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私を忘れて  作者: 千変万化
七章 「魔女」
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7-19

 普段とは、何もかもが違った。

 放たれる殺気は肌を刺し貫いてしまいそうなほど痛く、息をするのも苦しい。空を断ち、唸りを上げる斬撃はあまりにも鋭く、ラインハルトの急所を微塵のためらいもなく襲って来る。

 レヴィアの表情は、一切変わっていない。ただ真顔で、ラインハルトの隙だけを見出そうとしている。稽古ではない。本気だ。レヴィアは、本気でラインハルトを殺しに来ている。

 最初の一撃を打ち合った時、ラインハルトはレヴィアが考え直してくれるという可能性を捨てた。この戦いに勝利すればその目はあるかもしれないが、そもそも勝てるかどうかさえ非常に怪しい。今まで、真剣の立ち合いで勝利したことなど、たったの一度さえないのだ。

 だからこそ、ラインハルトは最初から全力で斬り込んだ。レヴィアがラインハルトの実力を測りきる前に、少しでも手傷を負わせられれば。そんな淡い期待を抱きながら、体力の配分をあまり考えず、攻めに攻めた。

 しかし、レヴィアの体に剣は届かなかった。鋭く、素早すぎる剣技に、ラインハルトはついていくのが精いっぱいだった。

 だがそれも、ここまでだろう。息が乱れ始めたラインハルトに対して、レヴィアは涼しい顔をしている。徐々に徐々に、押されていくはずだ。

 右から、首を狙って剣が薙がれる。一段と鋭い速さに、ラインハルトは思念を放り出し、咄嗟に剣を出した。刹那、乾いた音が響き、次いで手に重い衝撃が走った。

 あまりの重さに、一瞬体がよろめく。そこを逃さず、レヴィアが剣を振り下ろす。ラインハルトは、迷わず右へ跳んだ。それでも、微かに切っ先が足を掠める。

「くっ……!」

 地に降り立つと鈍い痛みが走ったが、ラインハルトは休むことなく前へ出た。

 間合いに入るのと同時に斬り上げる。しかし、当たらない。レヴィアの姿は間違いなく目の前にあるのに、手応えは全くない。

 何故、と疑問に思う暇もなく、左の方から風の唸りを聞いて、ラインハルトはそちらのほうを見ずに剣を振る。また、乾いた音が響いた。

 レヴィアは、いつの間にか左に移動していた。前方にいたのは残像で、左からレヴィアの斬撃を受けた頃には、その影は既に消えていた。

「ほう。今のを受け切るか。少しは腕を上げたようだな、ラインハルト」

 一度離れ、剣を構え直したレヴィアが、表情を変えずに言う。

「だが、半人前であることに変わりはない。私の敵として立ち塞がるには、お前は弱すぎる」

 ラインハルトは、何も言わなかった。そんなこと、わざわざ言われなくても理解している。

 大地を強く蹴り、ラインハルトはレヴィアに迫った。剣を斬り上げ、振り下ろす。大降りにならないように小さく、何度も繰り返した。しかし、どれもかわされるか、剣でいなされるばかりだ。それでも、ラインハルトは攻め続けた。

