7-20
唸りを上げて迫っているはずの刃が、不思議とゆっくりと見える。刃の残像さえもはっきり見え、無数の剣が自分に襲い掛かってきているような錯覚に、ラインハルトは陥った。
――ごめん、アリー。
本当に僕は、口先だけの男だ。
ラインハルトの胸の中で、後悔が広がる。ただそれも、すぐに消えてしまうだろう。刃は、あと少しでラインハルトに届く。
――あれは。
動きの遅くなった世界の端に、ふと白い何かが映った気がした。それは刃が迫るよりも圧倒的に速く、ラインハルトに近づいて来る。
あれは何だ。ラインハルトがそう思う前に、激しい金属音が鳴り響いた。
「何……?」
レヴィアの口から、困惑に似たような声が漏れる。
ラインハルトも、目の前の現実に困惑し、一瞬思考が止まった。
真っ白な甲冑に身を纏った騎士のような何かが、レヴィアの剣を受け止めていた。
それは人というにはあまりにも朧気で、姿はゆらゆらと揺らめいている。ちらと見える首元は空洞なのか、生身の肉体がないように思えた。
――まさか。
すぐに正気を取り戻し、ラインハルトは横目でちらとアリーを見る。
荒い息を吐きながら、それでも両手を前に突き出したアリーの姿に、ラインハルトはこの何かが、魔法で生み出されたものだと気づいた。
瞬間、アリーと目が合う。
「間に合った?」
そんな声が聞こえた気がして、ラインハルトは微かに頷いて見せた。
「何だ、これは。これは、一体」
困惑するレヴィアの声。受け止められた剣を引くこともせず、ただ動揺している。ラインハルトは、この男に初めて大きな隙を見出した。
動かないはずの体に、無理やり力を入れる。叫びそうなほどの激痛と、炎に焼かれているような熱さを感じながらも、ラインハルトは力を入れ続けた。
血が、さらに傷口から流れる。だが、そんなものに構っている暇はない。
――僕は、守るんだ。
右手の剣を強く握り、左足で大地を強く蹴った。同時に、目の前の白い何かが姿を消し、レヴィアの体が視界に映る。
唐突に抵抗が消えたからか、レヴィアの体勢は微かに崩れていた。困惑を歯を食いしばって噛み殺し、焦慮を顔に浮かべながらも、レヴィアは横に逃げようとしている。
しかし、逃さない。ラインハルトは、右手の剣を思い切り突き出した。
肉を刺し貫く鈍い音と、苦痛に似た呻きが上がる。ラインハルトの剣は、しっかりとレヴィアの腹を刺し貫いていた。
「くっ!」
レヴィアが左の拳を振るい、ラインハルトに思い切り叩きつける。ラインハルトはなす術なくそれを受け、一度二度と地面を転がった。
奇しくも仰向けになり、顔だけ上げてレヴィアを見る。
突き立った剣を引き抜き捨て、ふらりとしながら腹の傷を押さえているレヴィアが、アリーを見ている。
「……これが、お前の力か、小娘。成程、素晴らしいな」
蒼白な顔のレヴィアの口元に、笑みが浮かんだ。不思議と、痛いほどの殺気は姿を消してしまっている。
「今は、退いておくべきだろうな。この手負いの状態では、命を無駄に捨てかねん」
剣を収め、レヴィアが背を向ける。その足元には、赤黒い血だまりができつつあった。
「次に会う時を楽しみにしていよう、魔女よ。その時こそ、おまえを手中に収めて見せる」
いくらか余裕があるような声で言い、レヴィアは去って行く。
その背を、ラインハルトもアリーも、ただ黙って見送ることしかできなかった。
「ラインハルト」
レヴィアの背が見えなくなってから、すぐにアリーがラインハルトに駆け寄ってきた。
屈みこんだアリーは、泣きそうな顔でラインハルトを覗き込んでいた。
「しっかりして。お願い、死なないで」
死なないよ。そう返したかったが、ラインハルトは声が出なかった。思えば、体が少し冷たくなってきた気がする。レヴィアと比べ物にならないほど、体から血が流れているのを、ラインハルトは思い出した。
「アリー、傷を少し塞がないと」
アリーではない声が、聞こえた気がした。ただ、ラインハルトはその声に聞き覚えがあった。
微かに視線を動かし、アリーの隣を見る。朧気にだが、少女の姿があることを、ラインハルトはぼんやりとしながら認めた。
「でも、治癒の魔法は相手の命を使っちゃうんだよ。今のラインハルトにかけたら、すぐに死んじゃうよ」
