7-13
蝋燭の灯が、小屋の片隅を淡く照らす。
夜もすっかり更けて、窓から見える景色は黒一色に染められている。空には雲一つなかったはずなのだが、生憎にも月は欠けきってしまったらしく、眩い光が届くこともない。
どこまでも広がっていそうな、全くの闇。それは、どこか寒々しい思いを抱かせ、寂しいくらいの静けさを運んできている。虫や獣、風の声さえも、この時ばかりは全く聞こえない。
部屋の中も、物音が殆どしない。ラインハルトの微かな寝息が、規則正しい間隔で聞こえる程度だ。
余程疲れていたのか、ラインハルトには珍しく、無防備にも机に突っ伏して眠っていた。
お互いの気持ちを確かめ合った後、ラインハルトは緊張の糸が切れたのか、それから間もなく睡魔の虜になっていた。アリーが遠慮がちに声をかけても、ラインハルトは全く起きなかった。
いつもはしっかりしている彼の無防備すぎる姿に、アリーは少しおかしくて笑い、それから部屋の隅に置いてあった毛布をラインハルトにかけた。
アリーも疲れていたが、不思議と眠くならなかった。寧ろ、気持ちがどこか昂り、目が冴えてくるばかりだ。
本当は、すぐにでも眠りたかった。眠れば、きっと心の奥底にいる彼女に会える。そう、確信していた。
けれど、一向に睡魔は襲って来ず、時間ばかりが過ぎていく。仕方なく、眠くなるまでの間、薄暗い中でアリーは本に目を通していた。
「久しぶりだな」
本の中身にゆっくりと目を通しながら、アリーは呟いた。
ゆっくりと読書をするのは、いつ以来だっただろうか。旅の途中で何度か目を通すことはあったが、落ち着いて読むことはできず、ここ最近は本を手にする余裕さえなかった。
いや、少し語弊があるか。今、目を通している本は、ある時を境に開くことを憚った。
名無しの本。不気味な挿絵がいつの間にか増えていた、奇妙な本。
本当だったら、ちょっと恐ろしくて手に取るのもためらってしまうところだが、アリーはあることに気づき、意を決してその本に目を通すことにした。
「やっぱりそうだ。この本も、魔法の本なんだね」
一枚一枚丁寧にめくりながら、アリーは小さく頷きながら言った。
最初にそのことに気づいたのは、実はつい先ほどだ。誤って本を床に落としてしまい、拾った時にその本から強い魔力を感じた。
その力は、魔女のそれに近い、もしくは同じくらいの強さだろうか。とにかく宿っている魔力は、今まで気づかなかったのが不思議なくらい異質なものだ。
ただその魔力が、アリーにはなぜか懐かしいものに感じられた。
不思議に思いながら、アリーは一枚、また一枚とページをめくっていく。
本の中身は、途中まではかつて読んだものと変わらない。貧しい家の少女が、騎士と共に国を見て回り、心を満たしていく物語。何度も何度も読み、どんな場面でもアリーは思い返せる。
しかし、今読んでいるこの本は、確実にページの枚数が増えている。本の厚みが、目に見えて違っている。
逸る気持ちを抑えながら、アリーは丁寧に中身を確認していった。
ふと、顔を上げた先で、丁度溶けた蝋が机を汚す。蝋燭はいつの間にか、半分以下になっている。もう、どれだけの時が流れたのか。窓の外の濃い闇は変わらず深く、今がいつなのかよくわからない。
それでも、アリーは本に目を通し続けた。
やがて、アリーは見覚えのないページに辿り着いた。
広がる物語は、少女が旅先で本当の自分を知っていく話だ。読んだ覚えのないその物語は、しばらく続いている。
読み進めていくと、挿絵が姿を現した。何枚かの挿絵が、数ページに亘って続く。大樹を見上げる少女の絵や、魔族の男に跪かれて戸惑う少女の絵などが、たくさん描かれている。その中でも目を惹いたのは、かつて魔族の村で見たあの不気味な絵の、隣に描かれた挿絵だ。
そこには、馬を駆けさせる騎士の許へ、少女が飛び降りている絵が描かれていた。
「似てる」
ぽつりとつぶやき、その挿絵を何度も眺める。それ以外の絵も、見返していく。
どの絵も、既視感を覚えずにはいられなかった。どれもこれも、アリーがかつて体験した出来事そのものにしか思えないのだ。
胸が、一度高く鳴る。アリーは、緊張し始めている自分がいることに気づいた。ページをめくる手は震え、口の中も少し乾いている。
挿絵はそのページで終わり、次に捲ったところは物語の続きが描かれていた。
「これは」
読み進めながら、アリーはさっと血の気が引くのを感じた。
少女が、血に濡れながら、たくさんの人々を殺めていく。そんな感じの話が、生々しく描かれていた。