 一歩さらに踏み込み、ラインハルトは目いっぱい斬り上げた。

「無駄だ」

 声が聞こえた刹那、一陣の風が通り抜けた。次いで感じる、鋭い痛み。

 ラインハルトは、微かに左へ移動するのが精いっぱいだった。動きは、まだ辛うじて追える。だが、体が追い付かない。

 ちらと、右腕を見る。腕の真ん中辺りに、赤黒い染みが広がりつつあった。

 剣を握る右手が、微かに震える。握った力も、少し弱くなっている。それでも、ラインハルトは諦めない。

 後ろに回っていたレヴィアに向き直り、ラインハルトはまたすぐに斬りかかった。

 自分でも手負いとは思えない素早い切り返しに、レヴィアが咄嗟に剣を出す。刃がぶつかり、火花が散る。乾いた金属音の残響が、耳朶を叩いた。

 一度間合いを取ったレヴィアが、前へ踏み出して二度剣を振った。

 その軌跡は、何とか見える。しかし、ラインハルトの体は、その動きに対応できなかった。

 豪風が咆哮を上げ、血飛沫が地に降り注ぐ音が、束の間耳に届いた。

 ラインハルトは、思わずよろめいた。額が少し割れ、どろりとした赤が視界を奪っていく。あともう一か所がどこを斬られたのか、ラインハルトにはわからなかった。

「よく避けたな。いや、たまたまか」

 レヴィアが、冷たい声で言う。

 ラインハルトは、自分が無意識のうちに半歩下がっていることに気づいた。それで即死は免れたが、もしかしなくても一時的なものに過ぎないかもしれない。

 ――僕は、また守れないのか。

 一瞬よぎった後ろ向きな思いを、ラインハルトはすぐに打ち消した。今は微かな弱気さえも、死を早めるだけだ。

 ――守る。この命に、懸けても。

 ラインハルトは、全神経を集中させた。視界が、流れる血で狭められる。鬱陶しくて、ラインハルトは目を瞑った。少し暗い世界が、現出する。

 何も見えなくなった分、感覚が研ぎ澄まされていく。肌に当たる風や遠くの鳥のさえずりが、よく感じられ、聞こえた。

「諦めたか。それもよい」

 レヴィアの声が聞こえる。さっきよりも、鮮明に。

 空気が震え、風が唸る。暗闇の中で、ラインハルトはレヴィアの気配を捉えた。右から、胴を薙いでくる。咄嗟に、這いつくばるほどに身を低くした。

 豪風が、頭上を通り抜ける。レヴィアの微かに息を呑んだ声が、はっきりと聞こえた。ラインハルトは、風が通り過ぎようとした刹那に、剣を斬り上げた。

「むっ」

 小さく、レヴィアが呻いた。

 どこかを斬った感触が、ラインハルトの手に確かに伝わる。浅くはない。しかし、声を聴く限り、深手でもない。

 対して、額の傷は思ったよりも深いのか、血は一向に止まる気配がない。だがそれも、今のラインハルトには大して気にならない。

 レヴィアの気配が動く。正面。間合いを詰め、剣が空を断つほどの唸りを上げながら、ラインハルトを左肩から切り下げるような軌道を描いている。

 ラインハルトは体の正面を右に向かせながら、レヴィアの剣を自分のそれで受け流した。丁度、右へ円を描くような感じだ。レヴィアが微かに体勢を崩し、前につんのめる。

 ラインハルトは受け流した勢いのまま、左の拳を前に突き出した。

「ぐっ」

 レヴィアの小さな呻きと、手に現れた確かな顔の感触。ラインハルトはためらいなく、左の拳を打ち抜いた。

 レヴィアの体が一度、二度と地面に叩きつけられたような音が、束の間鈍く響いた。

 少し隙が生まれたことで、ラインハルトは額の血を拭い、薄く目を開けた。長く瞑っていたのとまだ流れる血によって、視界は少しぼやけたが、それでも剣を杖に立ち上がろうとしているレヴィアの姿は見えた。

 ラインハルトは、ここぞとばかりに間合いを詰めた。レヴィア相手に、正々堂々などと言ってる余裕はない。

 レヴィアが口から赤いものが混じった唾を吐き出し、唇から流れる血を拭っては、一瞬それに目をやった。何の感情も映っていなかったその双眸に、微かな怒気が宿るのを、ラインハルトは見逃さなかった。

 ――まずい。

 不意に、嫌な予感がよぎる。しかし、体はもう前進していて、レヴィアの間合いに入ってしまっている。このまま、攻撃に移るしかない。

 レヴィアが近くに迫る。ラインハルトは、渾身の力を込めて剣を振り下ろした。

 肉を裂く音が、はっきりと聞こえた。剣から、確かな手応えを感じた。

 それなのに、レヴィアはラインハルトの後ろで、悠然と構えていた。

 ――何故だ。

 思って咄嗟に振り返った時、ラインハルトは喉の奥から、熱いものがせり上がってくるのを感じた。あまりにも熱く、それでいて多くて、ラインハルトは堪えきれずに吐き出した。

 おびただしいほどの真っ赤な液体が、束の間大地を汚す。それは、口から出たものだけではなかった。

 身を守るはずの鎧を着けられなかったのが災いし、ラインハルトの右肩から左の脇腹にかけて、深い傷が刻まれていた。

「ば、馬鹿な……」

 片膝をつき、荒い息を吐きながら、レヴィアを見上げる。冷たい双眸が、ラインハルトを見下すように見据えている。

「私の腕に剣が届いたのは見事だった。だが、そこまでだ。この現実が、埋められぬ実力の差だ」

 レヴィアが胸の前まで上げた左腕からは、確かに大量の血が滴り落ちている。だが、当然致命傷になるはずもない。

 完敗である。命を懸けても、結局はこの男に一矢報いるのが精一杯だった。

 それでもラインハルトは、剣を手放さなかった。命が尽きるまで、諦める気はない。

「やはり、殺すには惜しいが、仕方があるまい」

 レヴィアが、ゆっくりと剣を振り上げる。ラインハルトは、震える腕を無理やり上げようとしたが、叶わなかった。キッと、レヴィアを睨みつけることしかできない。

「これで終わりだ。死ね、ラインハルト」

 剣が、勢いよく振り下ろされた。

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