7-10
束の間の安らぎの時を、ラインハルトはすぐに振り払った。
アリーが湖を覗き込んでいる間、ラインハルトは油断することなく、辺りの様子を窺っていた。
ラインハルトから見て右の方に、古い家屋が一軒佇んでいる。手入れする者がいなくなって久しいのか、窓のガラスにはいくつかひびが入っていて、そっと開けた入り口の扉は、ひどく軋んだ音を立てた。中も、いくらか埃のにおいがする。
左の方は、森が広がったままになっている。先程まで通っていた道と違って、そこは全く手入れされてなく、木々や茂みが好き勝手に伸びたままだった。イデアルを駆けさせることは疎か、ゆっくりと進めるのも困難を極めるだろう。
そして前方は、今目にしている湖だ。そこまで広くはないとはいえ、湖に沿って前へと進んでも、その先は左方に広がっている森の光景と何ら変わりなかった。
「逃げ道は、ないか。ここで襲われたら、逃げ切るのは難しいな」
口の中で独り言ち、ラインハルトは小さく舌打ちした。
地図を眺めてみると、ここは目的の村のある場所からは大分かけ離れているようだった。だが、日が暮れている以上、今日はこの場で一夜を過ごすしかない。ここには寝泊まりできそうな家屋があるが、さらなる追手が襲ってこないとも限らない。こんな森の中にだって、十人以上の追手が差し向けられたのだ。いつまで経っても戻って来ない部隊に異常を感じて、もっと大人数が森に踏み込んでくるかもしれない。そうなったら、家屋の中にいた場合は籠城するしかなくなる。
そうなった場合、アリーを守りきる自信が、ラインハルトにはなかった。この前の村での一件以来、自分の実力を信じられなくなっている。
どんなに息巻いても、結局あと一歩で死ぬ寸前まで、追い詰められてしまった。守ると誓ったのに、結局守るべきアリーに守られてしまった。
そればかりか、優しい彼女の手を、不似合いな血の色で染めさせてしまった。
「……駄目だな、僕は。こんなことじゃ、またアリーを泣かせてしまう」
自分の後ろ向きな思いを振り払うかのように、ラインハルトは一度大きく息を吐いた。そして、両の手で一度、頬を思い切り叩く。乾いた音が、高々と響いた。
頬がひりひりとしたが、その甲斐もあってか、頭の中は妙にすっきりとした。今度こそ、何があってもアリーを守る。ただそれだけでいい、とラインハルトは思った。
そう思い至ると、小屋の中でもいいかという思いが、ラインハルトにすり寄って来る。思えば、ここ最近は野宿ばかりで、アリーをしっかり休ませてあげられていない。腰を据えてしまえば、襲われた時の退路は限られるが、それは外にいてもあまり変わらないかもしれない。外だって、逃げ道は殆どない。どこにいたって、結局は戦い、切り抜けるしかないのだ。
――覚悟を決めろよ、ラインハルト。
自分自身を鼓舞して、ラインハルトはもう一度大きく息を吐いた。
ふと視線をずらし、アリーのほうへと向ける。音に反応することもなく、アリーはまだ、湖を覗き込んだままだ。
「アリー、ちょっといいかな」
アリーにも、これからどうするかを聞こうと思い、ラインハルトは声をかけた。
しかし、返事がない。アリーは、その姿勢のまま、じっと動かない。
「アリー?」
訝しみながら、もう一度声をかけた。アリーが、こちらに背を向けたまま、ゆっくりと立ち上がる。
聞こえていなかっただけか、とラインハルトが安心したのも、束の間だった。今度はぼんやりと立ち尽くす彼女に、ラインハルトはさすがに違和感を覚えた。
「どうしたんだい、アリー?」
問いかけるように声をかけると、アリーがゆっくりと振り返った。半ば閉じた双眸が、それでもラインハルトをしっかりと見つめてくる。
ラインハルトは、不意に背筋が寒くなった。冷たい嫌な汗も、体を伝っていく。
