7-16
小鳥のさえずりが聞こえる。
机の上に突っ伏していた顔を上げ、アリーは重い瞼を擦りながら開いた。いつの間にか夜は明け、窓から見える遠くの空は白み始めていた。
いつもだったら、アリーはまだ眠っている時間だろう。ラインハルトも、未だに寝息を立てたままだ。
「おはよう、アリー」
イスにぼんやりと座っていたら、明るい声が隣から聞こえてきた。そちらに目を向けると、少し朧気ではあるが、魔女の姿が確かに見えた。
少し前から、魔女の姿が見えることがあったから、アリーはそれ自体には驚かない。しかし、魔女のこんなにも明るい声を聞いたことがなくて、ちょっと面食らってしまっていた。
「どうしたの?」
怪訝な顔をして、魔女は小首を傾げながらアリーの顔を覗き込んでくる。その仕草が、どことなくあどけない少女のように思えて、アリーは思わず笑みを浮かべた。
「何でもないよ。おはよう」
アリーの笑みに、魔女はまだ怪訝なものを浮かべている。見た目はアリーよりちょっと大人なのに、どうしても少女にしか見えなくて、くすくすとアリーは小さく笑った。
「もう、何がおかしいの?」
頬を膨らませて拗ねた顔をしながら、魔女が言う。アリーはごめんね、と小さく謝り、笑うのをやめた。
アリーは部屋の片隅にあった姿見の前に立ち、身なりを整えた。ラインハルトを起こさないように、そっとやっていたものだから、結構時間がかかってしまった。
窓の外では、太陽が遠くの山から顔を出し始めている。
「ねえ」
魔女と呼び掛けて、アリーはやめた。魔女が、また怪訝な顔をして顔を覗き込んでくる。
「私のこと、呼んだ? どうかした?」
「そういえば、あなたの名前を知らないな、って思ったの。できれば、教えてほしいな。いつまでも、魔女なんて呼びたくないから」
「名前……」
魔女は少しだけ表情を曇らせ、考えるような素振りを見せる。
「わたしの、名前……。わたしは」
眉間に皺を寄せて、魔女は考え込んでいる。多分、色々なことがありすぎて、自分の名前を一時的に忘れてしまったのだろう。彼女が巫女だった頃のことは、あまりにも辛い出来事が多すぎる。そして、魔女となってからの期間は、気が遠くなるほど長かった。自身の名前が記憶の奥底に、埋もれてしまっていてもおかしくはない。記憶を共有しているアリーだって、いくら辿っても思い返すことはできなかった。
アリーは、魔女が答えを見つけるまで、じっと待っていた。
「……マリア。そう、わたしの名前は、マリアだ。やっと、思い出せた」
少ししてから、彼女がそう口にした。ほっとした表情を浮かべながら、マリアはパッとアリーに目を向けた。
嬉しそうに目をキラキラ輝かせるマリアと目が合うと、アリーも嬉しくなってまた笑みを浮かべた。
「それで、どうしたの、アリー?」
「何が?」
「何がって、聞きたいことがあるんじゃないの?」
わざわざ名前を教えてもらうために呼んだのではないことぐらいは、マリアは察しているようだ。また、疑問に満ちたような顔をしている。
そうだった、とアリーは少しばつが悪そうに笑った。
「ねえ、マリア。あなたは平然と今ここにいるけど、大丈夫なの? 仮にもあなたは、魔女なんだよ?」
「何とか、大丈夫みたい。あなたのお父様のおかげで、前よりずっと正気を保ててる。わたしの狂気は、ずっとずっと奥に押し込まれてて、まだ少しの間は持つと思うよ」
でも、とマリアはちょっとだけ顔を曇らせた。
「呪いの魔力は、やっぱり抑えきれてないかな。大地から、ほんの少しずつ命を吸い上げてるのが、何となくわかる。あんまり魔力を使うと、その力が強まっちゃう気がするよ」
「そうみたいだね。私も、同じものを感じてる。あんまり、魔法を使ったりしちゃいけないかもしれないね」
「でも、あなたは追われてる身。何かあったら、魔法を使ってでも逃げなきゃ」
「だけど」
「大丈夫」
アリーの言葉を、少し自信があるような声で、マリアが遮った。
「わたしの力が暴れ出しても、今はあなたの力もあるもの。きっと、少しの間は時間を残してくれるよ」
だから大丈夫、とマリアはにこりと微笑んだ。
思えば、ちょっと前とは状況が違っている。今、アリーの中には、二つの魔力がある。魔女と、自分の力。色で例えるとしたら、マリアの魔女の魔力は黒で、アリーのそれは白だろうか。汚れすぎたものと、そうでないもの。それでも、二つの魔力は同じくらいの力がある。
差がなければ、黒と白が混ぜ合わさっても、どちらかに偏ることはない。暴走する力を、止めることができるかもしれない。
――まだ、不安だけど。
魔女の魔力さえ、ちゃんと意識して操りきっていないのに、自分の魔力までもが体に入り込んできた。勿論、使える自信はないし、実際うまく操れない。アリーは不安でいっぱいだったが、そうも言ってられないことはちゃんとわかっていた。
「それにしても」
微笑み返しながら、アリーは言った。
「こうやって見ると、本当によく似てるや。まるで、姉妹みたい」
「し、姉妹……?」
「うん。あなたとこうしておしゃべりしてると、なんだか落ち着いてくるんだ。他人と話してるって、感じがしないんだ」
「だってそれは」
言いかけたマリアを、アリーは人差し指を口に当てて制す。
言いたいことが伝わったのか、マリアはごめん、と言って続きを言わなかった。
