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私を忘れて  作者: 千変万化
八章 「さよなら」
94/125

8-2

 アリーは、少し遠くへと視線を巡らした。

 依然として、周囲は木々に囲まれている。ゆっくり進んでいるとはいえ、大分前へと行ったのには変わりないのだが、それでも村らしきものは見えない。一応、進んでいる所は少し手が加えられた道のようなものだから、進む方向は間違っていないのだろうが、それでも一切の景色が変わらず、何も見えてこないとなると不安になる。

「……ねえ、本当にこっちで合ってるのかな?」

 いつの間にか考え事をやめていたマリアが、不安そうに口にする。

 ラインハルトも同様に思っていたのか、震える手で地図を開く。アリーは慌てて後ろから手を伸ばし、開かれた地図を支えた。

 地図に目を通すラインハルトが、小さく唸る。アリーは目いっぱい背を伸ばして地図を覗き込むが、今どの辺りにいるのかは見当もつかなかった。さっきの湖からどれくらい進んだのか、夢中になるくらいに話をしていたアリーには、わかるはずもなかった。

「もう少し、だと思う。僕も、ちゃんと距離を測っていた訳じゃないから、何とも言えないけど」

 少し自信なさげな言葉に、マリアの表情が曇る。ずっと同じような光景が続いているのだ。不安になっても仕方がなかった。

 その不安とは裏腹に、近場では小鳥がちゅんちゅんと可愛らしく鳴いている。気づいたマリアがパッと笑顔を浮かべてその姿を探し、見つけた小鳥に手を差し伸べる。だが、イデアルが近くを通りかかったからか、それとも実体のないマリアの並々ならぬ魔力に怯えたのか、引きつったような鳴き声を上げて驚き、慌ててどこかへ飛び去ってしまった。

 その姿を残念そうに見送っていたマリアが、小さく溜息を吐いた。

「あの鳥さんのように、お空を飛べたらなぁ。きっと、村なんてすぐに見つかるのに。でも、昔みたいに翼を生やすことは、もうできないし……」

「あれ、でも」

 何気なく言ったマリアの言葉に、アリーはきょとんとしながら首を傾げる。

「あなたは今、浮いてるんだよね? だったら、もっと高くまで浮いていけないの?」

「えっ」

 少し間の抜けたような声を上げ、ちょっとだけ呆然としたマリアが、照れ隠しのように笑い出す。

「……そうだった。わたし、今は浮いてるんだった。うっかりしてたなぁ、もう」

 両手を頬にやって赤らんだ顔を隠し、ぎこちなく笑いながらマリアは言った。アリーより少しだけ大人びた顔は、やはりどうしてもあどけなさの残る少女のものにしか見えなかった。

 ラインハルトが振り返り、アリーに視線を向けてくる。互いに視線が合った時、ちょっとおかしくなって、二人して小さく笑い声をあげた。

「もう。とにかく、ちょっと見て来るね」

 さらに顔を赤くし、拗ねたように口を尖らせたマリアが、ゆっくりと上へと向かっていく。意識だけの存在だから、頭上の枝葉にぶつかることなく、何事もなくすり抜けていった。

 マリアの姿を見送っていると、少し遠くで何かが聞こえた気がして、アリーはその方向へと目をやった。

 アリーの意識を蝕むことはなくなったとはいえ、体は魔女のままである。目はよく見えるし、耳は微かな音でも聞き取れる。

 森の緑が茂っているから、当然見えるわけはない。それでも辺りをきょろきょろと見ていると、また何かの音が聞こえた。大地を慌ただしく、強く踏みしめる音だろうか。アリーはそれが、どうしても気になった。

「どうしたんだ……?」

 落ち着かない様子のアリーに気づいたラインハルトが、か細い声で問いかけてくる。気になる音がする、と言おうとした時に、マリアが地上に戻って来た。

 戻って来たマリアの顔は、少し沈んでいた。

「浮かない顔だね。村は、見えなかったのか?」

「うん。ちょっと開けてる感じのところは見えたんだけど、はっきりはわからなかったよ」

 恥ずかしさと落胆がない交ぜになった表情で、マリアが溜息を吐く。ラインハルトも、小さく唸り声を上げていた。

 その間も、アリーは耳に意識を向け、音の出所を探ろうとしていた。

「……アリー、どうかした?」

 何の反応も示さないことに疑問を抱いたのか、マリアが顔を覗き込んできた。

 少し驚いて、アリーは思わずのけぞってしまった。マリアとしては脅かす気はなかったのだろうが、アリーはずっと音が気になって仕方がなく、話も上の空で聞いていた。視野も極端に狭くなっていて、心にゆとりもなかった。