「わかってる。だから、あなたの魔力を貸して。あなたの魔力を使って、傷を少しだけ塞ぐ。その程度なら、多分グランツの生命力を使わないで済むはず」
「うん、わかった」
迷わずに言ったアリーの体から、白い光が迸る。それが隣の少女の手のひらに集まり、そこから現れた黒い光と混ざり合った。妖しく放つ灰色のくすんだ光を、少女はラインハルトの傷に当てる。
一瞬激痛が走ったが、それもすぐに和らいだ。止まることを知らずに流れ出していた血がぴたりと止まったのを、ラインハルトは感じた。
傷の具合を見た少女が、小さく頷いた。すぐにちゃんとした手当をすれば多分大丈夫、と少女が言う。
「あとは、血を何とかしなきゃ。アリー、お願いできる?」
「お願いって、どうすればいいの?」
「あなたなら、自分の魔力を分け与えるように、血を分けられるはず。魔力を使うように、頭の中で想像して」
「えっ。人の血って、色が合ったものじゃないといけないんじゃないの?」
「その人の血の色にちゃんと合ったものじゃないと、本当はダメだよ。でも、あなたなら、相手の色に合わせられる。だから、グランツにもちゃんと適合するはず。幸い、グランツの血の色はそこにある。合わせるのは難しくないと思うよ」
頷き、アリーが一度目を瞑って、集中しているような素振りを見せる。何か不思議な力が彼女の体を取り巻き始めたのを、ラインハルトはうっすらと感じた。
「うん、大丈夫。それで、どうすればいいの?」
「一番やりやすいのは、多分口移しかな。それで、血を分け与えられると思う」
「えっ」
アリーが困惑し、顔を一気に赤くする。ラインハルトも内心驚いたが、表に出すほどの気力はない。
それでも、少女は表情を一切変えずに、強い口調で言う。
「ためらってる暇はないよ。このままだと、血が足りなくてグランツは死んでしまう。それでいいの?」
「よ、よくない、よくないよ」
「じゃあ、恥ずかしがってる場合じゃないね」
尚も強い口調で言う少女に、アリーは二度頷き、ゆっくりとラインハルトの顔に自分のそれを近づける。
息のかかりそうな距離まで近づき、アリーの唇が、そっとラインハルトの口を覆った。
唇に、柔らかな感覚が触れる。どことなく甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
不意に、体を覆っていた冷たさが、和らいできたような気がした。体の内側から、微かにだが熱くなってくるのを感じる。
アリーが、そっと唇を離した。そしてパッと立ち上がり、恥ずかしそうに両手で顔を覆う。
その様が少しおかしくて、ラインハルトは微かに笑う。それから、ゆっくりと左腕を顔の前に上げて、何度か手を開閉させた。
「生きている、な」
ぽつりと呟くと、少女が反応して、顔を向けてきた。すぐに、少女がアリーを呼ぶ。
アリーが手を離し、赤い顔をしながらこちらに目を向ける。その双眸は、涙で潤んでいるように見えた。
「大丈夫、ラインハルト?」
「何とか、ね」
答えて、起き上がろうとするラインハルトを、アリーは制す。
「喋っちゃダメ。早く、お医者様に見せなきゃ」
「アリー、お医者さんがいるとしたら、森の奥の村しかないよ。何とか、そこまで連れて行こう」
「……それなら」
ラインハルトは力を振り絞って、一度指笛を吹いた。すぐに、馬蹄の響きが聞こえてくる。小屋の近くに放していたイデアルが、颯爽と駆けつけてきた。
「……イデアルに、乗って行けばいい。歩かせれば、耐えられると思う」
「無茶だよ。あなたの傷は、とても深いもの。少しの振動で、また開いてしまうかもしれない」
「でも、時間がないのだろう?」
苦笑しながら言うと、アリーが言葉を詰まらせた。そうだけど、と口にしたっきり、続きはなかなか出て来ない。
「ここは、グランツの言うとおりにしよう。それに、小さく開くくらいなら、その場で何とかしていける」
アリーはちょっとためらっていたが、やがて頷いた。
「……ありがとう、二人とも。僕のために、頑張ってくれて」
ラインハルトの言葉に、アリーと少女が驚いて顔を見合わせる。
「わたしが、見えてるの、グランツ?」
「少し、ぼやけているけど、見えているよ。そうか、君が、マリアか」
「ど、どうして? さっきは、見えていないみたいだったのに」
