巫女の章 7
壁から背を離し、魔王がゆっくりとマリアに近づいて来る。目の前まで来て、見下ろしてくる彼の双眸は、少し寂しそうなものを宿していた。
マリアはどうしていいのかわからず、ただその瞳を見つめ返すことしかできなかった。
「お前には、辛い思いをずっとさせてしまった。罪滅ぼしとは言わないが、せめてお前が望むことは叶えてやりたい。お前たちに何もしてやれなかった俺が、今更父親面しても、遅すぎるかもしれないが」
大きな手が、ぎこちなくマリアの頭を撫でる。いきなりで少し驚いたが、マリアは初めて感じる父の愛情が嬉しくて、されるがままでいた。
「そんなことないよ」
撫でられながら、マリアは言う。
「遅すぎることなんて、ないよ。だって父様は、今、ちゃんとわたしを見てくれたもの。ちゃんと、向き合ってくれたもの。それだけでも、十分嬉しいよ」
「……父と、呼んでくれるのか? お前に、寂しい思いをさせた俺を。お前の母さんに苦しい思いをさせて、死なせてしまった俺を」
「うん」
マリアは頷き、じっと魔王の目を見る。不安に揺れる弱弱しい瞳が、それでも逸らされずにマリアのそれと交わり続けた。
「だってやっぱり、わたしの父様はあなただけなんだもの。ずっと離れてたのに、わたしは父様から愛情を受けてる。今、強くそう思えるの。おかしいかもしれないけど」
「……いいや、おかしくなんかないさ。ありがとう、マリア」
魔王が、マリアの体をそっと抱きしめる。初めて感じる父の温もりは、思っていたよりも心地よい。
マリアは少しハッとして、顔を上げた。父の顔が、近くにある。その耳に届くようにそっと、それでいてはっきりとマリアは言う。
「呼んで」
「ん?」
「もう一回、わたしの名前を呼んで」
「何度でも呼ぶさ。マリア。俺たちの大切な娘の、可愛いマリア」
名前を呼んで貰えて嬉しく、またちょっと気恥ずかしくなり、マリアは魔王の胸に顔を埋めた。ごつごつした硬い胸板の奥で、心臓が早鐘を打っているのが聞こえた。
それをちょっとおかしく思いながら、マリアは少しの間そうしていた。魔王はそのままの姿勢で、マリアの頭をそっと撫でてくる。しばらく、どちらも何も言わなかった。
それから、どれくらい経っただろうか。
「……ねえ、父様」
蕩けるような心地になりながら、マリアはか細い声で静寂を破った。
「わたしね、みんなが仲良くできる世界を見るのが夢なんだ。人間も魔族も、わたしみたいな混血の子も、分け隔てなく。できるかな、父様」
「大丈夫だ」
顔を上げると、魔王は大きく頷いていた。
「きっと、叶えられる。いいや、叶えさせてみせる。お前の言葉で、俺の心も定まったから」
ふと、魔王が空を見上げる。マリアもその視線を追うと、冴えたような月の光と目が合ったようになった。眩しくて、けれどきれいで、マリアは少しの間、目が離せなかった。
「もう、迷わない。俺はもう、ためらわない。この手に、拭えないものが増えたとしても」
呟かれた声はあまりにも小さくて、マリアには聞き取れなかった。
そうだ、と魔王が何かを思い出したような声を上げて、マリアは月から視線を外した。
魔王が、懐から何かを取り出している。翡翠色の石が付いた、きれいなペンダントだ。月の光に照らされ、それはより美しい色を煌めかせている。
思わず見惚れていると、それが徐にマリアの首にかけられた。唐突なことでびっくりし、マリアは勢いよく魔王の顔を見た。
魔王は、どこかばつが悪そうにしている。
「ずっと、お前に渡そうと思っていた。生まれてきてくれた感謝を込めて、すぐにでも渡したかった。けれど、会いに行く余裕も、渡すための術も、俺にはなかった。許してくれ」
マリアは首を何度も横に振った。双眸にじわりとこみ上げてくるものがあったが、マリアは何とか堪え、代わりに満面の笑みを浮かべた。
首のペンダントに、そっと触れる。暗がりの中で月に照らされた翡翠色は、やはりきれいだ。
「似合うかな、父様?」
「似合っているよ。とても、きれいだ」
そう言って、魔王はまた、マリアの頭を撫でた。
「……今日だけは、このまま過ごそう。話したいことは、それこそ山のようにあるから」
頷き、マリアは魔王の胸に顔を埋める。伝わる温もりが、やはりこの上なく心地良い。
――この時間が、いつまでも続けばいいのに。
立場上、それが無理なのはわかっている。わかっていても、実の親子なのだ。どうしても、求めてしまう。
せめて今だけは、失っていた親子の時間を取り戻そう。そう思いながら、マリアは夢のような一夜を過ごした。
翌日の昼に、マリアは二人を伴って城下を出た。
魔王から、返書は貰っている。本当ならば朝早くにも王都へと向かいたかったが、魔王が昼まで時間を貰いたいと言い、マリアたちは城下で時間を潰すことにした。