 のけぞりすぎてイデアルから落ちそうになった体を慌てて堪え、何とか事なきを得てから、アリーはバツが悪そうに笑った。

 二人が、怪訝な顔をして見つめてくる。途端に恥ずかしくなって、アリーは顔が熱くなるのを覚えながら俯いた。

「何か、聞こえた気がしたの。それが気になってたら、他のことに意識が向かなくて、驚いちゃって」

「もしかして、足音か何かか?」

「多分。妙に、慌ただしい感じだった」

「まさか、追手か……? いや、こんなに立て続けとは、考えづらいが……」

 ラインハルトが顎に手を当てて考えていると、マリアが何かに反応したように、顔を左の方へと向けた。

 さっきまでの沈んだようなものではなく、真剣な表情を浮かべている。集中しているのか、マリアからは張り詰めたようなものを感じた。

「……うん、確かに聞こえる。獣の足音と、子どもの叫び声、かな。ここから西の、そう遠くないところだよ」

「わかるの、マリア?」

「自分で言うのも嫌だけど、魔女だからね。あなたよりも、わたしの感覚は優れてると思うよ」

「だったら、話は早い。先導してくれないか、マリア」

 ラインハルトが力強く言った。

 頷きかけたマリアが、束の間ためらった。ラインハルトの体をちらりと見て、口を噤んだのが何となくわかる。

 それをすぐに察したラインハルトが、語気をいくらか強めて続けた。

「子どもが叫んでいるならば、襲われているということだ。もたもたしていたら、子どもが死んでしまう。さあ、僕に構わず先導するんだ」

「……どうなっても自分のせいだからね、グランツ」

 マリアが声のしたと思われる方に向かって、一目散に向かっていく。ラインハルトはすぐさま馬首をそちらに向け、馬腹を蹴った。主の意思を感じ取ったのか、イデアルは前足を上げて高々といななくと、駆け足気味にその足を速めた。

 強い振動に、ラインハルトは顔を歪めている。それでも呻き声一つ上げずに、ただ真っすぐを見据えている。

 アリーは、そんなラインハルトが心配でならなかったが、不幸中の幸いか、駆ける距離はそこまで長くはなかった。

 西にいくらか行ったところで、十に満たないくらいの少年が大きめの狼に襲われている状況に出くわした。

 お腹を空かせているのか、狼は荒い息を吐いて涎を垂らしながら少年ににじり寄り、子どもは腰を抜かしてしまったのか、その場に座り込んで喚くばかりだ。

 まだいくらか距離があるにも拘わらず、ラインハルトは腰の剣に手をかけ、マリアが魔法を使おうと手を上げかける。それを、アリーは静かに制した。

「待って。ここは、私に任せて」

 二人が虚を衝かれて言葉を失うのをよそに、アリーはイデアルに制止を促した。駆けていた足が自然とゆっくりとなり、やがてイデアルは歩みを止めた。

 その背からそっと降りると、アリーは狼へと近づいていった。

「アリー!」

「何を考えてるの!?」

 二人の驚きと焦りに満ちた声が聞こえるも、構わず足を進める。

 アリーに気づいた狼が一度高い吼え声を上げ、それから殺気立てて身構えた。敵意と警戒心に満ちた唸り声を上げ、獰猛なものを宿した双眸でアリーを見つめてくる。

 その荒々しい狼に、アリーはそっと微笑みかけた。

「ごめんね。あなたがお腹を空かせてるのは、わかってる。でも、この子を食べないであげて。この子が死んじゃったら、きっとこの子の母様が悲しんじゃう。だから、お願い」

 声に一切の敵意を乗せずに、アリーは優しく言った。

 獣相手に、言葉が役に立つものか。傍から見た者ならば、そう言うかもしれない。しかしアリーは、言わずにはいられなかった。獣だろうが、心を込めた言葉は伝わると、アリーは思っている。それに言わなかったら、ラインハルトもマリアも、この狼を殺してしまっただろう。たくさんの死を見てきたせいで、もう何かが死ぬ様を見るのが、アリーは嫌だった。

 狼は警戒しているが、動揺もしているように見えた。唸り声は上げているが、さっきまでの敵意は大いに揺らいでいる。

 アリーは、声をかけ続けた。狼の敵意がなくなるまで、優しく話し続けた。

 やがて、不気味なほどの唸り声は鳴りを潜め、狼は諦めたように背を向け、ゆっくりと森の中へ去って行った。

 ほっとし、アリーは一度息を吐いた。うまくいってよかったと胸を撫で下ろし、くるりと振り返る。

 ラインハルトもマリアも、少年さえも唖然として固まっていた。驚きのあまりか、瞬きをすることもなく、口を魚のようにパクパクさせながらアリーを見つめている。

「す、すごいや!」

 衝撃から真っ先に立ち直ったのは、助けた少年だった。

 腰が抜けていたはずの少年がパッと立ち上がり、目をキラキラ輝かせながらアリーに近づいて来る。

 近づいて来る少年の容姿に、アリーは見覚えのあるものを認めた。燃えるような深紅の髪に、紅玉のような瞳。混血児の証だ。勿論、混血児だからと言って態度を変えることはない。

「お姉ちゃん、どうやって狼と仲良くできたの!? 狼が、怖くなかったの!?」

 興奮して早口でまくし立てる少年に向かってアリーは屈みこみ、同じ目線になるとにこりと微笑んだ。

「ううん、怖かったよ。でもね、話せばわかってくれると思ったんだ。それにあの時、狼さんとお話できなかったら、きっと誰かが死んじゃってたと思うの。私はね、それがいやだったんだよ」

