喪失の章 2
あれは、あのことの予兆だったのだろうか。
何故か寝付けなくて、マリアがふらりと夜の散歩に出た日のことである。
月のきれいな夜で、灯りがなくても街の中を歩けるほど明るかった。初夏に入ったばかりだからか、夜気は涼しくて過ごしやすい。
何となくもっと月が見たくて、マリアは王都の中でもよく空が見える高台を目指すことにした。
夜も結構更けているのか、都市の中は静まり返っている。時折聞こえる犬の遠吠えが少し不気味だったが、そんなことはすぐに忘れるほど、この日の月は妖しいほどにきれいだった。
やがて、高台が見えてきた。
ゆっくりと歩みを進めていたマリアだったが、その足がぴたりと止まった。先客がいる、それも二人だ。話す声の語気は荒く、何やらただならぬ気配を醸し出しているのは、少し離れていてもわかった。
マリアはそっと身を屈め、近くの壁に身を隠した。静かな夜ということもあって、二人の声はよく聞こえてくる。
「お前ほどの者がわからんはずがないだろう、フランドル。今、この国は未曽有の危機に瀕しているのだ」
「仰る意味がわかりかねます、リチャード殿。外敵の襲来の絶えた今、この国を脅かすものなどありません。今この国にあるのは、陛下の理想のみ。危険など、あろうはずもありませんわ」
聞き覚えのある声の主は、リチャードとヨルダのものだ。ちらと壁から覗き込むと、確かにその二人が、険しい顔をしながら言い合っている。
「馬鹿なことを。魔族のような粗暴な輩が蔓延っているというのに、平和などそれこそありえん。奴らは、魔力を奪われたことにいずれ後悔し、牙を剥いて来る。それからでは遅いのだ。今のうちに、手は打たねばならん」
「打つ必要などあるのですか? わたくしの口から言うのもおこがましいですが、魔力が弱まった魔族など、いくらか肉体が強い人間と大差ありません。この国は、人間族のほうが圧倒的に数が多く、戦いになれば最早負けることはないでしょう。それでも、脅威と言えますか?」
「ああ、脅威だ。お前は、魔族を甘く見過ぎている。魔力が弱まっても、奴らはとんでもなく強いのだ。そして、同じ血を受けた混血児もな。徒党を組まれ、反乱でも起こされたら、いらぬ犠牲を生むことになる。それは、この国を傾けることになろう。そんなことは、お前も望まんだろう?」
「それは、そうですが」
少し言い淀んだヨルダは、それでも全く納得していないような顔をしていた。
そんなヨルダを気にした風もなく、リチャードは尚も言葉を続ける。
「この国は、平和であるべきなのだ。その平和の姿に、人間族以外はいらん。魔族も、半端者の混血児も、必要ない。奴らがこの国で生きる、価値などない」
「なぜ、そう言い切れるのです? 彼らに、何の罪があるのです」
「生きていることが罪だ。魔力を使う者は、全てな」
語気を荒げたリチャードが、ヨルダをキッと睨んだ。
「大地を最も腐らせるのは、魔力だ。魔力は、使えば使うだけ大地を弱らせていく。弱めたからと言って、大地からの搾取は続くのだ。そんな奴らを、野放しにするわけにはいかん」
言い切るリチャードの表情には、妙に自信に満ちたものが張り付いていた。
マリアは一度顔を伏せ、両の手で自分の肩を抱いた。何か聞いてはいけないものを聞いてしまっている気がしてならない。本当ならば今すぐにでも逃げだしたかったが、マリアの足は根が張ったようにピクリとも動かなかった。
「……そういえばフランドル、物資の搬入は済んだのか?」
唐突に、リチャードが話を変えた。
「いきなり何を仰るのです」
「いいから、応えぬか」
「……わたくしが、大切な物資を放っておいて、あなたなどに会うとでも?」
いやに冷たい物言いだったが、リチャードは気にすることもなくそうか、と呟き、満足そうに頷いた。
「……もう、十分だな」
リチャードの声に、冷たいものが混じる。
「陛下には、物申さねばならん。尤も、答えはもういらんがな。お前が届けてくれた物資のおかげで、わしはこれ以上耐えなくて済む」
「何を仰っているのです? わたくしは、陛下の命にて膨大な物資を集め、王都に運んだまで。全ては、この王都に集まる人々の平穏のため。あなたのためではありません」
「ふん、まだわかっておらんのか。王都とはいえ、たかが民を養うために、膨大な物資がいると思っているのか? いくら陛下が孤児を拾ってきたとはいえ、有り余るほどの物資が、本当に必要だと思っているのか?」