この本は、そんな恐ろしい展開になるような話ではなかった。確かに、騎士の友人が死んでしまう場面はあるし、人に追われる場面がなかったわけではない。しかし、こんなにも生々しい描写がされるほど、この本の物語は断じておどろおどろしいものではなかった。
アリーは身を固くしながら、ページをめくっていく。まだ続いている覚えのない話を、丁寧に噛みしめるように読み耽る。
その手が、不意に止まった。
「これって」
終わり近くまで読んでいって、アリーは自分の感じたことが間違いではなかったと、ほぼ確信に近いものを抱いた。
いや、本当はもっと早くからわかっていたのかもしれない。ただ、それを認めたくはなかった。
今、読んだ話の中身は、あまりにもアリーの旅と酷似していた。
アリーは、恐る恐る次のページをめくった。真っ白のページ。未使用のように、まっさらなページが広がる。
物語が、不意に途切れていた。まだページは、最後まではいくつもある。しかし、残りのページをいくつめくっても、広がる色は白いままだ。
「どうして? どうして、何もないの?」
言葉を吐き出すと共に、堪えていた恐怖が溢れ出てきて、アリーはその本を閉じた。
「あっ」
刹那、短くて、引きつった悲鳴のような声が上がる。
本のタイトルのところに、文字が浮かび上がっていた。今までなかったはずのそれが、しっかりと読める文字で描かれている。タイトルの名は、自分が最も知っている名前だ。
アリーは愕然としたが、同時に納得もしてしまっていた。自分に、魔力がなかった訳が。この本が、どうしてアリーの手元に来たのか。唐突だが、色々なことが理解できたような気がした。
そっと、アリーはその文字を撫でるように触れる。また、懐かしさがこみあげてきた。
本の魔力が、不意に弱くなる。アリーの指先を伝って、力は流れるように体の中へと入っていった。アリーが力の流れを感じなくなった時には、本には魔力は微かなものしか残っていなかった。
体がかっと熱くなり、アリーは一瞬意識が遠のきかけた。物凄い魔力の濃さに、まだ体が慣れていないのかもしれない。
魔女の魔力と、新しい魔力。二つの力のうねりを感じ、少し不思議な感じがしたが、それでもアリーは不快には思わなかった。
「ずっと、待ってたんだね。私が、気づくのを」
自分の胸に手を当て、アリーはそっと呟く。その言葉に反応するように、胸の奥がちょっとだけ熱くなった。
アリーはゆっくりと振り返り、ラインハルトに目をやった。ラインハルトは、未だ寝息を立てている。その彼に、アリーは微笑を投げかけながら言った。
「私、行って来るよ。あの子が、待ってるから」
目を閉じ、アリーは気持ちを落ち着ける。一度息を吐くと、唐突に睡魔が襲い掛かってきた。
アリーはそれに抗わず、素直に身を委ねた。意識が遠のくのを感じる間もなく、アリーの思考は瞬間途切れた。
次に気づいた時には、見知らぬ花園にいた。
足元には真っ白な花が、所狭しと咲き誇っていた。時折そっと吹く風に撫でられ、花びらは雪のように舞い、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
頭上に広がる空色も相まって、咲き誇る白い花たちはとても美しく見えた。
一瞬、その光景に心を奪われそうになったが、アリーはすぐに振り払って前へと歩き始めた。
あてはない。けれど、まっすぐ歩いていれば必ずあの子に会える、とアリーは確信していた。
「どこへ行くの? そんなに急いで」
若い女の子の声が聞こえる。一人二人、いやもっとだろうか。アリーを追うように、いくつもの声が後ろから聞こえた。
アリーは返事をせず、一瞥をくれることさえもせずに歩み続ける。
「待って。あてもなく歩いても、疲れちゃうよ。わたしたちが、案内するから」
何も、聞こえない。アリーは自分に強く言い聞かせる。
それでも、声は執拗に追って来る。
「こんな所で一人は寂しいよ。わたしたちと、一緒に行こう?」
「ねえ待って。わたしたちも、本当は寂しいの。ここには、わたしたちしかいない。同じ景色しかない。だから、あなたに一緒にいてほしいの。ここに、新しい色を付けてほしいの。だから、お願い」
優しい響きを持つ声も、哀願するような声も、アリーの耳を通り抜けていく。
いつもだったら足を止めて耳を貸してしまうだろうが、この時だけは違った。言葉の裏に潜む悪意を、アリーは確かに感じ取っていた。
ただ前を見据え、アリーはしっかりとした足取りで進み続けた。
「……そう。どうしても、待ってはくれないのね」
重く低い声が吐かれた刹那、視界を闇が覆った。
それは一瞬の出来事で、すぐに闇は払われた。しかし、この世界のきれいな色さえも、闇は道連れにしていた。
