喪失の章 3
その日、マリアは急な胸騒ぎで目が覚めた。
気持ちの良い晴れた日の、昼過ぎのことである。不安を紛らわせようとするかのように爽やかな夏の日差しに誘われ、それまでマリアは束の間のまどろみに落ちていた。
ハッと目が冴え、マリアは素早く身を起こす。感じる胸騒ぎに不安を覚え、思わず額に手をやった。玉のような汗が、たくさん浮かんでいる。思えば、身に纏っているものもしっとり冷たい。
不意に、あの日の夜のことが思い返される。リチャードが企む、何か。嫌な予感をはっきりと感じて、マリアは家を飛び出した。
行き先は、王城。何故か思い浮かんだその場所へ、マリアは可能な限り急いだ。
城へ近づくにつれて、嫌な感じはどんどん強くなっていく。心の臓は早鐘を打ち、それなのに顔からは血の気が引いた。
城の前まで来て、マリアの足は止まった。いつもと少し違う光景に、不安が募る。
いつもだったらにこやかに会釈してくる門番の騎士二人が、どこにも見当たらない。
王城に無断で入る人がいないように、日中には彼らが、日暮れからは別の騎士が必ず見張りに立っている。場を外さざるを得ない時は、代わりの騎士に門番を頼んでいる。誰もいない時など、ありえないはずだ。
立ち止まって辺りを見渡していると、鉄のようなにおいがどこからかしてきた。
不審に思って、今度は注意深く視線を巡らしながら、門をくぐる。右のほうの花壇に、ちらと赤黒いものが見えて、マリアは恐る恐る近づいた。
「ひっ……」
花壇を覗き込み、マリアは思わず小さな悲鳴を上げた。
血溜まりに沈む、二つの体。首を鋭利なもので斬られたのか、いずれも喉元はぱっくりと裂け、お腹の辺りには勢い良く突かれたような痕がいくつもある。抜身の剣を握り締め、必死の形相のまま固まった顔は、マリアが見知っている騎士のものだった。
血の気がさらに引き、一気に気分が悪くなる。何か酸っぱいものが喉の奥からせり上がってきて、マリアは堪らず吐き出した。
荒い息を吐き、ちらともう一度血溜まりを見る。夢ではない現実は、確かにそこにあるままだ。
「ジード……!」
その場から逃げるように去り、マリアは城内へと向かう。今にも倒れてしまいそうなほどに気持ち悪かったが、そんなことも言ってられなかった。
城の中は、がらんと静まり返っていた。
いつもだったらたくさんいる城の騎士や小間使いとは、たったの一人さえすれ違うことはなかった。城の中をいくら駆け回っても、誰一人として見えない。
見えるものは、赤黒く汚された床や壁ばかりだ。まだそうなってからあまり時が経っていないのか、壁から滴る雫が、ぽたりぽたりと赤い水溜まりに波紋を立てていた。
――誰も、いない。いるけど、いない。
微かに開いている扉の先に、ぐったりとして横たわる人影が見えた気がした。たった一瞬しか見えなかったが、その人だったものから命が抜け出ているのは、確認しなくてもわかった。
震える体を抱きながら、マリアは走り続ける。
――みんな、大丈夫だよね……?
