喪失の章 4
あれからどれくらいの時が流れ、どこまで逃げたのか。
気づいた時には、鬱蒼と生い茂る森の中でマリアは寝かされていた。周りを見渡すと、焚火を前にしたラルバとその愛馬が近くに座っていた。
ジャンに担がれて逃げている間、マリアは意識が朦朧としていたのを思い出した。身を焦がすような熱が全身に巡り、依然として変わらない頭痛がマリアを襲っていたのだ。
あまりの辛さに耐えかねて、一度意識を手放したような気がする。空を見上げるともうしっかり星が見えるのだから、逃げてから大分時が経ったのが分かった。
「気が付いたのだな、マリア殿」
マリアがうっすらと目を開けていることに気づいたラルバが、ほっとしたように言った。
「ずっと目を覚まさなくて、心配していた。あれから、もう三日が経つから」
「三日……?」
思ったよりも時間が進んでいて、マリアは驚いた。驚いたが、その思いもどこか寒々しい。
眼に焼き付いた光景が、頭から離れない。あの出来事が、夢だと信じたい。しかし、体に残っている血の跡が、それが現実に起きたことだと告げている。
ジードが死んだ。それはもう、動かしようのない事実なのだ。そのことが、胸の奥底で暗い炎をくすぶらせている。
マリアは横を向き、声もなく涙を流した。察してくれているのか、ラルバは何も言おうとしない。
しかしその沈黙が、今は無性に苦しかった。
「……ジャンは、どうしたの?」
涙を無理やり止めて、重い体を起こしながらマリアは言った。
「情報を集めに行っている。僕たちが思っている以上に、この国は危うい状況のようだ」
ラルバが焚火に、投げやり気味に枝を放り込む。ぱちぱちと枝が焼ける音がし、束の間炎が大きくなった。
「……迂闊だった。リチャードの妄言に惑わされて、城を留守にするべきではなかった。近隣の村で不穏な動きがあるなんて言葉を真に受けさえしなければ、陛下を死なせることもなかったのに」
項垂れるラルバの拳が、わなわなと震えている。思い切り握りしめているのか、ラルバの手の隙間から、微かに血が滴り落ちた。
ラルバとジャンは、基本的には城を離れることはない。ジードの親衛隊のような存在で、常に傍へと寄り添っているのだ。しかし、その日は罠にかかってしまった。不満を抱く者が徒党を組み、村で暴動を起こしているという報せに、ジードはラルバとジャンを派遣したそうだ。まんまとその報せを信じ、絶対の隙が王城には生まれてしまった。まさかラルバもジャンも、ジードさえも、国そのものが牙を剥いて来るとは思っていなかっただろう。
それは、マリアも同じだ。その日の前日まで、自分たちの理想が叶っていると錯覚するほどだった。
今は、そんなことは微塵も思わない。ジャンに担がれて逃げている間、意識が辛うじてある時に、敵意を持った民たちに襲われそうになったのを、うっすらと覚えている。これまで親しくなったと思っていた人もその中にはいて、心の中ではずっと面白く思っていなかったのだと思い知らされた。
「僕は、また守れなかった。先王だけでなく、親友まで死なせてしまった。僕は、自分が憎い。どれだけ強くなっても、何も守れやしない」
「そんなことないよ。あなたは、わたしを守ってくれた。だからあなたが、自分を責める必要はない。責められるべきは、あいつらだ。あんな奴らがいる、この国だよ」
胸の内でくすぶる炎が、音を上げて燃え盛っていく。目に浮かぶような真っ黒な炎が心を焦がし、頭がどうにかなってしまいそうな憎悪が湧いて来る。
憎悪が沸き立つと、体を巡る魔力が異様なほどに強まっていくのを感じた。憎悪に呼応して、大地から常に力を吸い上げているような感じで、体の中は魔力で満たされていると思えるほどだ。
その魔力に身を委ねてしまうと、気が狂ってきそうな気がする。ただでさえ強力な魔力は、今でも十分マリアの意識を蝕んできている。
「マリア殿、大丈夫か?」
心配そうに顔を向けてきたラルバに、マリアはただ頷いた。
本当は、大丈夫ではない。憎しみを抑えれば何とかなりそうなものだが、沸き起こる負の感情を、抑えることができない。
何か言おうとしたラルバだったが、ジャンが小走りで戻って来たことで、それはやめたようだった。
「戻ったか、ジャン。何か、わかったか?」
「はい」
言ったジャンの声は、どこか沈んでいた。
マリアが目覚めていることに気づいて、ジャンは嬉しさの反面、苦しそうな表情をした。それだけで、何か言いづらいことがあったのだと、マリアは察した。
ラルバが促すが、ジャンはなかなか切り出さない。言い淀むジャンは、マリアに対して憚っているのか、ちらちらと顔色を窺ってきている。
一瞬目が合ったジャンに向けて、マリアは頷いた。ジャンが、意を決して口を開く。
「大きなことは二つです。一つは、陛下の弟君のジーク殿が、民たちに何の抵抗もなく即位を受け入れられました。リチャードが周到に事を準備していたことと、ぼくたちの願いが受け入れられてなかったことの、証明になってしまいました」
「……そうだな。それで、もう一つは」
「は、はい」
一度緊張したように口を閉ざし、瞳さえも伏せてから、ジャンは言葉を続ける。
