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私を忘れて  作者: 千変万化
七章 「魔女」
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7-11

 徐に瞼を開け、まだ覗き込んでいた魔女の双眸を、ラインハルトは見つめる。

「理想を捨てない。捨てるわけには、いかないんだ。たとえ、僕にとっての大切な人がいなくなったとしても」

「そうなったら、辛くないの?」

「多分、辛いだろう。今、想像するだけでも、こんなに苦しいんだ。きっと、自分が自分でなくなるくらいの辛さなんだろうね」

「だったら」

「だからこそだよ」

 ラインハルトは、少し強い声で言った。

「国を変えるというのは、易しいことじゃない。想像できないくらいの、辛さや苦しさの先にある。君に言われて、僕は初めてそんな気がし始めたんだ。それでも、歩みを止めるわけにはいかない。止めてしまったら、僕はきっと後悔する。後悔しながら変わらない国を見続けるのは、多分死ぬよりも苦しいよ」

 一息に言い切った言葉に魔女は少し呆然としていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……やっぱり、似てるなぁ。わたしの傍にいてくれたグランツに、あなたはそっくりだよ。あの人も、たくさんのものを諦めないで、拾っていこうとしてたっけ」

「そんなに似ているのか? 君の言うグランツっていう人に」

「うん。姿かたちもそうだけど、考えてることもそっくり。何だか、あなたと話してると、あの人と話してる気分になるよ」

 昔を懐かしんでいるような魔女は、穏やかな表情を見せている。しかし、その穏やかさの中に寂しさが混じっていることに、ラインハルトはふと気づいた。

 聞いていいことだろうか、とラインハルトは一瞬躊躇した。それでも、気づけば口は勝手に動いていた。

「その彼は、どうなったんだ? もしかして、彼も命を」

「ううん。彼はわたしのために、わたしから離れていったの」

 命を奪われていないと聞いて少しほっとしたが、魔女の言葉にラインハルトは首を傾げた。

「意味が、分からないな。君は、国と戦っていたのだろう? 離れることが、どうして君のためになるんだ」

「わたしが呪われた魔法そのものなのは言ったよね。魔法は魔力によってなされるから、呪われて穢れた魔力を宿した体は、どんどん蝕まれていくの。グランツは、それを黙って見ていられなかった。ある時、魔力を浄化する術が存在していることを知って、グランツはすぐに探しに行ってしまったんだ」

「でも、君が呪われたままということは」

 うん、と魔女が寂しそうに頷く。

「グランツが帰ってくることはなかった。どうなったのかも、わからない。彼が去ってからふた月した後に、わたしはここで死んだのだから」

 魔女が、一度天を仰いだ。まだ落ちきっていない夕日の光が、彼女の顔を茜色に染める。

「本当は、待ちたかった。でも、わたしの体も心も、もう待てなかった。待ってしまえば、きっとみんなから何もかも奪ってしまったと思う。奪ってしまったら、わたしはあいつらと一緒になってしまう。そんなのは、いやだった」

 魔女の瞳から、大粒の涙が零れた。

「わたしだけが救われないなら、いいの。みんなさえ巻き添えにならなければ、よかったの。だから、わたしは」

 言葉の途中で、魔女が唐突に屈みこみ、頭を押さえて呻いた。

 ラインハルトは思わず緊張し、身構えざるを得なかった。辺りの空気が、急に張り詰めていく。魔女から放たれる気配が、身を裂くような痛みを覚えさせる。

「……もう、限界なんだね」

 屈みこんだまま、魔女がか細い声で言った。

「もっと話したかったけど、これ以上は無理みたい。傷に、触れ過ぎちゃったからかな……? でも、触れなきゃ、話したいことは話せなかった」

 魔女の声が震えている。少し苦しいのか、心なしか息が荒くなっているような気がした。

 徐に、魔女が立ち上がり、ラインハルトを見る。しかし、こちらを向いた瞳は、何も映っていないかのように虚ろなものだ。

「もう、こんな風には会えないかもね。わたしの狂気は、取り戻しかけたわたしの自我を、どんどん呑み込んでる。このままじゃ、アリーに体を返すこともできなくなっちゃう。だから、戻らなきゃ」

「待ってくれ」

 瞳を閉ざそうとした魔女が、少しだけ怪訝な顔をしてやめた。

 構わず、ラインハルトは続ける。

「君は、本当に思っているのか? 自分だけが救われなくていいって、心の底から思っているのか?」

「思ってるよ。わたしは、許されないことをしたんだもの。罰を受けて、当然」

「嘘だっ!」

 ラインハルトの張り上げた声に、魔女がびくりと肩を震わせた。

 自分でも、どうして見ず知らずの魔女に声を上げたのか、ラインハルトにはよくわからなかった。ただ、自分を隠してまで苦しんでいる彼女を、そのまま見送る気にはならなかった。