身寄りのない子どもたちとジードの姿が、頭の中で儚げに揺らめく。立ち上る煙のように形を失ってしまいそうな面影には手など届かず、マリアは彼らの無事をただ祈るしかない。
祈りながらも、足は進んでいく。行く宛などない。けれど、足は自然と謁見の間へと向かっていた。
必死になって走っても、目的の場所はなかなか近づいて来ない。魔法を使って俊敏に移動しようにも、こうも乱れ切った心では、うまく魔力を制御しきれない。自分の足で行くしかないのだが、マリアはやはり運動が苦手だ。すぐに切れる息と重くなる足に、マリアは焦慮と共に嫌気に似たものを感じていた。
それでも腐らず、出せる精一杯の力を振り絞り、一度も止まらずに走り続けた。
やがて、マリアの目に謁見の間の入り口が見えた。
――空気が、痛いほどに重い。
物々しい気配は、離れていても伝わって来る。しかし、闘争が起きているかどうかは、遠目からではわからない。
吹き抜けの廊下に、さっと風が吹き抜ける。風向きが変わったのか、風に乗って微かに音が聞こえてきた。
「弟を担ぎ上げ、人質を取り、果てには俺に王位から退け、か。随分と思い切ったな、リチャード。それが、お前の望みか?」
「陛下、これはこの国の総意です。全てが、人々に望まれたことなのですよ。あなたを、追い落とすことを含めてね」
「そんなバカなことがあるか。これまでの二年間、俺がどれだけ民と接してきたと思っている?」
「それはわしも同じですよ、陛下。そして、わしのほうが共感された。今、あなたの前にいるのは、ここいらを纏める村々の長たち。それが何よりも証拠です。何ならば、さらにお見せしてもよい」
途切れ途切れだが聞こえてくるその話は、嫌な予感を確信させるには十分すぎた。
マリアは、息が切れようが懸命に走った。その間にも、物々しい気配はさらに強く伝わって来る。
「やめろ!」
ジードの声と、小さな悲鳴。マリアが近づくにつれて、それらがはっきりしてくる。
「一体何の真似だ、リチャード。自分がしでかしたことの重さが、わかっているのか?」
低く、押し殺したようなジードの声には一切の余裕がなく、底知れない怒りが滲んでいる。
その声を向けられている方は、全く意に介していないのか、返す言葉は嘲りに満ちていた。
「重さとは、馬鹿げたことを。この国に仇なす害を除くのは、当然であろう?」
「何が害だ。その子たちが、何をした。お前が勝手に、ありえない妄想をしているだけだろうが」
「妄想? ふん、愚かな。あなたは、魔族の血の恐ろしさを知らなすぎる。粗暴で野蛮な魔族の血は、魔力を抑えただけでどうにかなるものではない。わしは知っている。かつて人間族と友好的だった魔族が突如として牙を剥き、数多の人間を殺し回ったのを。本能的に、破壊を求めるのを。それは、その血を受け継ぎ、欲深い人間族の血を受け継いだ混血児とて、例外ではない」
「そんなことが」
「あったのだよ、アルベール王。わしの親友は、そのために死んだ。理由もわからないまま、無残に殺されたのだ。何を言っても届かず、返されるのは抱えきれないほどの敵意。何をしようとも、無駄だった。だからこそ、わしはあなたの理想を拒んだ。その芽を摘むことを、選んだのだ」
「……それが本当だとしても」
小さく舌打ちしたジードが、叫ぶように言う。
「子どもまで皆殺しにしなくたって、いいじゃないか!」
その声がはっきり告がれるのと、マリアが謁見の間に足を踏み入れたのは、ほぼ同時だった。
「……えっ?」
一瞬、目の前に広がる状況が理解できなかった。
剣を抜いて構えるジードと、その彼を左右と前から囲む、何人かの人間たち。その後ろに控える、リチャードと少年。確か、ジードの年の離れた弟のジーク、だったか。そして、冷たい石畳に身を横たえる、たくさんの子どもたち。その体からはどろりとしたものがとめどなく流れ、石畳を赤黒く汚していく。
誰も、身動き一つしない。背中やお腹に深々とした傷痕を作っているのに、痛がる素振りも見せない。みんなみんな、何も言わずに横たわるばかりだ。