アリーじゃない。直感的に、ラインハルトはそう思った。
「あなたは」
アリーの口から、少し驚いたような声が漏れた。やはり、アリーではない。漏れ出た声は、アリーのものよりほんの少し低い気がする。
「グランツ、なの? どうして、ここに?」
自身の家の名を呼ばれて、ラインハルトは少したじろいだ。
ラインハルトは名家の生まれであるから、それが知られていて呼ばれる分には何ら驚くことはない。しかし彼女の言葉には、明らかに名を知っているだけではない響きがあった。
驚いたような顔をしていた彼女が、不意に自嘲気味に笑った。
「……何言ってるんだろ、わたし。あなたは、わたしが知ってるグランツのはずがないのに」
でも似てるな、と魔女は少しだけ嬉しそうに言った。
「君はもしかして」
あることに気づき、ハッとしながらも、ラインハルトは半ば信じられずにいた。
「……魔女、なのか?」
一瞬言い淀んだが、ラインハルトが恐る恐る言うと、彼女は少し寂しそうな笑みを浮かべながら小さく頷いた。
ラインハルトは一歩後ろによろめき、思わず額を押さえた。
アリーの言葉が、鮮烈に蘇る。私は、ただの入れ物。信じたくないが、それが本当だとしたら。目の前にいるのが魔女であるならば、アリーはどうしたのか。アリーは、もういないのか。
いないならば、自分が今すべきことは何なのか。
「安心して。大丈夫だから。アリーは、ちゃんといるから」
ラインハルトの心を読んだように、魔女がはっきりとした口調で言った。
それを鵜呑みにするほど、ラインハルトは単純ではない。それでも、無意識のうちに剣へと伸ばしていた手を、ラインハルトはとどまらせた。
ラインハルトは、じっと魔女を見つめる。魔女が、不安そうに顔を伏せた。
色々と疑問に思うことはあるが、ラインハルトは真っ先に気になったことを問いかける。
「君は、アリーの体を奪ったのか?」
「違う。わたしはアリーに頼んで、体を借りたの。信じてもらえないかもしれないけど」
顔を上げ、不安に揺れる瞳を、魔女が向けてくる。少しの間、ラインハルトのそれと交わり合った。
覗き込む瞳の奥に、嘘はない。悪意もない。少なくとも今目の前にいる人物は、信用してもいいかもしれない、とラインハルトは思った。
「……信じるよ。君に、害意は感じないから」
「えっ、あっ、うん。ありがと」
妙に慌てながら、魔女が言った。
「どうしたんだ? 僕が信用したのが、そんなに意外か?」
「う、うん。だって、信じてもらえるはずがないと思ってたから。わたしみたいに狂った魔女なんて、信用されるはずがないから」
「それを決めるのは君じゃないな。少なくとも、この場ではね」
ラインハルトの言葉に、魔女が最初より少しだけ目を開いて、ぱちくりさせた。そして、小さく口を動かす。変わった人。そう言ったような気がしたが、はっきりとは聞こえなかった。
「君は狂ったと言ったが、そうは見えないな」
「今は、正気だよ。あの子といると、不思議と長く正気を保てる。と言っても、狂気に支配される時も、なくはないけれど」
「じゃあ、今はちゃんと話せるんだね」
ラインハルトは、魔女の近くまで歩み寄った。
「色々聞きたいことはあるけれど」
そう前置きしてから、ラインハルトは言葉を続けた。
「君はどうして、わざわざアリーの体を借りて、表に出てきたんだ?」
「あなたと話すためだよ、グランツ」
魔女が、どこか嬉しそうに言う。
声は若干違うが、言い方がアリーを彷彿とさせる。それが少し引っかかったが、ラインハルトはなるべく気にしないようにした。
「僕と? 何故」
「あなたのことが知りたくなったの。あなたという存在がいるから、アリーは強くいられる。だから、気になったの」
「強くいられるって、アリーはやっぱり、苦しんでるのか?」