「……陛下が死なれたあの日に、リチャードはある場所を攻め込ませていました。その場所は、魔王の城。独断で編成されていた大部隊が、魔王の城に攻めかかったそうです。奇襲であったこと、そして同族である魔族の裏切り者がいたことが災いして、魔王は満足に戦える者があまりいない状況で迎え撃ち、そして」
「……死んだんだね」
ズバリ言い当てたのか、ジャンが大いに狼狽えていた。この少し臆病なところは、成長した今も変わっていない。
「ど、どうしてそれを」
「何となく、わかるよ。わたしに気兼ねすることなんて、それしかないもの」
寂しげに言うと、ジャンは俯いた。確かなんだな、とラルバが問うと、遠慮がちに二度頷いた。
マリアの心の中を、冷たい風が通り過ぎる。そして、温かな思い出を、風は一緒に運んで行ってしまった。もう、何も残っていない。もう、何もない。
大切なものは、この手からすべて零れてしまった。
「そっか。わたしはもう、一人なんだ。誰もいない。母様も父様も、ジードもいなくなっちゃった」
立ち上がり、マリアは左右を行ったり来たりする。何の意味もなく、ただふらふらと歩き回る。
「みんないない。理想もない。みんなみんな、なくなっちゃった。みんなみんな、消えちゃった。ふふ、あはは、あはははは」
狂ったような笑い声が、自然と口から出る。何もおかしくないのに、声が漏れ出る。壊れたおもちゃのように、笑い続ける。
「……許さない」
ぴたりと足が止まり、マリアはぽつりと呟く。
「絶対に、許さない。わたしは、この国を滅ぼしてやる。こんな醜い国なんか、滅ぼし尽くしてやる」
呪いの言葉に反応するように、体の中の魔力が弾けた気がした。視界がほんの一瞬、黒く染められる。
もしかしたら、実際目に見えて何かが起きたのかもしれない。近くにいたラルバとジャンが、驚愕で目を見開きながらマリアを見つめている。
「マリア殿、その姿は……?」
珍しく目を見開くほど唖然としているラルバが、声を詰まらせながら言った。
言われてマリアは、自分の目線から地面までの距離が遠くなっていることに気づいた。心なしか、身に纏っている服も少し窮屈に感じる。
右手を伸ばし、頭に姿見を思い浮かべて、軽く念じる。眼前に微かな光が走ったかと思えば、目の前には姿見が現れていた。
姿見に映る自分の姿は、まるで自分ではないようだった。眩い銀だけだった頭の前髪は、まるで血で染め上げたような紅色に変わっていた。幼さが残っていた顔はどこか大人びたものになり、身の丈は少し高くなっている。加えて、体の女性らしい所は、服の上からでもはっきりわかるくらいに膨らんでいて、服が窮屈に思うのも無理はなかった。
「きっと、魔力が望んだ姿ね。この姿なら、湧き上がる魔力をちゃんと使えるような気がするから」
ふと外に出した声は、先の自分のそれよりほんの少し低くなっていた。
体を暴れ回っていた魔力は、もう好き勝手にマリアを苦しめることはしていない。寧ろ大人しくなっていて、少し体に馴染ませれば思う様に使えるようになる気がする。
マリアが自分の魔力に意識を持って行こうとしたら、不意に近くの茂みが大きく揺れ動いた。何だ、と思うよりも早く、そこから大きな熊が飛び出してきた。
あまりにも虚を衝かれたからか、ラルバもジャンも、咄嗟に動けないようだった。
腹でも減っているのか、熊は荒い息を吐いて涎を垂らしながら、真っ先に目に映ったマリアに近づいて来る。
マリアは動じず、熊が眼前に迫るまでただ待った。
大人しく立っているだけのマリアに警戒した熊が、威嚇するように目の前で前足を上げ、耳を劈くような咆哮を上げた。
「マリア殿ッ!」
「逃げて下さい!」
我に返ったラルバが剣を抜き、ジャンがすぐさま駈け出そうとしてくる。
それを、マリアは目で制した。二人の動きが、ぴたりと止まる。威圧感に気圧されたのか、熊もそのままの体勢で動きを止めた。
マリアは右手を上げ、体の底でうごめく力に意識を持って行く。冷たく、色で例えるならば真っ黒な闇のような力。全てを呑み込んでしまう、闇そのもののような力。その力を、一気に解き放つ。
「試させてもらうよ。お前の命で」
右手を勢いよく閉じると、眼前で前足を上げた大きな熊の頭が、体が、ぐしゃりと嫌な音を立ててひしゃげた。その拍子にどこか亀裂が生まれたのか、それとも弾けてしまったのか、生臭いものと共に真っ赤な雨が降り注ぎ、マリアを汚していった。
魔力を必要以上に出し過ぎたのか、ひどい脱力感が襲ってきた。心なしか、体の奥で感じる魔力が、枯渇気味であるかのように弱弱しくなっているのを感じる。
「まだ、うまく制御できないか。でも、じきに慣れさせる」
潰れた熊の死骸を見下ろしながら、冷たい笑みをマリアは浮かべる。
視線を感じて振り返ると、顔を強張らせたラルバと、怯えたジャンと目が合った。ラルバは何かを言いたげだが、口を何度か動かすだけで何も言わない。ジャンは巫女様、とだけ、体を震わせながら呟くように言った。
マリアは右の口角を吊り上げ、喉を鳴らして笑った。
「わたしは、もう巫女なんかじゃない。この国を滅ぼす、魔女。命を奪い尽くす、魔女になったのよ」
顔にべったりとついた血を指で拭い、それを舐めながら、マリアは冷たく言い放った。




