、別のものに移すこと。そのために、自分の体を力の入れ物になるようにしなければならなかったのです。魔力を注ぎ込んでも、体に無理やり留め置けるように」
「留め置ければ、自分の意思で別のものに呪いを移せる。命のない無機質なものに移せば、誰も死ぬことがない……」
「そういうことです。伝承などに、魔剣とか呪われた武具とかの話がよくあるでしょう? それは、その方法によって呪いが移され、いわくつきのものになったからというのが殆どなんです」
「殆どって、そんなに例があるくらいに、呪われた人がいたって言うの?」
「そうなります。魔力が呪われることは、この国の魔族には多かったみたいですから」
「どうして?」
つい気になって、アリーは割って入るようにジャンへと問いかけた。
ジャンが、悲しげな表情を浮かべながら、アリーに視線を向けた。
「この国が、ずっと争ってたからですよ」
「争ってたから」
同じ言葉を反芻するように呟いて、アリーは思考を巡らす。
遥か昔、この国を支配しに来た魔族は、そのために魔法を使って多くの命を奪った。大地は血で穢れ、多くの恨みを吸った。それが何度も何度も繰り返され、今になっても尚、この国の大地は汚れたものを厚着するように、何枚もその身に纏って来た。もう、どうやっても落ちることはないくらい、汚れきってしまっている。
強力な魔法は、大地の生命力を借りて発現する。しかし、穢れたその力を使い続ければ、どうなるのか。
「もしかして、大地の生命力はもう穢れ切っていて、魔法を使えば使うほど、自分の魔力が蝕まれるってこと?」
そのことに気づいて、アリーが恐る恐る口にすると、ジャンが小さく頷いた。
「ぼくたちが生きていた時代からして、もうこの国の大地はどうしようもなく穢れていたんです。争いは絶えず、流れる血だってあまりにも多かった。それなのに、魔族は強力な魔法をたくさん使い続けた。呪われた魔力に干渉されて、自身が呪いにかかることも多かったみたいなんです。だから、解呪するために、さっきの方法が編み出された」
「でも、未完成だった」
アリーが呟くように言うと、ジャンが少し俯いた。
「奪う魔力が強すぎると、身体の方が蝕まれてしまうみたいなんです。奪い取った時には、一度自分の肉体に引き入れなくてはならない。それは、屈強な力を持った魔族でも、耐えきるのは難しかった」
「じゃあ、ラルバは」
少し嫌な想像がアリーの頭をよぎったが、微かに笑んだジャンの次の言葉を聞いて、それは杞憂であることを知った。
「グランツ様は、力をちゃんと使えるようになりましたよ。勿論、元の半分程度の力です。それでも、呪いを対処するには十分でした。十分でしたが、その力を望む形で発揮する機会はありませんでした」
「どうして?」
「決まってるよ」
割って入ったマリアの声は、いやに沈んでいた。
「わたしが、死んだからでしょ……?」
マリアが、天を仰ぎながらぼそりと呟く。澄み切った空を見上げる瞳には、対照的な暗く曇ったものが宿っている。
聞かなくてもわかるはずのことを口にして、アリーは束の間後悔した。マリアとは、過去の記憶が同調している。少し考えれば、答えなどすぐに見つかったはずなのだ。それなのに容易く答えを求め、マリアに余計な悲しみを与えてしまった。
アリーは、思わず俯いた。その様を、悲しみと受け取ったのだろうか。ジャンもまた、沈んだ声で返してきた。
「……はい。死ぬ思いで力を手に入れた時には、マリア様は反乱軍の許を離れ、行方知れずとなっていました。僕たちは、あなた様の状態を知っていた。あなた様が死を望んでしまったのも、何となく理解していました。だけど、ぼくもグランツ様も、受け入れられなかった」
マリアのすすり泣く声が聞こえてくる。ジャンは俯いているが、言葉を止めようとはしない。
「目的をなくし、ぼくたちはしばらく、この村で抜け殻になったように過ごしました。同志のことも、仇のこともどうでもよかった。マリア様がいない。それが、ぼくたちから前に進むことを奪ってしまったのです」
でも、と続けたジャンが、俯けた顔を上げた。表情は、一層暗いものが浮かんでいる。
「ぼくたちの前には、無理やり道が示されたのです。マリア様、あなた様が意識だけの存在になったのは、いつですか?」
「えっ? そんなの、わからないよ。気が付いたら、ずっと遠くのお空から、この地上を見下ろしてたんだから」
その言葉にジャンは一瞬悲しい顔をし、束の間言葉に詰まった。
「……そう、でしたか。まあ、そのことは置いておきましょう」
一度仕切り直すようにジャンが言葉を切り、すぐに次の句を継ぐ。
「ある時、西の方を中心に、多くの人が唐突に謎の死を遂げ、辺り一面の草木が枯れ果てたことを風の噂で耳にしました。そして一緒に、こんなことも聞こえてきました。国の賢人たちはその返事を魔女の呪いと噂し、不気味がって何の対処もしない。当然、国の上に立つ者だって同様です。その間にも、人も自然も多くが死んでいったのだと、風の便りは嫌でも知らせてきました」
意識だけの存在になったマリアが、この国を覆っている魔力の囲いを支配した時だろう、とアリーは思った。その溢れんばかりの力の余波が、この国を襲ったのに違いない。
それでも、何もしないのは許されることではない。
「ひどい。そんなこと、黙って見ていたくないよ」
「ぼくもですよ、アリーさん。そして、グランツ様もそうでした。同時に、ぼくらは直感したんです。マリア様は死ねずに、呪われた力によって踊らされ、再び命を求め始めたんだって」
「どうして、そう思ったの?」
「理由なんていらないんです。ぼくたちの間には、言葉では言い表せない何かがあったのだから」
優しく、それでいてはっきりとした声音で、ジャンが言い切った。
「ジャン……」
マリアが、涙で瞳を潤ませながらジャンを見つめる。それに気づいたジャンが、マリアににこりと優しく微笑んだ。