「……そうだね。魔女の記憶を思い出して、心を痛めるばかりか、わたしや巫女だった子に誘惑されて、それを必死に払いのけたりしてる。誰にも助けを求められないから、たくさん苦しんでるはずだよ」
表情を曇らせ、魔女が弱弱しい声で言った。
「やっぱりそうか……。アリーは、僕の知らないところで戦っていたんだね」
アリーの苦難を思うと胸が痛んだが、それ以上にその元凶が目の前にいると思うと、ラインハルトは強い苛立ちを覚えずにはいられなかった。
しかし、魔女は問い質す前から既に萎れた感じになっている。そんな彼女に、自分の気持ちをぶつけることが、ラインハルトにはどうしてもできなかった。
「教えてくれ。どうして、アリーなんだ? どうしてアリーじゃないと、いけないんだ?」
「アリーが、わたしの生まれ変わりだからだよ」
魔女が、訥々と話し始めた。
自身が呪われた魔法そのものであること。魔力がなければ生きられないこと。その魔力を真に使うためには生身の体が必要であること。そして、その体を得るために、魔王を利用したこと。
アリーの父親である魔王が魔女の魔力を吸収した時から、魔女は自身が生まれるための画策を始めた。魔王に頭の中から語り掛け、人間の女性と巡り合うように、誘導していったという。結果として、魔王は人間と結ばれ、魔女の肉体となるはずの子どもが生まれた。それが、アリーだった。
しかし、アリーには魔力がなかった。なかったからこそ、魔女の書に出会うまで、アリーはアリーのままでいられた。魔女の生まれ変わりという現実に、向き合うこともなかった。
それらのことを、魔女は何度か頭を押さえて顔をしかめながら言った。
「でも、結局彼女は選ばれてしまった。わたしの、魔女の書に」
「アリーがいつも読んでいる本が、この現実を引き寄せてしまったのか」
「多分ね。でも、遅かれ早かれ、こうなったかもしれない。アリーは、いつも寂しくしていたみたいだから。あの本や、あなたに出会わなかったら、きっと他の巫女みたいになってたと思う」
「君に体を奪われ、殺されていたってことか?」
「ううん。わたしの魔女の記憶に呑み込まれ、自我を失くすことだよ。魔力がなくたって、アリー自身は魔女に最も近い存在だったのだから」
魔女が、沈痛な面持ちで 言った。
ラインハルトが続けて言おうとした時、魔女がまた頭を押さえて、小さく呻いた。顔色が、あまりよくない。瞳に宿る力も、相当に弱弱しい。それなのに、時折放つ気配は、妙に刺々しいものを孕んでいるように感じられた。
これ以上、魔女のことを聞くのはやめた方がいいかもしれない。直感的に、ラインハルトはそう思った。おそらく、魔女は自身の傷に触れるたびに、何かに襲われている。
本当は、大昔に何があったのかも知りたかった。しかし、万が一にも今、魔女が狂気に呑まれでもしたら、アリーは二度と戻って来ない気がしてならない。
自分の気持ちを無理やり押さえつけ、ラインハルトは魔女が落ち着くのを待った。
少ししてから、魔女が頭から手を離した。ラインハルトに向ける表情は、どこか落ち着いたものになっている。
「……今度は、わたしに質問させてほしいな」
少し青い顔に精一杯だろう笑顔を浮かべながら、魔女が優しい声で言った。
「どうして、あなたはアリーと一緒に居続けられるの? あの子には、危険ばかりが付き纏うのに。一緒にいるだけで、命を狙われるかもしれないのに」
「そうだね。確かに何度か襲われたし、実際に死にかけた。だけど僕は、そんな危険が向かって来ようとも、アリーを守りたい。いや、守らなきゃいけないんだ」
「どうして? どうしてそんなにはっきり言えるの?」
「どうしてって、決まってるじゃないか」