さっきと言われて、ラインハルトはちょっとだけ考えた。それが朝起きたばかりのことだとしたら、確かに見えてはいなかった。
けれど、今は見えている。それが何故か、ラインハルトは漠然とだが分かった。
「皮肉だけど、多分、僕が死にかけているから、かな。今は、生と死の狭間に、僕はいるのだから」
「……うん、そうかも。わたしは、意識だけの存在。それなら、何となくわかる気がする」
マリアが二度、頷いて見せた。その仕草が、どことなくアリーに似ていて、ラインハルトは思わず口元に笑みを浮かべた。
ラインハルトは、ゆっくりと体を動かし、自らイデアルに跨った。二人は慌てて止めていたが、それには構わなかった。
アリーとマリアが、少し頬を膨らませながら、馬上のラインハルトを見上げている。苦笑しながら、ラインハルトは左の手を差し伸べた。
アリーが乗り、マリアはふわふわと宙に浮いて、後ろについた。意識だけの存在と言うのは確かのようで、自分で歩く必要はないらしい。
そのマリアが、大事そうに抱えていたラインハルトの剣をそっと差し出す。剣のことなど全くと言っていいほど意識の外にあって、ラインハルトはバツが悪そうに笑ってから、その剣を受け取った。
「さあ、行こう」
イデアルの腹を軽く蹴ると、ゆっくりと歩き始めた。微かな振動が傷に障り、ラインハルトは少し辛かったが、堪えられないほどではない。
目的の場所は、この湖から北東にいくらか行ったところにある。馬を駆けさせられれば、あまり時をかけずに行けるだろう。しかし、今はゆっくりとしか進めない。いくらか長い時がかかると見るべきだ。
馬上に揺られて進む間、誰も口を開かなかった。アリーもマリアも、ラインハルトの傷が開かないか気が気でないらしく、後ろでそわそわしている。ラインハルトはその二人の気持ちを汲んで、喋りたいのを抑えて黙っていた。
そのままの状態で、いくらか時が流れた。
ゆっくり進んでいるから、周囲の景色は全く変わっていない。
時が経つにつれて、ラインハルトの意識はぼんやりとしてくる。傷の痛みと暴れそうになる熱が、ラインハルトの意識を途切れさせようとしていた。だが、頭の中にわだかまる疑問が、気を失うことを許さなかった。
ラインハルトは、口を開くのを一瞬ためらったが、それに抗うのをやめた。疑問の答えへの渇望が、ラインハルトの心を突き動かしている。
「ねえ、二人とも。君たちに、聞きたいことがあるんだ」
振り返り、ラインハルトは少し掠れ気味の声で言った。
ラインハルトが喋ったことで、アリーもマリアもハッとし、喋っちゃダメ、と口を揃えて窘めてくる。それでも、ラインハルトは言葉を続けた。
「大昔に何があったのか、教えてほしい。ここまで来て、僕だけ知らないのは、もう嫌なんだ」
少し息苦しく、途切れ途切れになったが、ラインハルトは言い切った。
本当は、さっきのアリーの力が何なのかも、聞いてみたかった。しかしそれ以上に、彼女らが見ていた過去を、ラインハルトも知りたかった。
当然、その過去が忌まわしいものであることは、ラインハルトだって理解している。口にしたくない気持ちも、わかる。それでも、聞きたかった。今を逃しては、おそらく一生その機会はない。
アリーとマリアが、顔を見合わせる。二人の表情に、一瞬暗いものが浮かんだが、それも溜息と共に消えた。
「……しょうがないな。わたしが、話すよ」
「ううん。ここは、私に任せて、マリア。あの過去は、私のものでもあるもの。あなたばっかりに、辛い役目は負わせない」
「アリー……」
少し泣きそうな顔をしてから、マリアが頷いた。口を噤んで、少し俯いている。瞳から、そっと小さな雫が零れていった。
アリーが、ラインハルトをじっと見つめてくる。その双眸は、何かを覚悟したように強い光を放っていた。
「昔、とても昔の話だよ。この国が、まだ魔族に支配されていた頃の話」
ゆっくりと、アリーが語り始める。記憶を一つ一つ丁寧に思い出すかのように、継がれる言葉はひどくゆっくりで、それでも事細かに物事を伝えてくる。
ラインハルトは、ただじっと聞き入った。この国の覆い隠された歴史に耳を傾けているその様は、浅ましくも好奇心に満ちた子どもが、新しいものを学んでいる姿勢とよく似ていた。