「それは、どういう」
言いかけたヨルダの顔が、見る見るうちに青褪めていく。それを見たリチャードが、にやりと嫌な笑みを浮かべた。
「全て、わしの一存だ。これからの未来のために、わしがお前に物資を集めさせたのだ」
「……リチャード殿、何をなさるおつもりです?」
ヨルダの声は、異様に低く、冷たい響きを持っていた。
「聡いお前ならば、言わずともわかろう。なあ、フランドル。お前もわしと共に行かぬか? こんな間違った国など捨てて」
いやらしい笑みを浮かべたリチャードが、ヨルダの肩を徐に抱く。ヨルダは咄嗟にそれを振り払い、その勢いのままリチャードの頬に平手を一発放っていた。
乾いた音が束の間響く。痛みで一瞬顔を歪めたリチャードが、また嫌な笑みを浮かべた。
「お前にその気がないならば仕方がない。好きにせよ。だが、わしの邪魔はしてくれるなよ。でなければ、お前を殺さねばならん」
「そんな脅しに、わたくしが屈するとでも?」
ヨルダがキッとリチャードを睨む。しかしその体は、微かに震えているように見えた。
それをリチャードは察しているのか、鼻で笑いながら言葉を継ぐ。
「ふん、せいぜい強がっているがよい。お前と違って、わしは多くの兵を使える。一度命を出せば、どこでも攻め落とすことができるのだ。お前の、交易都市だってな」
「愚かな。反乱を起こし、逆臣となりますか、リチャード殿」
ヨルダの冷ややかな声にも、リチャードは何ら動じた風もない。
「愚かなのはどちらかな、フランドル。わしは知っておるぞ。お前が、多少無理をして物資を集め、この王都に送ったことを。民に不満が満ちても、敢えて黙殺し、あろうことか手さえ上げたことを」
「それは」
ヨルダが目を瞑って俯く。唇を強く噛んでいるのか、口の端からそっと滴る紅い雫が、そのことが本当だということを示していた。
そのヨルダを満足そうに見下しながら、リチャードが勝ち誇った笑みを浮かべて追い打ちの言葉を継ぐ。
「今、兵たちは交易都市を目指して進軍している。お前から、交易都市を取り上げるためにな。悪政に喘いだ民たちは、もろ手を挙げて兵たちを迎えるだろう。そうなれば、お前の帰る場所はもうない。お前は、自身の愚かさのせいで裏切られるのだ。民は近いうちに、お前の愛する男に牙を剥くだろう」
ハッとしたように勢いよく顔を上げたヨルダの端正な顔が、見る見るうちに赤くなっては怒りに歪んだ。もう一度、ヨルダの右の手がリチャードを思い切り叩くと、その音が空に消え入る前にヨルダはどこかへ駆け出していた。
「……単純な奴よ。出まかせを言ったのだが、余程あの都市のことが気にかかると見える。何にせよ、これで少しの間はフランドルがここに来ることもあるまい」
叩かれた右の頬をさすりながら、リチャードが嫌な笑みを浮かべ、高々と笑う。一頻り笑ってから、リチャードもまた、この場を後にした。
二人の姿が高台から消えると、マリアはその場にへなへなと座り込んだ。緊張の糸が解け、とてもではないが立っていられない。
座り込みながら、マリアはさっきまで聞いていたことを考えた。しかし、押し寄せる恐怖が邪魔をして、うまく思考が回らない。
「一体、何を企んでるんだろ……?」
漸く絞り出せた言葉も、虚しく夜の闇に溶けるばかりだ。いくら考えても、リチャードが悪いことを企んでいるとしか答えが出せない。
ジードに知らせるべきだ。そう思ったが、彼は今、誰にも会ってくれないのを思い出した。今は亡き先王、つまりはジードの父親が死んだ日が近づいている。志半ばで散った父に祈りを捧げるべく、ジードは身を清めて一人で部屋に籠っているという。命日が過ぎるまでは誰も近づけるなと厳命してあるから、ここ何日かは側近であるラルバでさえ、ジードの姿は見ていないらしい。
そんな彼の邪魔をすることなど、マリアにはできなかった。その命日は三日後であり、少なくともそれまでは会えない。
今日は、胸の内に収めて帰るしかない。震える体を抱きながら、マリアはゆっくりとその場を後にした。
家に戻っても、胸の内は全く晴れなかった。寧ろ、嫌なものが深く募っていくばかりだ。
もやもやしたものを、底知れない不安と共に抱きながら、マリアは日々を過ごしていった。
そして、その日は近くに訪れた。