その体からは、もう命は抜け出てしまっている。そう理解するまで、いくらか時間がかかった。
「うそ、だよね」
呟くように言うと、視線が一斉にマリアへ向けられた。敵意と困惑。ふと感じたそれらも、何故か今は遠い。
リチャードと、目が合う。深い憎悪が、瞳の奥で激しく燃え盛っている。マリアはどうしても、目が逸らせなかった。
「これは、探す手間が省けたな。巫女だかなんだか知らぬが、お前がいたせいで、わしはこんなことをしなければならなくなった。その責任は、取って貰うぞ」
冷たく言い捨てたリチャードが、片手を上げる。ジードを牽制していたうちの二人が、マリアに向けて駆けてくる。剣は抜き払われ、その刃はぎらりと獰猛な光を放っていた。
呆然としていたマリアは、まったく反応できなかった。それどころか、腰が抜けたのか、座り込んでしまった。あっという間に距離を詰めてくる騎士を、ぼんやりと見ているしかない。
それでも、瞬間的にハッとして我に返り、自分の置かれている状況を悟って、マリアは思わず目を伏せた。
「マリアッ!」
勢いよく石畳を蹴る音が聞こえ、次いでジードの叫ぶような声が耳に届く。それが消え入るよりも早く、近くで風が唸り声を上げたかと思えば、今度は鋭い金属音と、小さな呻き声と共に、何か鈍い音が聞こえてきた。
恐る恐る、マリアは目を開けた。
「えっ」
次の言葉が、出てこなかった。庇うようにマリアの前へ立ち塞がったジードの背中から、鮮血が霧のように舞い上がっていた。
膝をつきそうになるジードが、右手の剣を逆手に持って突き出す。思いがけない反撃だったのか、凶刃を振るっていたその人はお腹に一撃を貰い、血を撒き散らしながら跳び退いていく。
ジードの手から剣が滑るように落ち、崩れるように膝をついた。落ちた剣が、虚しいほどに乾いた音を何度か響かせる。
ふと、ジードと目が合った。悲しげな瞳が、マリアをまっすぐ見据えている。
「……ごめんな、マリア」
口の端から血を流したジードが、弱弱しく言った。
「こんな未来を、手繰り寄せてしまって。君から、笑顔を奪ってしまうことになって」
潤んだ瞳からとめどなく涙が零れ、彼の頬を濡らしていく。
「俺は、間違っていたのかな。もっと別の方法が、あったのかな。そうすれば、こんなことには」
ジードの声が、生々しいほどの鈍い音に掻き消された。
束の間見えたのは、新たに襲ってきた人と、閃いた白刃だろうか。それが唸りを上げて叩きつけられると、悲哀と後悔に満ちたジードの顔が、マリアの視界から消えた。
ジードの顔が、丸い石ころのように転がる。本来ならば巡るべき血液が行き場所を失い、勢いよく首から吹き出した。
目を見開いたままのマリアは、それを真正面から受けた。生温かかった気がしたが、今ははっきり感じる余裕がなかった。
「ジード……?」
呟くように呼びかけても、返る答えはない。吹き出す血が、虚しいほどに自分にかかって来るばかりだ。
「ねえ、ジード。ねえったら」
それでも、呼びかけた。目の前の現実から目を背けて、何度も呼び続けた。無駄だと頭のどこかでは理解していても、認めたくなかった。
目の前のジードだったものが、不意に蹴り倒された。緊張か怒りか、とにかく色々な感情がないまぜになって醜く歪んだ顔の男が、代わりに立ちはだかった。
マリアの胸の奥で、何かがうごめいた。絶望に打ちひしがれていた心が、妙に冷えていく。
「やってしまえ。そいつが現れたせいで、こんなことをしなければいけなくなったのだ」
リチャードの吐き捨てるような言葉が、少し離れたところから投げかけられる。
男が剣を振り上げ、マリアをキッと睨んでくる。
「お前さえいなければ、陛下を殺めることもなかったのだ! お前さえいなければ!」
怒声と共に、剣が勢いよく振り下ろされる。その軌跡は、不思議なほどゆっくりと見えた。他の動きも、ひどく緩慢だ。
その中で、思考だけはいつもと同じくらい動いた。いや、いつも以上にぐるぐる回る。