どこまでも澄んだ空色は黒ずんだ灰色となり、辺りは心なしか薄暗い。足元に咲き誇っていた無数の白い花は、水分を失いきってしまったように枯れ果て、茶色の花びらだったものを虚しく散らしている。
空気が、重い。息をするだけで、苦しくなってくる。
一度、二度と空が光を放ち、間を置かずに激しい雷鳴が轟いた。
辺りの光景の豹変具合に、アリーは少し恐怖を覚えたが、それでも歩みは止めない。
ただ、追って来る者も、止まっていない。
「逃がさない、アリー。アナタだけが違うなんて、ワタシたちは認めない」
女性の低く、くぐもった声が背後に迫る。いや、もう隣から聞こえる。
左腕を、がしっと掴まれた。その手が、妙なほどに硬い。
ちらりと、アリーは横目でその方を見た。そして、後悔した。
無数の骸骨がいる。その一つのドクロと、アリーは目が合った。目などないはずだが、確かにアリーを見つめている。
右足にも、掴まれた感触が伝わる。下を向くと、両の腕でしっかりと抱き着くように掴まれているが見えた。掴む腕は、嫌になるほどに細く白い。
視線を前に戻し、アリーは何とか堪えて歩み続ける。
「ココで、一緒になるの。ワタシたちと、永遠にいるの。ずっと、恨み続けるの」
「アナタの心は、ワタシたちが貰ってあげる。そしたら、ワタシたちは自分でいられる」
くぐもった重い声が、何度も何度も囁かれる。
右腕も掴まれた。腕力となるものがないのに、物凄い力である。あまりの痛みにアリーは一瞬顔を歪めたが、歯を食いしばって堪え、歩き続けた。
「まさか、自分から来るなんてね、アリー」
不意に、明瞭な声が聞こえて、アリーは足を止めた。
目の前の空間が一瞬歪み、そこから一人の女性が現れた。
魔女。だが、以前話した彼女ではない。冷静そうな声とは裏腹に、表情には狂気の色が満ちている。
「ここに踏み込んだら、もう逃げられないよ。いつもみたいな記憶の世界とは、違うのだから」
右の口角を吊り上げながら、魔女が言った。
「今度こそ、身体は貰うよ。そしてワタシは、復讐を果たす」
「それが、呪われた魔力の答えなんだね」
「違う。魔女である、ワタシの答えよ。それは、あの日から変わらない」
「うそ。そんなことない。あなたは、そんなことを望んではいない」
「望んでる」
魔女が片手を振り上げた。
骸骨が、アリーの首を、細い指で力強く締め付けてくる。冷たくて硬い感触が、生々しいぐらいにはっきり感じられた。
苦しくてもがこうとしたが、アリーの両腕は強い力で掴まれている。思うとおりに動かせず、もがくことさえできない。
「ワタシは、全部奪うの。人の幸せを踏みつけにして生きているこの国を、消し去ってやる。そして、アイツだけを最後に残して、殺してやる前にこう言うの。全部、お前のせいだ。お前のせいでこうなったんだ、ってね」
魔女が狂気に歪んだ瞳をこちらに向けながら、狂ったように高々と笑う。甲高い声はしばらく幾度も響き、やがてやんだ。
それでも、魔女の右の口角は吊り上がったままだ。
ゆっくりと、魔女が近づいて来る。自分の手でとどめを刺すつもりなのか、右手には小さなナイフが握られていた。
「死んじゃえ、アリー。もう、苦しい現実を生きる必要はないわ」
魔女が間近に迫り、ナイフを構える。骸骨の首を絞める力が、より一層強くなった。
息ができず、それでいてこみ上げる恐怖が、アリーをさらに苦しくさせる。目を逸らそうにも瞑ろうにも、体の自由が利かなくて、鈍い光を放つナイフを見据えることしかできない。
「や、め、て」
そんなことをしても、あなたは救われない。
しかし、そこまで口にすることはできなくて。目の前の現実に怯えて拒絶しているとしか、おそらく魔女には思ってもらえなかった。
「バイバイ」
歪んだ笑みを浮かべ、魔女がためらいなくナイフを突き出した。
胸目がけて迫る鋭利な刃の軌跡が、ゆっくりと見える。それだけではない。魔女の体の動きも遠くの稲光も、細かいほどにはっきりわかるほど、世界は遅く動いている。
その中で、意識だけはそのままの速さで巡り続けている。
――終わり、なの? こんな形で。
一瞬よぎったその思いを、アリーはすぐに否定した。
何も救われない結末を導くために、ここに来たわけではない。救われたがっている彼女のために、アリーは自らここに来たのだ。
――こんな形で、終わらせない。
強く強く決意を胸に抱き、アリーは初めて戦う意思を剥き出しにした。
刹那、体の底から急に力が湧いてきた。あまりにも大きく、それでいて優しい力だ。ためらうことなど一切せず、アリーはその力に身を委ねた。