「へえー。そんなので追っ払っちゃうなんて、本当にすごいや。だけどお姉ちゃん、とっても変わってるや」

「やっぱりそうかな? よく言われるんだ」

「うん、変わってる。でも、お姉ちゃんはとっても優しいんだね。襲われたけど、実はぼくも狼が死ぬのはいやだったんだ」

 にこりと満面の笑みを浮かべて、少年が続ける。

「お姉ちゃん、本当にありがとう! 今日のこと、絶対に忘れないよ!」

「大げさだよ。でも、ちゃんと助けられてよかった」

 穏やかに笑みを返し、アリーは束の間少年と笑い合った。

 笑みを浮かべながら、そういえば、とアリーは切り出した。

「この近くに、村はないかな? 私たち、そこを目指しているんだ」

 アリーが口にすると、ラインハルトとマリアがあっと声を上げたのが聞こえた。

 こんな森の中に少年がいるなど、理由は僅かに限られる。うっかり迷い込んだか、近くに住まわっているかぐらいだ。この少年の衣服も露出した肌も、そこまで汚れていない。迷い込んだ可能性はほぼないだろう。

 思った通り、少年はアリーが求めている答えを口にした。

「それだったら、この近くだよ! ぼく、そこの村に住んでるんだ」

「やっぱりそうなんだ。ねえ、私たちを案内してくれないかな?」

「うん! こっちだよ!」

 さっきまでの怯えた姿が嘘のように、少年は元気よく駆け出す。その背が少し遠くなり、アリーが着いて来ていないことに気づいて振り返った少年が、こっちこっちと叫びながらぴょこぴょこ跳ねている様は、どことなく愛らしいものを感じさせた。

 アリーは優しく微笑み、それから頷く。ゆっくりとイデアルの許に戻ると、未だ唖然としている二人を脇目に、アリーはさっとイデアルの背に乗った。ここまでたくさんイデアルに乗ったおかげで、馬に乗るのは大分慣れてきていた。

「まったく。無茶をするな、君も」

 ラインハルトが、苦笑しながら迎える。

「ごめんね。でも、もういやな光景は見たくなかったんだ」

「だからって、心配させないで。わたし、気が気でなかったんだから」

 口を尖らせて不機嫌そうに言うマリアは、本当に心配してくれたようで、目にうっすらと涙を浮かべていた。

 冷静になって考えれば、紙一重である。あのまま狼が襲い掛かって来ていたら、間違いなく大怪我じゃすまなかっただろう。もしかしたらマリアが助けてくれたかもしれないが、間に合わなかった可能性もある。

 さすがに申し訳なくて、アリーは少し頭を下げて、上目でマリアを見た。

「ごめんなさい、姉様。私、自分勝手すぎたよね?」

「うっ……。こんな時にそんな目をしてお姉ちゃん扱いするなんて、卑怯だよ、アリー」

 アリーとしては何の打算もなく言ってしまっただけだったのだが、マリアにはそう受け取って貰えなかったようだ。ちょっとふくれっ面になってそっぽを向くマリアの横顔は、ほんのり赤くなっていた。

 二人のやり取りにラインハルトが苦笑し、イデアルに声をかける。小さく頷いたイデアルが、少年の後をゆっくりと追い始めた。

 少年は、アリーたちがその姿を見失わないように、時々振り返りながら先導していく。その健気な姿が、やはりどこか愛らしかった。

 やがて、遠くに村の入り口らしきものが見え始めた。

 村が見えてきて安心したのか、少年は一目散に駈け出し、あっという間に村の中へと消えて行ってしまった。急に先導役がいなくなってしまったが、ここまで来たらもうその必要もないだろう。

 村が見えても、ラインハルトはイデアルを急がせなかった。いくらか喋れるようになっているが、やはり傷は痛むのだろう。少しの振動でも、体には堪えるはずだ。

 そのままゆっくりと進み、少年から大分遅れて、村の中に入った。

 その時だった。

「止まれ」

 辺りを見渡す間もなく、冷たい声が制止をかけてきた。

 イデアルの前に、男が立ち塞がるように現れる。一人ではない。四人、五人、いや数えている間に数はどんどん増えていく。それぞれが何かしら武器を持っていて、特に最前列の若い男たちは、アリーたちへと槍の先を向けてきている。

 それは、少し異様な光景だった。槍を突き付けられているのもそうだが、目に真っ先に映ったのは、深紅で彩られた髪と瞳だ。見える人全てが、その色を身体に宿している。

 馬上から眺めるたくさんの赤は、警戒心か何かによって肩で息をしているからか、夕日で彩られた水面が揺れている様に似ていた。

「ここに入ることは許さん。早々に立ち去れ」

 先頭に立つ男がにべもなく言った言葉は、わかり切っていたが冷え切った敵意に満ちていた。

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