潰すと言っても、マリアは寝不足でぼんやりとしていただけで、ラルバとジャンはどこかで仮眠を取っていただけに過ぎない。初めての父との時間にマリアは夢中になって眠るのを忘れ、その間二人は、不眠不休でマリアが帰って来るのを待っていたのだ。昨日、襲撃があったことも相まって、三人とも疲労はなかなかひどいものになっていた。
お昼頃になって、一人の魔族が魔王からの言伝を持ってきた。道中はもう心配ないだろう。たったそれだけを言うと、その魔族は早々に踵を返していった。
その言葉の意味が最初はわからなかったが、来た道を馬で駆けさせていると、魔族の言葉の理由がよく分かった。
道中は、来た時の出来事が嘘のように、たった一度さえも襲われることはなかった。何者かが潜んでいる気配はなければ、堂々と襲って来ようとする者もいない。すれ違う魔族に至っては、どこか好意に似たものを感じられるほどだ。
ラルバもジャンも面食らっていたが、マリアだけは納得できていた。魔王が手を回してくれたことは、容易に想像できる。
魔族の住まう土地を難なく抜け、それから四日かけて、マリアたちは王都に戻った。
王都に着いた時は、まだ日が中天に差し掛かった頃だった。
この八日間は馬に乗る時間が長く、マリアは体の色々なところが痛かった。しかしそれを気にしている暇はなく、マリアは一目散に王城へと向かっていった。
王城では、門番をしている二人の若い騎士が直立して出迎えた。口々に、陛下がご帰還を待っておられます、と言って、マリアは尚更急いだ。
急いだと言っても、やはりマリアは運動が得意ではない。必死に速足で歩いても、ラルバとジャンは顔色一つ変えずに、後ろをぴたりと着いて来る。額に汗を浮かべ、息を切らしている自分だけが変みたいに見えて、マリアは内心恨めしく思った。
「焦らないほうがいい。また、あの時みたいに息を整えなければいけなくなるよ」
ラルバが、相変わらず抑揚のない声で言う。平然としているのがちょっと面白くなかったが、マリアはその言葉には素直に従った。言われた通り、焦って疲れ果て、言いたいことも言えない状態になっては、ジードに失礼だ。
気持ち歩調を緩める。歩く速さは大分遅くなったが、乱れていた息は自然に治まってきた。
やがて、ジードの部屋の前に辿り着いた。
「陛下、ただいま戻りました」
ラルバが戸を叩き、よく通る声で言った。
しかし、部屋から返事はない。ラルバがもう一度同じことをしても、やはり何も返らなかった。
「どうしたんだろ?」
「ここにいないとなると、おそらく謁見の間だな。陛下は、気を許した人以外と会う場所は、謁見の間と決めているから」
不安げに言うマリアの疑問を、ラルバがすぐに払拭する。
謁見の間へと向かおうとしたが、マリアはその場所がわからなかった。足を止め、ちらとラルバを見る。察したラルバが、ジャンに促して先導させた。戸惑いながらも、ジャンは前を歩き始める。
マリアに合わせてくれているのか、ジャンの歩みはゆっくりである。そのため、謁見の間に着くまで時間はかかってしまったが、マリアは大分楽だった。
見えて来た謁見の間は吹き抜けになっていて、南と東西の方面から入ることができる。誰か来ていることを予想して、ジャンが東側からそっと中を覗く。やはり誰かいたのか、ジャンがすぐに顔を引っ込めた。
「……厄介そうなのが来てます、グランツ様」
気持ち声を落としたジャンが、困ったような顔で言った。
何が厄介なのか。マリアがそう思っていると、謁見の間のほうから大きな声が聞こえてきた。
「陛下、ご自分が何を考えておいでか、本当にわかっているのですか! 陛下がなされようとしていることは、この国の民の心を、踏みにじることと同じですぞ!」
あまりにも怒りに満ちた声に、マリアはびくりと体を震わせた。それでも気になって、恐る恐る中を覗く。
玉座に座ったジードと、背の低い壮年の男と細身で長身の若い女性が向き合っていた。
「踏みにじる、と言ったか? 魔族と人間族が手を取り合うことの、何が間違いだと言うのだ?」
「大間違いですな。この国の民が、これまで魔族に何をされてきたか、ご存知でありましょう? 国を支配され、家畜同然に扱われ、命さえも奪われてきた。その恨みは、陛下が考えているよりも深い。手を取るくらいならば、自分の手を斬り落とすくらいに、深いのです」
「そこは否定せんよ、リチャード。確かに魔族への恨みは、人間族の中に色濃くあるだろう。どうしようもない憎しみも、あるだろう。だがな、それは一部であって、総意ではない。魔族が強硬的な支配を行ってきたのは、もう大分前の話なのだからな」