子どもたちが、死んだ。ジードが、死んだ。
――どうして。
邪魔だから。
――誰の手で。
こいつらに。
――こいつらが、大切な人を殺した。
底知れない憎悪が沸き起こり、瞬間、体を熱くさせる。得体の知れない力が全身を駆け巡り、頭が割れそうなくらいの痛みが襲って来る。
それでもマリアは咄嗟に右手をかざし、思い切り握りしめた。
黒い炎が放たれ、迫り来る刃を瞬時に燃やし尽くす。炎は対象を失うとすぐに飛び散り、襲い掛かってきた男や、子どもたちの亡骸に乗り移った。炎は、すぐに燃え上がる。
「ぐ、ぐああっ!」
男が身をよじって転がり回って、何とか消そうとしている。炎は少しずつ消えているようだが、焼かれた部分はひどくただれいるように見えた。
子どもの亡骸は、黒い炎に呑み込まれている。咄嗟に消そうとしたが、激しい痛みに堪えきれず、マリアは頭を押さえて俯いた。
微かに顔を上げて、炎を見る。燃え尽きて炭になっただろう子どもたちの体だったものは、不思議と液体のようなものになって、石畳の隙間に入って行ったような気がした。
それが何かを考える余裕が、マリアにはない。痛む頭を抑えながら、キッと視線を前に向けた。
リチャード。怯えながらも、憎悪に満ちた目をこちらに向けている。
ぎりっ、と歯が鳴る。お前がそんなものを向けていいと思っているのか、とマリアは叫びたかった。
――憎みたいのは、わたしのほうだ。
声を上げて罵ろうにも、襲い来る激痛が邪魔をして、言葉にできない。意識を保っているのがやっとで、立つことさえできず、ただただ睨み続けるばかりだ。
ふと、どこかから足音が聞こえた気がした。それはどんどん近づいて来ていて、やがて切迫した声と共にその主は現れた。
「陛下っ!」
慌ただしい足音で駆けこんできたラルバとジャンが、瞬時に状況を理解して息を呑んだ。
しかし、彼らはマリアのように唖然とすることはない。
「ジャン、マリアを連れて先に行け!」
「はい!」
力強く返事をしたジャンが、すぐさまマリアに駆け寄っては、体を肩に担ぐようにして持ち上げる。二年という歳月はジャンを少年から青年へと変え、身の丈は随分と高くなった。体も大分鍛えたのか、マリアを持ち上げるのに大して苦労した風はない。
「ら、ラルバ!? 貴様、この国の総意に歯向かうのか! ええい、奴を斬れ!」
男が二人、凄まじい速さでラルバに近づき、剣を振り上げる。が、そこで動きは止まった。
ラルバの剣が瞬く間に閃き、男たちの首には一条の赤い筋が刻まれた。それはやがて大きく開き、夥しい血を噴き出しながら、二人の体は仰向けに倒れていった。
ラルバが、鋭い眼光をリチャードたちに向ける。一撃で二人を斬り殺したこともあってか、彼らは蛇に睨まれた蛙のように、身動きを取れずにいた。
その隙を逃さず、ジャンが駆け出す。
「な、何をしている! 巫女を逃がすな。追え、さっさと追わんか!」
リチャードが必死に叫ぶも、誰一人として動かない。痺れを切らしたリチャードが剣を抜き、自ら迫ろうとした。
マリアは渾身の気合を込めて、右手を前に差し出して、強く握りしめた。
リチャードの右目付近で、黒い炎が燃え上がる。苦痛の声を上げ、石畳に顔を打ち付けながら、リチャードは何とか炎を消そうとしている。それで我に返ったのか、他の男たちが炎を消そうと動き始める。
その間に、ジャンは彼らとの距離をどんどん開けていった。好機と見たのか、ラルバもまた、ジャンの後を追って来る。
少しずつ離れ、リチャードたちの姿が小さくなっていく。それでも、まだはっきり見える。マリアは、もう一度リチャードをキッと睨んだ。
炎が消え、焼けただれた右目の辺りを押さえたリチャードと、束の間目が合う。
「わたしはお前を、この国を許さない。いつか必ず、滅ぼしてやる。絶対に、滅ぼしてやる」
吐き出した呪いのような言葉が届いたのかは、わからない。ただ、遠ざかっていく憎い人の顔は、いくらか青褪めているように見えた。