「僕にはわかる。君が、本当に優しいことが。優しすぎるってことが。だからこそ、向き合った罪の重さが、本当の気持ちを覆い隠している。全部自分のせいだから仕方ないって、思いこもうとしている。そんなのは、本当の思いじゃないよ」

 魔女は、何も言わずにラインハルトを見つめてきた。

 少しの間、沈黙が流れる。ラインハルトも魔女も、決して視線を外そうとはしない。

「……救われたい」

 ぽつりと、魔女が呟いた。

「わたしだって、救われたいよ。誰かを憎むのも、誰かを殺すのも、誰かに疎まれるのも、もうたくさんなの。みんな、終わりにしたい」

「それが答えだ。君自身の、本当の答えだ」

 ラインハルトは、震える魔女の体をそっと抱きしめた。

 どうしてそうしたのかは、自分でもわからない。けれども、今はそうしなければならない気が、ラインハルトにはしていた。

 魔女は驚いていたようだが、されるがままにラインハルトに体を預けている。

「……優しいね、あなたは。そんなあなただから、アリーは惹かれるんだろうね」

 呟くように言った魔女の言葉を、ラインハルトは聞き取ることができなかった。

「ねえ、あなたの大切な人って、もしかしてアリーなのかな?」

「なっ!?」

 不意に言われて、ラインハルトは大いに焦った。何とか取り繕おうにも、顔がどんどん熱くなるばかりで、どうしようもない。

 見上げる魔女が、青白い顔をしながらも、くすくすと笑った。

「やっぱり、そうなんだ。アリーには、ちゃんと想いを伝えたの?」

「ま、まだだよ」

「どうして? こんなに大変な時なのに、どうして言わないの? いつ機会が失われても、おかしくないんだよ」

「そ、それは決まっているだろう」

 動揺しているせいか、自分が何を言おうとしているのか理解しないまま、ラインハルトは言葉を紡いでしまった。

「今日、言うつもりだったんだ。……アリーのことを、誰よりも愛してるって」

 言ってから、自分が何を口走ったのかに気づき、ラインハルトは激しく動揺した。

「ちゃんと、聞いたよ? 約束だからね」

 いたずらっぽく笑みを浮かべながら、魔女が言った。

 ラインハルトは動揺したまま、何も言えずに彼女を見つめることしかできなかった。

 笑みを浮かべていた魔女の顔から、ふとそれが消えた。表情は、もう何もない。

「……もう、帰るよ。バイバイ、グランツ。あなたが大切な人を守り切れるのを、わたしは祈ってるよ」

 魔女が瞳を閉ざし、彼女の体から力が抜けた。同時に、この場の空気が一気に軽くなっていく。

 ラインハルトは、小さく息を吐いた。強張っていた体が、少しだけ緩んでいく。

 ふと視線を落とすと、アリーが静かな寝息を立てているのが目に入った。もう、さっきまでの刺々しさはない。ラインハルトは、ほっと胸を撫で下ろした。

 しかし、アリーの寝顔を見ていると、ラインハルトは妙にどぎまぎしてしまう。さっきの言葉のこともあってか、顔が異常に熱い。

「約束、か。約束だったら、守らなきゃいけないよな」

 溜息交じりに呟き、それでもラインハルトは心を決めた。

 いつか、向き合わなければいけないことだった。その日が、思いがけずにやってきただけに過ぎない。

 ただその前に、自分が言えなかったことを言わなければならない、とラインハルトは思った。自分に婚約者がいる。それを秘密にしたままでは、アリーを裏切ることと変わらない。

「……そういや、彼女とも約束していたんだっけ」

 不意にクリスティーナの笑顔が頭に浮かんで、胸がチクリと痛んだが、ラインハルトはそれをすぐに振り払った。自分が何を大事にするのかは、もう決めたのだ。

 気づけば日が暮れ、宵闇が遠くを覆い始めている。アリーの華奢な体を抱き上げ、ラインハルトは家屋へと向かった。

 軋む戸を開けた時、その音に紛れさせるように、ラインハルトはそっと呟く。

「守るさ、僕が。アリーのことは、必ず」

 自分に言い聞かせたその言葉は誰にも聞かれることはなく、戸の閉まる音に掻き消された。

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