ジードが一度言葉を切って、リチャードと呼ばれた男を睨みつける。気迫が籠っているのか、興奮して顔を真っ赤にしているリチャードが怯んだのが、遠目からでもよく分かった。
「近年では、魔族は必要以上の搾取はしていない。魔族の中にも、現状を憂える者が出てきたからだ。支配していく虚しさを覚え、さらには魔力によって国を腐らせる悲しさを悟った。そんな者たちが現れ、魔族同士が対立するようになってからは、人間族への搾取はより緩いものとなっている。違うか?」
「そ、それは」
「ええ、そのとおりですわ」
若い女性が、リチャードの言葉を遮るようにして言う。驚いたリチャードが、その顔を引きつらせて女性の方へと向けた。
「わたくしが知る限りでは、この国の生産力は昨今と比べても大して変わっておりません。ですが、国の民の懐には、いくらかの貯えが出来つつあります。勿論、ほんの微々たるものではありますが、それでも搾取されていた時代とは比べ物になりませんわ。今はこの国の胃袋を満たすために、人間族だけでなく、魔族も物資を運んでくることもございますので」
「ふ、フランドル!? 貴様、何を言い出す!」
「事実を申し上げているだけですわ、リチャード殿」
女性が冷たく言い捨て、そっぽを向く。横を向いたことで、きれいに整った顔と知的さを感じさせる切れ長の目が、マリアの位置からも見えた。
「ヨルダ、交易都市を差配する立場から見て、魔族と手を携えるのはどう思う?」
「わたくし個人としては、非常に好ましいことでございます、陛下。長い歳月を生きていることもあって、魔族の知識や知恵は得難いものです。運ばれてくる物資の中には、およそ人間族だけでは思いも寄らなかったものが、いくつも散見しておりますので」
それから、とヨルダと呼ばれた女性が、言葉を続ける。
「魔族はやはり、人間族よりも体が丈夫です。戦うことに主眼が置かれているからかもしれませんが、それでもその屈強さはあらゆることに役立ちます。特に、力仕事にはうってつけで、例えば農業などに人員を割ければ、能率は上がることでしょう。魔力という未知の力もございますし、国を富ませるには得難い存在かと思います」
「成程な。仮に、その魔力が弱まっても、お前の意見は変わらないか?」
「はい。未知の力は、あくまで不確定要素。わたくしからすれば、ないも同然でございます。魔力がなくとも、彼らは得難い存在には違いないでしょう」
「口を慎め、フランドル! 貴様の妄言で、陛下を惑わせるな!」
「黙っていろ、リチャード。俺は、ヨルダに聞いているんだ」
今まで聞いたことのないジードの冷たい声が、怒鳴り散らしていたリチャードの動きを即座に止めさせた。怯えているのか、リチャードの体は小刻みに震えている。
「もう一つ、聞こうか。立場を関係なくした場合、お前自身はどう思う?」
「それは」
ヨルダが言い淀んだが、それは一瞬だけだった。
「どちらとも言えないのが、わたくしの本音でございます。わたくしの望みは、あなた様の治めるこの国を、どこよりも豊かにすること。あなた様が王となられた時から、わたくしはそれだけを夢見て生きているのです。そのためには、魔族の力も必要」
ですが、とヨルダが一度言葉を切った。
「同時に、懸念もあるのです。その豊かさに目が眩み、魔族が力で奪い取りに来るのではないかと。また、人間族が豊かさにかまけて、今までの遺恨を晴らすかのように、魔族を蔑ろにするようになるのではないかと。そんな懸念があるからこそ、手放しで歓迎しようとは思えないのです」
「……わかった。ありがとう、ヨルダ」
「いえ」
びしっと直立し、ヨルダが頭を下げる。
「やはり、俺の考えは変わらん」
勢いよく立ち上がったジードが、声を響かせる。
「魔族と人間族は、手を取り合うべきだ。それがこの国の取るべき、正しい道である。茨の道となるだろうが、その棘を切り払う役目は、俺たちがする。だからもう、悩むことはしない」
「へ、陛下! どうか、どうかお考え直し下さい!」
ジードに縋りつくように歩み寄ったリチャードが顔を真っ青にして叫ぶも、ジードは動じず、冷たくあしらう。
「くどいぞ、リチャード。お前もこの王都を差配する者ならば、腹を括れ。それとも、頑なに拒む何かが、お前にはあるのか?」
「め、滅相もない! ただ私は、この国の人間族の未来を思って」
「ならば、腹を括ることだな。もう、返す言葉はないぞ」
ジードが玉座に座り直し、目を瞑る。本当に話す気がないらしく、少し待っても沈黙が流れるばかりだ。
ヨルダが一礼し、南の方から出ていく。しばらくジードを睨むようにして見ていたリチャードも、諦めたのか地面を強く踏み鳴らして西から出ていった。