生まれ変わりだから。その答えがもう正しいとは、アリーには思えなくなっていた。確かに、持ち合わせた記憶は同じものであり、辛い思いも等しく抱いていた。だが、それは所詮、過去の残影に過ぎない。
「もしも、もしもだよ。あなたと私が姉妹だったら、どっちが姉様かな?」
「もちろんわたしだよ! わたしが、お姉ちゃんに決まってる」
ちょっと大きな声で勢いよく言われて、アリーは少しびっくりした。
「だって、わたしのほうが背丈はちょっと大きいし、たくさんのことを経験してるもの。アリーより、断然お姉ちゃんだよ」
「そうかな?」
「そうなの!」
頬を膨らませながら言うマリアは、どちらかと言うと背伸びした妹という感じだが、アリーはそれは言わず、笑みを浮かべながらただ頷いた。
「じゃあ、姉様って呼ぼうかな。あなたと、もっと仲良くなりたいしね」
「本当? 本当に、そう呼んでくれるの?」
もう一度頷くと、マリアが嬉しそうに頬を綻ばせた。姉という響きに、どこかうっとりしているようにも見えた。
アリーはそれを微笑ましく思うも、同時に少しだけ寂しかった。マリアが普通の女の子だったら、今のように無邪気に笑って日々を過ごしていただろうと思うと、胸が痛くなってくる。
ただ、それは心の奥底にしまい込んだ。後ろ向きな感情と向き合ってきた人は、人の負の感情を、すぐに見抜く。
「ん……」
アリーが悟られまいと別の話題を口にしようとした時、ラインハルトが目覚めた気配がした。
さっきまで浮かれていたマリアの表情が、ぴたりと止まる。見る見るうちに顔は緊張し、強張ったようになった。
「あれ、僕はいつの間に……」
寝ぼけ眼を擦りながら、ラインハルトが体を起こす。
状況を把握しようと周りを見渡すラインハルトの目と、アリーのそれが重なった。が、アリーはすぐに逸らしてしまった。
「お、おはよう、アリー」
「う、うん。おはよう」
互いに交わした言葉は、どこかぎこちなかった。
ラインハルトの目を見た時、アリーは昨日のことを思い返してしまい、無性に恥ずかしくなっていた。顔が熱く、心臓は早鐘を打ったように高鳴っている。
ちらりと、横目でラインハルトを見る。まっすぐアリーに向けられた彼の顔もまた、どこか恥ずかしそうにしていた。
「……やっぱり、見えてないよね」
マリアが、しゅんとしながら呟く。
確かに、アリーの隣にいるマリアの姿に、ラインハルトが気づいた様子はない。
マリアは、魔力を依り代にした実体のない存在だ。魔力を持っている人ならばともかく、人間には見えないのも無理はないかもしれない。
それでも、近くにいても気づかれないのは、やはり寂しいのだろう。マリアは、ちょっとだけ泣きそうな顔をしてから、アリーの中に入ってしまった。
アリーはかける言葉が見つからず、なんだか申し訳ない気分になった。
それでも、仕方ないと一旦気持ちを切り替え、ラインハルトへと恐る恐る顔を向ける。
話さなければならないことを思うと、アリーの気持ちは自然と引き締まった。
「あのね、ラインハルト。ちょっと、話したいことがあるの」
「何かな?」
アリーの声に真剣なものを感じたのか、ラインハルトは平静を取り戻し、しっかりとした目を向けてきた。
その目をアリーもまたまっすぐ見返し、昨晩のことをゆっくりと話した。
話を聞いている間、ラインハルトは腕を組んで目を瞑っていた。眉間に皺が寄り、深く考え込んでいるように見える。
「……呪いを解く、か」
話を聞き終えたラインハルトが、ポツリと言った。
「うん。あの子を救うには、それしかないんだと思う」
「その方法が、この先の村にある。アリー、確かなのか?」
「確証はないけど、私は信じたい。父様が、教えてくれたことだから」
一度唸り、ラインハルトが目を開いて腕組みを解いた。しかし、顔には難しいものが浮かんだままだ。
ラインハルトが、地図を開く。アリーも、釣られる様に覗き込んだ。
「確かに、村はある。ここからそれほど離れていないところだ」
地図には、今いる場所から北にいくらか行ったところに、小さく村の絵が描かれていた。
アリーは、ラインハルトの双眸を覗き込むようにして見た。
「……行く当てはないからね。試しに行くのは、十分ありだと思うよ」
一度息を吐き、困ったような笑みを浮かべてから、ラインハルトが言った。
「ありがとう、ラインハルト。私、どうしても呪いを解いてあげたいんだ。あの子のために、何としても」
「魔女のために、どうして?」
「マリア」
「えっ?」
ちょっとむっとしたような言い方に、ラインハルトは少し慌てていた。
「あの子の名前だよ。もう、魔女って呼んじゃダメ」
「う、うん。わかったよ」
戸惑いながらも頷いたラインハルトに、アリーは小さく笑みを返した。
「あの子が苦しんでるのは、あなたも知ってるでしょ? 私は、その苦しみから解き放ってあげたい。ううん、解き放たなきゃいけないの」
表情とは裏腹に言葉が真剣さに満ちていたからか、一瞬ラインハルトが面食らった顔をしたが、すぐに笑みを返してきた。
「……そうか。君も、ちゃんと自分の答えを見つけたんだね。この旅の、答えを」
アリーは頷いた。
「じゃあ、すぐに向かわないとね。君の話を聞く限り、悠長にはしていられないみたいだし」
立ち上がり、ラインハルトが鎧を置いてある場所に行こうとする。
その足が、不意に止まった。