ずっと一緒にいたいから、と言いかけて、ラインハルトは寸でのところでその言葉を呑み込んだ。その言葉は、できることなら本人に届けたい。
ラインハルトはほんの少しだけ考え、代わりの言葉を口にした。
「たった一人の大切な人を守れない男が、この国を変えられるわけがないからだよ」
「国を、変える……?」
「うん。僕の、いや、僕らの理想さ」
ラインハルトは、親友と交わした目指すべき理想を語った。
誰もが心穏やかに暮らせる、差別のない国を作る。それは幻想と言っていいほどの、あまりにも遠すぎる理想。しかしラインハルトは、その夢を力強く語った。
人間族だとか魔族だとか混血児だとか、そんなことは関係ない。貴族もそうでない人も、関係ない。皆、生きている。この国で、確かに生きている。それを蔑ろにしていい理由など、あるはずがない。
しかし、現実はそうではない。人が人を蔑み、妬み、憎み、苦しませる。それが間違いだと、殆どの人が思ってもいない。
だから、この国を変えなければならない。今はまだ、その方法も勝ち取った未来の姿も思い描けていないが、変えなければならないという意識だけは、胸の奥にしっかりと刻み込んでいる。
ラインハルトが語っている間、魔女は何かを思い出すように、目をつぶって話を聞いていた。
話し終えても、少しの間魔女は何も言わなかった。ラインハルトも、想念の邪魔にならないように口を閉ざした。
「……あなたも、追ってるんだね。叶いっこない、理想を」
魔女がそっと目を開き、悲しげな響きを持つ声で呟くように言った。
ラインハルトは、尚も何も言わずに次の言葉を待った。
「わたしもね、魔女になる前はあなたみたいな理想を抱いて、頑張ってた。この国は心がとても寂しいから、何とかしなくちゃ、ってね。それで、頑張って頑張って、一時は平和な時が訪れたんだよ。わたしの理想が、ほんのちょっと叶ったの」
でもね、と魔女がまた頭を押さえながら言葉を継いだ。
「大切な人が、ひどい裏切りにあって死んだの。あいつらが、自分の欲望のために、その人を殺したの」
魔女の瞳から、一筋の涙が零れる。
「……辛かったな、悲しかったな。理想は所詮夢なんだって、わたしはあの時思ったよ。夢は、いつか醒める。醒めれば、もう終わりなんだよ。同じ夢の続きは、二度と見れない」
「そんなこと」
「ないって、言い切れる? あなたがもしも同じ境遇に立たされても、まだこの国のために一から頑張れる? 同じ夢を、抱いたままでいられる?」
私は無理だったよ、と魔女が悲しそうに言った。
ラインハルトは、何も言えなかった。後ろ向きな想定をしたことがなくて、そうなった場合の絵面が、咄嗟には思い浮かばなかった。
それでも何とか考えようとしたが、魔女が先に言葉を続けて、ラインハルトは思考を止めざるを得なかった。
「教えて。もしもあなたが大切な人を失ったら、どうする? まだ、頑張るの?」
魔女の、真っ赤な瞳がラインハルトを覗き込んでくる。それから逃れるように、ラインハルトは瞳を伏せた。
もしも、アリーを失ったら。考えただけで、ラインハルトの胸はずきりと痛んだ。ジョシュアの時とはまた違う、鋭い痛み。彼女まで失ってしまったら、もしかしなくてもラインハルトは歩みを止めてしまうかもしれない。
「……僕は」
頑張れないかもしれない。そう口にしようとした時、ジョシュアの言葉が唐突に頭をよぎった。
――絶対に、忘れないでくれよ。俺たちが抱いた、遠い理想を。
今でも忘れない、ジョシュアの最期の言葉。失ってはならない、絶対の約束。
それが、ラインハルトの弱気を払いのける。温かな勇気が、体の内側から湧き上がる。
――そうだね、ジョシュア。忘れるわけには、いかないよな。
脳裏に蘇るジョシュアの顔に向けて、ラインハルトは心の中で強く思った。




